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えひめ、その食とくらし(平成15年度)

(1)ふるさとの茶

 ア 茶の伝播と栽培の歴史

 茶を飲む習慣は中国に始まり、全世界に伝播(でんぱ)・普及していったといわれる。飲料としての「茶」という文字の使用例は、中国唐代の書物『茶経』の中に見ることができる。
 日本における茶の歴史をひもといてみると、奈良時代に中国から入ったと考えられ、『正倉院文書』に、僧侶が茶を求めたとの記録が残されている。平安時代に入ると、延暦24年(805年)に最澄(*1)(767~822年)が茶の種子を、翌年の大同元年(806年)に空海(*2)(774~835年)が茶の種子と製造具を中国から持ち帰ったとも伝えられる。当時、中国で飲まれていたのは団茶(塊茶)と呼ばれる発酵茶であり、伝来した当初は、薬用効果を期待して朝廷や寺院でわずかに飲まれていたようである。
 その約400年後の建久2年(1191年)、僧栄西(*3)(1141~1215年)が南宋(なんそう)から茶の種子を持ち帰った。これも茶の薬用効果を求めたものであったが、以後の茶の飲用普及の発端になった。この茶は現在の抹茶(まっちゃ)の系統で、禅僧や上流階級の社交の具として愛好され、次第に茶道へと大成されていったのである。
 これに対して、一般に葉茶を湯で浸出(しんしゅつ)して飲む煎茶(せんちゃ)風の飲用は、江戸期になって始まり、これが日本人の好みにあって、一般庶民にも日常的な嗜好(しこう)飲料として茶を飲む習慣が広まっていった。
 江戸中期から後期にかけては、商品作物の一つとして茶の栽培を奨励する藩も出てきた。茶の栽培には、気候温暖で雨が多く、排水のよい台地や丘陵地が適地とされ、県内では、久万(くま)地域を領する松山藩が積極的に保護・奨励していた。また、野生の山茶に恵まれた県内各地でも広く栽培されていた。
 明治16年(1883年)に実施された県別農事調査では、愛媛県における茶の栽培・製茶の沿革の概要が分かる。それによると、東宇和(ひがしうわ)郡(東部土居(どい)、高川(たかがわ)、横林(よこばやし)地域)、北宇和(きたうわ)郡(東北部及び中央部の町村)、上浮穴(かみうけな)郡(久万地域の諸村)や喜多(きた)郡・大洲(おおず)近郊、また新居(にい)郡東部及び西部(現新居浜市及び西条市)などにおける茶についてふれ、前述のように久万地域で大いに保護奨励してきたとある(①)。このように県下の山間部で茶の栽培・製茶がなされてきたことが分かる。民俗学者の守屋毅氏は、「かつて一時期、愛媛は全国有数の茶業県だったのであり、これに高知県の数字を思慮に入れるなら、土佐・伊予にまたがる山の民の暮らしは茶とともにあったといえよう。(②)」とまで明言している。
 昭和10年代の後半に入り経済がひっ迫してくると、茶は不要不急の作物として甘藷(かんしょ)(サツマイモ)や麦類などの穀物への強制転作を迫られ、茶栽培は次第に衰退していき、昭和20年代になると、山地には国策としてスギやヒノキなどが植樹されて茶畑は決定的に減少する。さらに、現在では労働力不足などのため、茶の栽培・製茶は限られた地域だけで行われるようになった。

 イ 今に引き継がれる茶栽培

 かつて一大茶業県であった本県においても、戦中から戦後にかけて茶の栽培は大幅に減少した。現在、県内で銘茶として売り出されているものには、新宮(しんぐう)銘茶・久万銘茶・宇和銘茶・鬼北(きほく)銘茶などがある。
 前出の明治16年の農事調査には宇摩(うま)郡新宮村の茶についての記述が見られないが、この地域では、古くから主に自家用茶として手もみや天日(てんぴ)乾燥の番茶などが作られていた。新宮村が製茶地としての飛躍を見せるのは、村の振興策の一つとして、スギ・ヒノキなどの植林と茶栽培が位置づけられ、昭和29年(1954年)に静岡で選抜されたばかりのヤブキタ種を導入、当時は困難とされていた挿し木育苗に成功、村内に普及してからのことである(口絵参照)。現在、無農薬栽培にも成功した「新宮茶」は、山峡(さんきょう)独特の香気と深い味わいで、全国に通じるブランドとして知られるようになった。
 かつて上浮穴郡一帯から生産される茶が数万斤(きん)(1斤=約600g)にも及び、重要な産物として松山へ流通していったといわれる。この久万地域は、戦後、林業の成立と発展で大きく変貌し、「久万茶」の生産地として全国的にもその名を知られるが、茶の栽培面積は大きく減少している。
 宇和盆地(標高215m前後)は、気候が温暖で雨量や地形・土壌に恵まれ、また昼間と夜間の気温差が大きく霧の発生が多いため、古くから香りや味の良い良質の茶の栽培が行われ、地元はもとより県内外に「宇和茶」としてその名が知られてきた。
 「鬼北銘茶」として知られるようになったのが、主に北宇和郡松野(まつの)町で生産される茶である。この地方では、畑や野道の畦(あぜ)の作物として古くから栽培されていた。戦後、新たに茶業組合が結成され、昭和31年(1956年)新宮村からヤブキタ種を取り入れ、清流四万十(しまんと)川の上流広見(ひろみ)川(吉野川)沿いの気候と土壌を生かし、丘陵地帯に茶を栽培(写真4-1参照)、良質の茶を生産し、「銘茶まつの」の名を高めている。

