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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(3)保存食あれこれ

 三間盆地は、南予地方では宇和盆地と並ぶ水田地帯で、三間米の産地として知られてきた。『三間町誌』によると三間町の食の様子について次のように記している。
 「藩政時代の庶民の食事は、きわめて質素であった。主食は主として七分麦飯で、時には粥(かゆ)・雑炊(ぞうすい)・ハッタイ(チラシ)を食べていた。甘藷(かんしょ)(サツマイモ)が栽培されるようになってからは、農家には欠かせない食料となった。副食物は、手作りの野菜に限られ、保存食の味噌・漬物等が主であった。農家では生魚を買うのは祭りや特別の客事に決まっており、祭りの時でも大抵は野菜と豆腐・こんにゃくで、魚類は僅(わず)か数尾を用いたくらいであった。明治・大正の時代に入ると、庶民の食生活も次第によくなってきた。(中略)この頃になると、農家の食卓にも魚の目ざし・ひらき・海干(かいぼし)等の乾魚や塩魚、時にはサバ・イワシ等の生魚が用いられるようになった。吉田から十本松峠を越えて魚売りに来る行商の姿も毎日見るようになってきた。農業に従事する人たちは、朝・昼・夕食以外に『オコンマ』といって、午後2時頃にも食事をとり、都合四食を普通とした。また家庭によっては個人別の食器・茶碗・小皿・湯呑(ゆのみ)・箸(はし)を膳箱(ぜんばこ)に入れて個々が管理し、食事のときは戸棚から持ち出して使用した(⑥)。」

 ア 材料の確保に

 南予一帯でクジュウナとかクジュナと呼ぶ食材がある。これは、クマツヅラ科の落葉かん木のクサギのことで、葉が桐に似ているところから臭桐(くさぎり)とも呼ばれる。この木の若葉が食用として南予一帯で伝統的に使われてきた。独特の臭みがあって好き嫌いがあるが、慣れるとこの臭みが魅力になるようである。中予、東予では見向きもされない食材である。
 クジュウナをよく利用してきた**さん(三間町黒井地 昭和6年生まれ)に、太平洋戦争前~昭和20年代の食材を確保するための苦労などについて聞いた。
 「私は、この土地に生まれ、この土地で育ちました。昔なつかしい料理といえば母がよく作ってくれた料理ということになりますが、その一つにクジュウナを調理したものがありました。戦後間もない時期で、調味料も食材も余りありませんでしたから、クジュウナを塩でもんで、醤油といりこのだしで炊いた簡単なものでした。いまだにそれが忘れられずに4月ころになるとクジュウナを採ってよく料理しています。クジュウナの若葉を塩もみして、水にさらして梅干しを入れて煮詰めてつくだ煮のようにしています。生の葉のときはきついにおいがしますが、これが不思議なことに煮るとこの臭みがなくなります。今であれば冷蔵庫で保存しますが、当時はそのようなものもありませんので、クジュウナを乾燥し、保存して食材として使っていました。
 保存食作りといえば乾燥させるということでした。蚕(かいこ)を飼うときの蚕盆に干して使っていました。ダイズなどの豆類は自給自足でしたから、煮豆をよく作って食べさせてくれたのを覚えています。これは昭和の10年代であったと思います。母の作った料理はとても懐かしくて今でもよく覚えています。
 太平洋戦争終戦前や戦後しばらくの時代はイモ、カボチャが主食のようになっていました。生のサツマイモを薄く切って干して、乾燥させたものを細かく切ってそれをご飯のように炊いて食べたこともあります。」

