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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)肉料理あれこれ

 「タオルと造船の町」今治市は、高縄(たかなわ)半島の北東海岸に位置し、タオルを中心とする繊維製品製造業、造船を中心とする輸送用機械製造業などが有名である。農業は主に稲作であるが、ミカン、近郊野菜、庭木などの栽培も盛んである。水産業では小型底引網や一本釣りでマダイやカサゴ、メバル、エビなどを水揚げしている。

 ア 町と近郊のくらし

 今治市郊外で現在も農業を続け、米や果樹を栽培している**さん(今治市高橋(たかはし) 昭和4年生まれ)に子どものころのくらしや結婚後の農作業などについて聞いた。
 「かつて、父は東京の帝国ホテルで調理師として勤めていました。ちょうど外国に留学して西洋料理を勉強しようという意欲に燃えているとき、大正12年(1923年)に起こった関東大震災で被害に遭い、すべてを断念して今治に帰郷したそうです。当時、いとこが第二尋常小学校(現在の美須賀小学校)に勤務しており、『子どもの栄養不良が問われているので、ここに落ち着いて力を貸してほしい。』と頼まれて学校での栄養食指導を始めました。しかし、現在の学校給食とは異なり希望生徒のみで、わずかな数にしかならなかったと聞いています。
 私が第三尋常小学校(現在の日吉小学校)に入学した時、父が担任の先生に『偏食がひどいので、学校での栄養食を食べさせてほしい。』と申し出ていました。そのため家ではわがままを言って食べなかったものでも、泣きながら口にするようになりました。献立は米・麦と地元の旬の野菜や魚、鶏肉などを使って作られていました。お陰でひ弱な体が元気になり、陸上競技で四国大会へ進出することが出来ました。成長期は栄養のバランスと適度の運動が大切で、73歳になった今でも30kg程度の荷物なら持ち運ぶことが出来ます。また、幸いにも父の仕事柄、戦時中でも近所の人が米や野菜を届けてくれたので、お腹をすかせたことは余りありませんでした。
 昭和31年(1956年)に結婚して農業を営み、米や麦、果樹を栽培しましたが、それまで農業の経験がなく、農機具や作物名など分からなくて大変苦労をしました。また、田植えの時期になると夕飯を終えてから月明かりで苗をとり、片付けを終えると午前1時ころになっていました。翌朝早く夫が田の水の見回りをしてから朝食をとるので、少し眠ると起きだして食事の準備をしなければなりませんでした。米や麦の脱穀も家で行いました。秋にはみかんを天秤(てんびん)棒で担(かつ)いで畑から下ろし、荷車で運びました。特に夫が足の骨折の大怪我(けが)をしたときには、1町(1ha)余りの土地を女手一人で守り、耕うん機を使って耕作しました。キュウリ・ナス・ウリ・カボチャ・ニンジン・ダイコン・タマネギ・ジャガイモ・豆類などを栽培し、豆腐、味噌も自家製でした。
 普段の1日の食事回数は3回でしたが、農繁期だけは4回とりました。おやつは蒸かしいも・ひがしやま・おはぎ・はちの巣(小麦粉に重曹と水を加え、かき混ぜて焼いたもの)・芋飴(いもあめ)・あられ・炒(い)ったダイズやソラマメ・焼き米(もみ播(ま)きの後残ったもみをホウロクで炒りもみ殻をとったもの)・ジャガイモやサトイモ・枝豆の塩茹でなどでした。また野山に遊びに行き、ヤマモモ・イタドリ・ノイチゴ・シャシャブ・クワの実・スイバ・ツバナなどを食べて楽しみました。
 野草などの植物も食材や薬としてよく利用し、特に野草は貴重な食品でした。セリ・ミツバ・ノビルなどは湯がいて和え物にし、サツマイモの茎や葉は油で炒(いた)めたり、湯がいておひたしにして食べました。また、ヨモギは血止めや乾燥させてあせもの防止に、ゲンノショウコは腸の薬、ジュウヤクは毒下し、オオバコは熱ざましなどに使用しました。」
 調理師の**さん(今治市共栄町 大正9年生まれ)に話を聞いた。
 「尋常高等小学校を卒業後、調理師を志し、18歳のとき上京しました。21歳で徴兵(国民を徴集して兵士とすること)され、ビルマ(現ミャンマー)から帰還後29歳で今治に帰郷し、以後調理師の道を歩んできました。
 子どものころの日常の食事は、麦に少し米の混ざったご飯で、おかずはダイコン・ゴボウ・ハクサイ・エンドウ・ソラマメなどが中心でした。魚はイワシやサバなどの青物が少し付いていました。また、川に遊びに行っては川ガニやフナ、ドンコなどを捕まえて食べ、たんぱく源にしていたと思います。祭りや結婚式、葬儀や法事などの時には近所の主婦が集まって、すしやおはぎ、かしわ餅、うどんなどを作り、これらを食べるのが楽しみでした。氷使用の冷蔵庫は昭和初期(昭和7、8年)ころから使われ始めていましたが、各家庭で購入するのは経済的に無理なため、祭りの食材であるタイは浜焼きにし、いぎす豆腐は味噌漬けに、魚の身は灰汁(あく)で洗って保存しました。」