 ウ 庶民の飲料「番茶」

 茶(番茶も含む。)には、「釜炒(かまい)り」製や「蒸し」製などがあるが、民俗学者の中村羊一郎氏は、「番茶は現在でも西日本の各地の自家用茶に見られ、釜で炒った生葉(なまば)を筵(むしろ)や笊(ざる)の上で揉(も)んで天日に干し、煮出して利用するのが普通である。(③)」と述べ、また「番茶は飲用のほかに、茶粥(ちゃがゆ)や茶漬など基本的な調理法として広く利用されてきたため、間食のことをチャと呼ぶなど、茶という言葉が軽い食事の代名詞となった。(③)」と番茶と食とのかかわりを記している。
 また、食文化研究家の薦田道子氏は、「日常食後に飲む茶は昔は玄米茶・麦茶で、食後の茶碗(ちゃわん)に少量の茶湯を注ぎ、茶碗と箸(はし)を清める意味で茶碗の中で洗い、その湯茶を飲んだ。来客用には番茶を注ぎ供したが、茶の葉を晒(さらし)の布袋に入れ、湯の中に浸し炊き出したものである。(④)」と食後の湯茶の飲み方と番茶での接待の様子を記している。
 煎茶(せんちゃ)の加工過程で除去される荒葉・茎・小枝などから作られた番茶は、煎茶とは異なり、十分に熱を加え煮出して飲用する。そのため、葉緑素が分解して褐色となり、特有の香気をもっている。さらに、番茶をあぶってからからに炒ったほうじ茶や、籾殻(もみがら)を取り除いただけの玄米を炒って番茶などと配合した玄米茶なども飲用されてきた。

 (ア)茶の木に恵まれた山地

 茶は温帯~熱帯産の植物であり、わが国の多くの地方で栽培が可能である。自生の山茶に恵まれた県内の各地では、釜炒り番茶として自給することができた。
 宇和島(うわじま)市の東部に位置する南予地域(県の南部)の最高峰鬼ヶ城(おにがじょう)(標高1,151m)山系の北山ろくにある鬼北盆地の一角に位置する北宇和郡広見(ひろみ)町畔屋(あぜや)地区の**さん(大正9年生まれ)と**さん(大正10年生まれ)は、「各人の持ち山や村人が共用する入会(いりあい)の山で栽培した茶や自生茶の葉を利用して自家製の番茶を作っていました。釜炒りで作った番茶を1斗(と)(約18ℓ)缶に蓄えており、茶には不足しませんでした。玄米茶・麦茶を作って飲むこともありましたが、それも常時ということではありませんでした。」と言う。
 南宇和(みなみうわ)郡城辺(じょうへん)町を流れる僧都(そうず)川の上流の僧都地区出身の**さん(南宇和郡御荘(みしょう)町菊川(きくがわ) 昭和4年生まれ)は、「家の境界に茶を植えて自家製の煎茶や番茶などを作っていました。主に自家用でしたが、時に海浜地区から魚などの行商が来ると物々交換することもありました。」と言う。
 山間にある東宇和郡城川(しろかわ)町魚成(うおなし)地区、久万町下畑野川(しもはたのかわ)地区、伊予(いよ)市上唐川(かみからかわ)地区や山ろくにある周桑(しょうそう)郡小松(こまつ)町大頭(おおと)地区でも、自家栽培や自生の茶で作った番茶を日常飲んで、茶に不自由するほどではなかったが、自家製茶が不足した際は代用茶も作っていたという。
 山には近いが茶の木は乏しい、代わりに比較的豊かな田畑に恵まれた川内(かわうち)町則之内(すのうち)地区の**さん(大正11年生まれ)は、「平素は玄米茶や麦茶を飲用しており、茶を買うほどのことはありませんでした。」と語っている。