 イ 女性の腕の見せ所

 昭和49年(1974年)から活動している三間町栄養学級むつみ会は、遍路への接待活動や花いっぱい運動のボランティア活動、食生活改善のための活動など、三間町でさまざまな活動を続けてきたグループである。そのグループの13名の人々にかつての食生活の様子などについて聞いた。
 「私たちが子どものころ(大正後半~昭和10年代)は、本当に質素な生活でした。この地域では、農家の食事は1日4回が普通でした。給料生活者や商家は1日3食だったと思います。
 農家は朝早く朝食をとり仕事に出かけ、午前10時ころが昼食、午後2時~3時ころがおこんまという食事、夜暗くなってから夕食だったと思います。昭和30年代半ばまでこのような食事回数でした。おこんまは、間(あいだ)の食事という意味か、午(うま)の刻(こく)(真昼の12時)のことでしょうか。農家のおこんまは、大きなお釜で蒸したさつまいもでした。蒸すときには、すり鉢でふたをし、お釜の底にお茶碗(ちゃわん)などを伏せて、茶碗の高さまで水を入れて、その上にイモを入れて蒸していました。
 朝は、漬物、味噌汁、野菜を煮たものぐらいで、昼も新たな料理を作る余裕などありませんから、朝と同じようなものでした。魚は、夕食の時の何日かに1回、行商で売りに来たイワシなどを買って食卓に出す程度でした。今では天ぷらなど手軽に食べることが出来ますが、戦前はこれも貴重品でした。
 米を作っていない家庭は配給に頼っていた時代がありました。コウリャンや芽の出た古背(ふるせ)イモ(旬(しゅん)をすぎて古くなったイモ)や大豆かすなどの配給がありましたが、子どもが多く配給品だけでは到底生活は出来ませんでした。そうかといって、買うお金もありませんでしたから、自分の分を食べずに子どもに回した結果、自分が一時栄養失調になったこともあります。削り節(花かつお)の粉が安かったのではったい粉に混ぜたり、いりこを粉にして子どもに食べさせていたこともありました。
 自家製の味噌、醤油作りや乾燥させた山菜・野菜などをいかに長期間保存できるか、いかに食材として長持ちさせるかが主婦の腕の見せ所というか、生活の知恵でした。季節の野菜を乾燥したりして保存のきくものは保存して、一年間使えるようにするのが主婦の努めでした。
 農家は忙しかったので、今日の食事の献立をどうしようなどと考える暇がありませんでした。女性は子育てに忙しくても、田に行く時は男の人と同じに働かなくてはなりませんでした。食事について考えたり、研究したりする暇はなかったと思います。食の事を考えられるようになったのは終戦後になって社会が安定してからのことです。
 2か月に一度のお庚申(こうしん)様(干支(えと)の庚申の日に行う民俗的祭事)は、炊き混ぜのご飯があったので待ち遠しかったです。天ぷらやダイコン・ニンジン・ゴボウ・サトイモなどを入れて醤油で味を付けた、白米の炊き込みご飯でした。炊き立てのご飯を、最初に神棚に供えて感謝の意を表して自分たちもいただきました。 
 昭和の初めごろ、いりこは大きな袋に入ったものを買って使っていました。冬になったら数の子の乾燥したものをたくさん買って醤油漬けなどにして食べていました。
 戦前は塩を大きなかますで購入していました。その塩の袋の下に大きな桶を置いて、したたり落ちるにがりを採り、そのにがりを利用して豆腐を作っていました。ダイズを臼で挽いて豆腐を作りましたが、やはり“何か事”に多く使ったと思います。女性の腕の見せ所は基本的に、食材をいかに長持ちさせて食材として生かして使えるかどうかであったと思います。
 子どものころ“陸エビ”をとって来いといわれて、田んぼにイナゴをとりに行かされ焼いてよく食べました。肉を買って食べることはありませんでしたが、ニワトリは大抵の家で飼っていましたからその肉を食べました。卵は病気のお見舞い品としてよく使っていました。
 お祭りなどの“何か事”の料理は、ニンジン・サトイモ・ゴボウ・レンコン・すぼ豆腐・ダイコン・寒天羊羹(ようかん)・かまぼこ・錦巻き・揚巻などを鉢盛にしていました。中心にダイコンを置いて、そのダイコンに花を差して周りにさまざまの食材を並べて、山盛りの鉢盛料理を作っていました。たいそうめん、フカのみがらしも祭りの定番でした。
 お祭りのご飯は、ばらずしが主でした。ばらずしはあまりお金もかかりませんからお祭りの定番でした。おこわとおすしは、お客様へのお土産として重箱に詰めて持って帰ってもらっていました。重箱のすしなどの上には鉢盛りの野菜などをきれいに並べて詰めていました。重箱には必ず名前が書いてあるのですがその意味が大人になって理解できました。お土産を入れてもらった重箱は、次のお祭りのときに祭りの料理を入れてお返しをするのです。お返しする食べ物がないときは、中にマッチ棒を“おとみ(*2)”として2~3本入れて返していました。マッチがそれだけ貴重品であったからでしょうか。
 お祭りになると、このような料理を作るのに寝る暇もないほど忙しかったのです。材料の仕込みや、大きなはんぼうにすしを作ったり、煮炊きをするのは嫁の仕事ですから、大変でした。」