 イ 肉料理を味わう

 今治市や周辺の町村で食される肉料理は、せんざんき(写真3-1-12参照)、焼鳥、ぼっかけ汁、すき焼き、けんちん汁、茶わん蒸し、肉と糸ごんにゃくの煮物など種類が豊富である。
 この地方の肉料理の歴史は古く、約300年ほど前から近見山でとれるキジの肉を使った空揚(からあ)げが作られていた。その後、昭和初期に大阪で修業をした後今治に帰郷し、料理店で働いていた青野鬼四郎氏が「せんざんき」と呼ばれるニワトリの空揚げを考案したと伝えられている。研究熱心な彼は、ニワトリを料理する時、骨に残っている肉を何とかおいしく食べさせようとして、しょうゆ味のたれに漬け込み、空揚げにして「せんざんき」と命名した。戦後、これを習った杉山正夫さんはせんざんきの専門店を開店した(⑩)。現在、せんざんきは全国的に「鳥の空揚げ」として知られている。下味を効かせ、からっと揚がったせんざんきは、とても美味(びみ)である。
 また、今治市は日本一の焼鳥の町と言われ、鳥肉を使った焼鳥屋の数が日本で最も多く、平成11年(1999年)3月今治商店街を中心に「焼鳥日本一宣言」を行った。
 ぼっかけ汁もしばしば作られるが、作り方は、鍋に鶏肉とゴボウ・ダイコン・ニンジンのそぎ切り、短冊に刻んだ油揚げを入れる。水を多めに加え砂糖と醬油で味をつけ、豆腐を入れると出来上がる。しかし地域によって具はさまざまで、鶏肉、えそ団子(だんご)の定番以外にも今治市ではトリカイやキジの肉を使ったり、玉川町ではイノシシの肉を使う場合もある。磯(いそ)の小さいカキを入れても味が良い。
 肉料理について、**さんは、「鶏肉を使った料理を多く作りましたが、それも家で飼っていたニワトリをつぶして使用しました。空揚げは子どもの時から食べていましたし、けんちん汁は年間を通じて作りました。けんちん汁の具材は、鶏肉・サトイモ・ゴボウ・ニンジン・ダイコン・ネギ・こんにゃく・豆腐などでした。肉とゴボウを使ったぼっかけ汁や肉と糸ごんにゃくの煮物、すき焼きなども時には食べました。お祝い事にはよく鶏肉を入れた茶わん蒸しも作りました。」と言う。
 また**さんは、「今治の郷土料理であるせんざんきは、廃鶏(はいけい)を使用していました。廃鶏の肉は現在のブロイラーより固いので、食べやすくするためにたれに漬けて揚げました。せんざんきの味は昔と今とでは異なっています。」と言う。

写真3-1-12 せんざんき(肉料理)

写真3-1-12 せんざんき(肉料理)

今治市高橋。平成15年11月撮影