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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)スフ

 太平洋戦争中、輸入削減により綿花が極端に不足し、それを補うために国内の各紡績会社で、スフ(ステープルファイバーの略・化学繊維で作った紡績用の短繊維)の製造が盛んに行われるようになった。木綿の代用品として利用されたスフは、木材パルプを原料としており、その製造は人造絹糸に比べ工程が簡単で人手もかからず、生産費も安く、戦時中の繊維生産の大部分がスフであった。
 終戦時、愛媛県のスフ生産能力は全国最大であり、稼働能力においても全国最大であったという。戦後、富士紡績壬生川(にゅうがわ)工場は東洋レーヨン愛媛工場、倉敷絹織西条工場についで県下第3位の稼働能力があった(④)。明正レーヨン壬生川工場と昭和16年(1941年)に合併した富士紡績株式会社は、旧周桑(しゅうそう)郡内の従業員が最も多く、関連工場や下請け関係の会社の従業員また地域経済と深くかかわって、生産活動を続けていた(⑤)。
 **さん(西条市壬生川 昭和3年生まれ)、**さん(西条市丹原町池田 昭和10年生まれ)、**さん(西条市壬生川 昭和15年生まれ)、**さん(西条市周布 昭和20年生まれ)から富士紡績壬生川工場のスフ製造の様子や、工場の色々な部門で働いた人々の生活について聞いた。

 ア 戦前の思い出

 発足当時の思い出や戦時中のことがらを、**さんは次のように話した。
 「会社の発足は昭和9年(1934年)で、私が小学校に入学した昭和10年の秋口には、新工場で運転が始まりました。壬生川の各通り通りに万国旗が立って、会社のテニスコートで盛大に式典が行われました。提灯(ちょうちん)行列や旗行列があって、小学校1年の私も旗を持って、先生に連れられて行列しました。紅白のまんじゅうをもらって帰りました。
 紡績といえば当時は、コットン主体でした。アメリカとの関係がややこしくなってから、作る物がなくなって、人造繊維として工業化されていたスフの製造を各紡績が始めたのです。スフの製造には製品1t当たり1,600tの工業用水が必要で、大紡績が瀬戸内沿岸の水が豊富で排水の良い場所に移って来たのです。当時の社長が壬生川を視察したとき、埋立地を少し掘ると水がこんこんとわき出たので、この水にほれこまれたそうです。
 戦時中は軍需工場となって、海軍用の防水加工をした布を作っていました。一部では電気分解で製塩もしていました。周女(周桑高等女学校)の生徒が勤労動員で来ていました。」

 イ 復興から最盛期まで

 戦後の復興の様子や新しい繊維の開発など最盛期までの工場について、**さん、**さん、**さん、**さんは次のように話す。
 「大きく変わったのは昭和26年(1951年)でした。廃屋になっていた第1工場を復元したのです。この建物は原料パルプをエレベーターでまず3階に運び、次々に加工して2階、1階へと工程を進める重力を利用した下降方式を採用した関係で、特に堅固な建物でした(⑥)。昭和25年(1950年)朝鮮戦争が起こり、昭和28年ころになると糸偏、金偏の時代(繊維関係の産業と鉱山、鉄鋼関係の産業の好景気の時代)が来ました。繊維、鉄そして石炭によって経済が大きく動きました。
 そのころの増産計画を『80計』とか『100計』とか言っていました。月産80万ポンド(約363t)あるいは100万ポンド(約454t)ということです。この工場のスフワタの製造設備の規模は、同業全国10社の中では小さい方で、日産公称80.3tでした。その製造には大量の水が必要になります。繊維に含まれている硫黄分(いおうぶん)や酸分を取り除いてやるのです。壬生川はもともと水の良いところです。この工場の上手には自噴水がありました。クラレは加茂川の水、東レは重信川の水というように、瀬戸内の水の条件の良いところに大きい化繊工場が移って来たのです。工場の中にも深井戸を9本掘り抜いていました。
 一般の人は、スフ工場といっても分からないので、人絹、人絹(人造絹糸の略)と呼んでいました。スフのくず糸を女の人が晒(さら)して再生していました。水が蛇行して流れるようにした樋状(といじょう)のものに入れて、3、4人で働いていました。スフ糸になってきちんと出てくるときはよいのですが、途中でトラブルになってラインから持ち出してやらないといけないときがあるのです。そういうものは捨ててもよいものですが、洗ったり、切ったりして、利用していました。人形やぬいぐるみの中に詰めたり、軍手を作ったりしていました。
 京都に立川研究所というのがあって、そこの人が『T61』という、スフより一段と木綿に似たポリノジック繊維を開発しました。昭和38年(1963年)にその特許を富士紡が買って、製造を始めました。その前に虎木綿という非常に強いイメージのものが出ていて、『T51』と呼んでいました。それを東洋紡が導入して、ちょっと遅れて、富士紡が最新のタイプを入れたのです。テイジンハイコット、三菱レーヨンのハイポランなど何社も、水に弱いスフの欠点を改良した繊維に取り組んでいました。この『T61』はジュンロンという名で、国内だけでなくヨーロッパへもずっと輸出していました。これは細番手(糸の太さを表す単位)の高級織物にでき、絹のようなさらっとした風合い(視覚や触覚によって生じる織物の感じ)がありました。各種繊維ともよくなじみ、混紡や交織にも向いていました。洗濯しても縮みや型くずれが少なく、酸やアルカリに強く、品質が国内同業者間で最上位だと認められました。昭和42年(1967年)には壬生川工場でジュンロン生産倍増計画が実施されるようになりました。
 最盛期には1,200人が働いていました。当初は12時間勤務の2交替制でした。それから3交替制の3組編制になりました。
 勤務の第1週は先番といって、月曜から土曜まで朝の7時から15時までの勤務をし、先番最後の日曜日は朝の7時から晩の19時までの12時間勤務をします。翌月曜日から第2週の中番になります。15時に工場に入って夜の23時までの勤務です。そして中番最後の日曜日は19時から朝の7時まで12時間働くのです。第3週の夜勤は、夜中の23時に入って朝の7時までの勤務となります。そして最後の日曜日がお待ちかねの休日となります。3回目の日曜日だけが休みなのです。今思うと本当によく働いたものです。
 機械化が進むと工程が省力化され、人がやめてゆくことになります。何度か大きい波がありました。昭和27年(1952年)また昭和41年(1966年)にそれぞれ200名ほどがやめてゆきました。昭和50年(1975年)と昭和52年(1977年)にもそれぞれ100名ほどがやめてゆきました。
 機械投資するとものすごく減らす余地のある職場がありました。当時荷造りの人員は80人おりました。出てくる80tの綿を人間が受けて、看貫(かんかん)(台秤(だいばかり))に載せて重量を計って、足で踏んづけて荷造りをしていました。真夏などは汗をかいているから、作業を終えて出てくるときは綿をかぶっているので真っ白になっていました。それを自動計量して、すとんと落として自動で押さえるようにすれば、何十人という人がいらなくなるのです。新しい機械の設置によって、荷造りの人員が30人になりました。
 他の紡績工場に比べて、この工場は女子工員が非常に少なかったのです。全体の1割程度でした。24時間操業の3交替勤務なので、女子工員の深夜労働は出来ません。それよりもここはスフを造るまでに人手がいるところが、原料パルプの積み込みと途中で液から糸にするところ、そして最後のパッケージの積み込みの3か所です。その辺りは男子工員の働くところなのです。あとはほとんど機械化されて、無人なのです。女子がいるのはミシン、試験場、事務所などでした。」