 ウ 雷漬け

 カブを材料にした漬物は各地に郷土名産のかぶ漬けがある。『日本大百科全書』によると、天保年間(1830年~44年)に始められた京都の聖護院(しょうごいん)カブの千枚漬けや滋賀県の日野菜の桜漬け、長野県の野沢菜の漬物などは特に有名である(③)。そのようなカブの漬物に匹敵するといわれる漬物が松野町にある。
 北宇和郡松野町豊岡(とよおか)の雷(かみなり)漬けは、元宇和島藩富岡(とみおか)村(現松野町富岡)の庄屋であった**家で、太平洋戦争後、年間の保存食として、また来客用や贈答用の漬物として作っていたものであった。雷漬けという名前は、**家の**さん(松野町富岡 大正15年生まれ)によると、広見町の**さんが、明治末期に夫の仕事の関係で、台湾に住んでいた時、現地の人に供したところ、歯ざわりがパリパリとまるで雷のようだと評されたことに由来するという。太平洋戦争後、台湾から帰った**さんが、**家に嫁いでいた娘さんに引き取られて**家で生活する中でこの味を復活し、地元の方々に伝えたという。
 毎年11月終わりころ、寒い北風が吹き始めると、松野町豊岡では雷漬けの漬け込みが始まり、カブの白いすだれが並ぶ。
 松野町農協婦人部雷漬け加工所で雷漬けを作っている松野町豊岡の**さん(大正12年生まれ)、**さん(昭和15年生まれ)に雷漬けについて聞いた。 
 「松野町の商店で雷漬けを商品として販売を始めましたが、まもなく、その店が生産を中止し、このままなくしてしまうのも寂しいからと婦人会に話があり、**家のおばあさんに作り方を教えてもらって始めたのです。
 最初はこのような加工所がありませんでしたから、各家庭を転々として作っていました。昭和48年(1973年)から本格的に生産を始めました。58年にこの加工所が出来ました。最初はボランティアのようなものでした。材料はカブ、ユズ、だし昆布、醤油(しょうゆ)、砂糖、酢などです。カブを輪切りにし、かつらむきをして、長いものは2m程度になりますが、かんぴょうのように天日で干したものを長さ3cm程度に切って、ユズを入れた調味液に漬け込みます。雷漬けは冬の寒いときの作業が中心ですが、風が冷たいほどカブの風味を増し、味がよくなります。私たち自身で水田の裏作としてカブの生産をしています。カブを収穫し、洗って運ぶ力仕事は大変です。始めたころはユズを今ほどは作ってなかったので、手に入れるのに苦労しました。
 雷漬けはカブのかつらむきに一番時間がかかります。このかつらむきがなかなか難しく、はじめのうちは短く切れてしまって干すのに苦労したものです。全て手仕事ですから大量生産は出来ませんし、乾燥させるのも天気次第で、雨が降ったり、寒くならなければいいものが出来ません。寒い北風が吹き、雨が降らない、天日でいい感じに干しあがったときが嬉しいですね。」


*2:おとみ 昭和20年代の日本の家庭でよく見られた光景で、隣近所からのもらい物へのお返し。適当な物がなかった時
  に、一つまみのマッチ棒を添えて返したりした。当時はどこの家庭でもマッチは必需品であり、もらって使い道に困ること
  もなかった。