 (イ)茶に恵まれない海岸部・島しょ部

 前出の明治16年の農事調査の北宇和郡の項では、「沿海ノ地方ニ於テハ絶テ産出スルことナシ。(①)」と海岸部の茶にふれているが、県内の他の海岸部・島しょ部においては茶の記述は見られない。
 文化人類学者の石毛直道氏の論稿「民衆の食事」には、茶の生育条件に適さない漁村では、つい最近まで、麦茶を平素の飲み物とする村や、村の上層部の者しか茶を飲まなかったり、客の来たときにだけ茶を飲む村も残っていたと記し、「むかしは、ふつうのお茶を飲まなくて、大正時代までは、エノキ茶というものを飲んでいました。これは新暦の3~4月頃(ころ)エノキの新芽を女が山にとりにいき、それを水で洗い、セイロで蒸し、もんで茶としたものです。1回山へいくと1斗袋に2はいくらいつんできました。麦茶も多少はつくりましたが、エノキ茶のほうがおおかったです。エノキ茶をヤカンでわかしたり、茶こしでこしたりして、ご飯茶椀(ぢゃわん)で飲みました。(⑤)」と宇和島市の沖合いに浮かぶ日振島(ひぶりじま)の例を挙げている。
 佐田岬(さだみさき)半島の宇和海に面した西宇和郡伊方(いかた)町大浜(おおはま)地区でも茶の木は見られず、**さん(大正10年生まれ)たちは、「平素の食事時でも生水(井戸水)か水を沸かしただけの白湯(さゆ)で済ませていました。山仕事に出かけてのどが渇いたら谷水を飲んでいました。それでも腹を壊すことはありませんでした。」と言う。
 日本民俗学会会員で食文化研究家の**さん(新居浜(にいはま)市北内(きたうち)町 大正15年生まれ)は、「半農半漁の農漁村と島嶼(とうしょ)村との喫茶の風習」と題して、県内の茶の栽培に適さない海岸部・島しょ部の状況を調査・報告している。その一部を簡潔にまとめると次のようである。
 大島(越智(おち)郡吉海(よしうみ)町名(みょう)地区)の大正5年生まれの女性は、「この島には茶はほとんど無い。名(みょう)ではこの田の上の雑木のはえているそばの墓地入口に少しあるが勝手に取られん。」と言い、岩城(いわぎ)島(越智郡岩城村西部(にしべ)地区)の大正6年生まれの男性は、「この島でも家によって1~2株植えているが、茶は摘むより観賞用。」と語っている。また弓削(ゆげ)島(越智郡弓削町)の昭和17年生まれの男性は、「此処(ここ)では茶をつんで加工するなど見たことない。」と言い、魚島(うおしま)(越智郡魚島村魚島地区篠塚)の大正10年生まれの男性は、「番茶を飲みだしたのは戦後のこと、外へ魚を出荷して思わぬ大金がはいると、気が大きくなって、たまに買ってきたが、一部の金持ちだけが、たしなむ位で、村の人は飲まんかった。」と語っている。さらに魚島では、「女たちはあんな黒い茶を飲むと、顔が黒うなるから茶は全然飲まん。」と言っているが、西宇和郡保内(ほない)町磯崎(いさき)地区でも、同様のことが記されている(⑥)。
 一方、大三島の上浦(かみうら)町甘崎(あまざき)地区の**さん(大正10年生まれ)は、「以前のことは知りませんが、自分たちのころにはみかん畑などの境界に植えられた茶の葉を蒸籠(せいろ)で蒸したり、釜で炒って、十分とは言えませんが茶を作っていました。」と言う。また大島の宮窪(みやくぼ)町や吉海町でもミカンの栽培農家ではみかん畑の境界に茶を植えて番茶作りをしていたとみかん栽培の導入以後、次第に畑の境界に常緑低木の茶が植えられた様子を語っている。また、女性が茶を飲むと色が黒くなるという話について、「茶が貴重品で女性の口にまで入らないのを取り繕う強がりからではなく、茶の色を見て本当に黒くなると信じていた人もいたようです。」と語っている。