 ウ 地域での生活やサークル活動

 地域との密接な生活や工場内でのサークル活動について、**さん、**さん、**さん、**さんの話を聞いた。
 「ここの従業員は地元採用でした。周桑郡一円から集まって来ていました。給料もよかったですよ。町の商店の人も『富士紡とともに壬生川はあるんです。』などと言っていました。会社が大工事をするときは、中央の大きい業者が請け負いましたが、日常の細かいものは町内の金物屋さんやそれぞれの商売の人が受けていました。地元の経済もそれで結構うるおっていました。飲み屋さんも多かったですよ。昔はみんな自転車で通勤し、勤務が同じなら行動も同じで、会社終わって帰りに『あそこへ寄るか。』というふうになったものです。
 ここは会社も職員も、みなキャッシュで払っていました。手形の取引はなかったのです。近隣にある他の大きい会社は、半年先くらいの手形での取引だったそうです。町内の小さい会社なども、富士紡の契約書があったら、銀行が金を貸してくれました。中にはその契約書1枚で、二重三重にお金を借りて仕事して、大きくなった業者もいるそうです。
 終戦後の一時期食糧事情が悪く、会社としては従業員の食事に困ったそうです。食堂を直営でやっていたのですが、米の調達に弱っていたようです。だんだんと食糧事情が良くなるにつれて、『会社の飯はまずい!』というような声も出てきました。風呂も会社にありました。社員さんの風呂と一般工員の風呂とに分かれていました。着るものがなかったから、会社の中のビスコース(人造絹糸の原料)を造るための液をこす濾布(ろふ)で作業着を作っていました。これがまたユニークな柄があったり、フィルターのさびが付いていたりしました。それが1枚余って、家で農業するときの野良着にしていると、富士紡に勤めているのがすぐ分かるのです。自転車の新しいのを買ったりすると、今の高級車を買ったときと同じで、同僚が見に集まったものです。昭和30年代の終わりころから、単車通勤が始まりました。
 寄宿舎には女の子が泊まっていました。家族面会室があって、毛糸編みの道具やお茶の道具などもそろっていて、いろいろ習い事もしていました。娘を訪ねてきたお母さんが、『お金もらって、こんなにしてもらって。』と喜んでいました。
 昭和30年代にはスポーツ、文芸、お茶、お花などいろいろな活動が行われて、活気があり実ににぎやかでした。スポーツは陸上、ボート、軟式野球、テニスなどがありました。なかでもボートは朝日レガッタ4連勝、国体2連勝で帰ってきたときには、壬生川の町がわいたものです。砲丸投げの選手も国体に出場しました。野球も西鉄ライオンズの怪童中西太(なかにしふとし)も来たりしていました。でかいのをぼんぼん打っていました。
 雇員から正式の職員さんになると日給から月給になりました。月給は日給の30倍でした。給料日は事務所は大変でした。全部現金で、おまけに手で数えていましたから数えるのに半日かかるのです。最後に1円余っても足りなかっても、最初からやりなおしです。昼ご飯を食べずに数えたことが何回もあります。ボーナスのときはすごかった。あの昭和43年(1968年)の3億円強奪事件の後は、パトカーが銀行の車を先導して来ました。
 労働組合のデモは新地を通ってやっていました。賃上げ要求ですが、なにか行事をしないと人が集まらないので、あけぼの館で映画をしたりしていました。パチンコ屋があって、そこを過ぎると人が半分に減るのです。ストライキで困るのは、工程をチェックする工員がいなくなるので、ビスコースがパイプに詰まることです。全部取り外して中を掃除するのですが、圧力の強い水がないので、たわしを絞って両方からくくって中へ入れて掃除をしました。」