 エ 代用茶

 茶の飲用が日常的になっていくにつれ、番茶の代わりに代用茶が飲用されるようになった。薦田道子氏は、「庶民の茶は自家製のもので、藤茶・シャシャブ茶・豆茶など山野のフジや、ヤマシャシャブの若葉を蒸し、天日で乾燥して用いたりしていた。(④)」と述べている。
 この文中に記された「シャシャブ茶」の素材となった「アキグミ」について、『えひめの木の名の由来』には、越智郡朝倉(あさくら)村・宮窪町や北条(ほうじょう)市、西宇和郡伊方町・瀬戸(せと)町・三崎(みさき)町などでは、田畑や果樹園での昼食時に葉を火であぶって茶葉の代用としたと記している(⑦)。
 またふじ茶についても、北条市では、戦中・戦後の一時期には、山や果樹園での食事時に近くのフジの葉をとって来て、軽くあぶって茶葉の代用にしたと記している(⑦)。宇摩郡土居(どい)町北野(きたの)地区の**さん(大正15年生まれ)は、祖母の思い出話として、「フジの芽が開いた時分に摘み取ってこうら(鉄製の平釜)で炒(い)り上げ、しなしなになったのをよくもみ、干し上げて別にしておきます。煎茶(せんちゃ)はこうらで炒りもみしだき、さらにこうらで2、3回繰り返してよくもみ仕上げます。煎茶は煎じて出すと、1、2回で色あせ、赤っぽく変色しますが、この煎茶にふじ茶を加えると、鮮やかな黄色が持続し大変おいしく飲めます。これが祖母のひそかな自慢だったようです。」と語っている。また、久万町下畑野川地区の**さん(昭和5年生まれ)は、「フジの新芽を採って炒りほぐしてから天日に干して番茶代わりに飲みました。色がきれいな茶でした。茶が不足した折の代用として用意したので、平素は飲みませんでした。」と言い、城川町高野子(たかのこ)地区の**さん(大正13年生まれ)も、「フジの葉も番茶と同じように仕上げて飲むと、とても美しい色になることは知っていましたが、他の茶に混ぜて色をよくするなどは知りませんでした。」と語っている。
 豆茶の話も各地で聞かれた。久万町下畑野川地区では一年茶と呼んでいたが、川原や土手に生える1年草のマメ科のカワラケツメイを使った豆茶を作っていた。いつのころからか、婦人病によくないという風評で作らなくなったという。城辺町僧都(そうず)地区では、豆茶やはぶ茶を自家用に作っていた。豆茶は葉と一緒に豆も炒って作るので香ばしかったという。広見町畔屋(あぜや)地区でも、時に豆茶を作ったが、この地方では「ヨイ茶」と呼んでいた。川内町則之内(すのうち)地区の**さんは、「茶の木があまりないので、付近に自生するスイカズラ(忍冬(にんどう))を採ってきて乾燥させ、にんど茶を作って茶代わりにしていました。また、一年茶も作っていました。」と言う。
 『えひめの木の名の由来』によると、一年茶を作る植物イチネンチャの名について、「高さ30cm位の落葉低木であるが草本のように見え、葉か実を茶の代用にすることに由来するのであろう。(⑦)」と記している。
 伊方町大浜地区の**さん(大正11年生まれ)や**さん(昭和2年生まれ)は、「ぐいのみ茶(またはびいのみ茶)といって、暖かい地方の日当たりのよい原野や低山地に普通に見られるグミ科のナワシログミの葉を乾燥させてもみしだいた(砕いた。つぶした。)ものを茶代わりとして使っていました。やや甘酸っぱい味がしました。」と言う。このナワシログミは、松山市五明(ごみょう)地区でも、葉を茶葉の代用にしたようだ(⑦)。
 さらに前述の魚島村の男性は、「老人の中にはアカガシの新芽を摘んで、一旦(いったん)蒸してから、ナベで煎(い)っていたが、香ばしいが、あれでちゃの味するのだろうか。(⑥)」と語っている。
 その他、カキの葉やビワの葉を薬用の茶にしていたとか、ドクダミやゲンノショウコを薬草茶として作っていたなどと、特定の人が薬用茶を作って飲んでいた様子もうかがうことができる。


*1:最澄 平安前期の天台宗開祖。延暦21年(802年)留学生に選ばれ、延暦23年入唐。翌年帰国した際に茶の種子を持ち
  帰ったといわれる。後に伝教大師と称された。
*2:空海 平安前期の真言宗開祖。延暦23年(804年)遣唐使に従い入唐。密教を修法し、大同元年(806年)帰国した際に
  茶の種子と製造具を持ち帰ったと伝えられる。後に弘法大師と称された。
*3:栄西 鎌倉前期の臨済宗開祖。仁安3年(1168年)と文治3年(1187年)の2度にわたり入宋。この入宋を通して茶の
  種子や飲茶のきまりや作法が伝えられたという。建保2年(1214年)将軍源実朝の病気平癒のため祈禱を行い、『喫茶養
  生記』を献じた。

写真4-1 広見川沿いの兵陵地帯の茶畑

写真4-1 広見川沿いの兵陵地帯の茶畑

松野町蕨生。平成15年6月撮影