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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)今治のタオル

 今治(いまばり)は大阪、三重と並び三大タオル産地として知られている。白木綿、綿ネルまた縞三綾(しまみつあや)などの広幅織物は、各時代ごとに今治の代表的な特産品として、外貨獲得の資源ともなってきた。その発展の背景には明治以来の先駆者の努力と水量豊富で質の良い蒼社川(そうじゃがわ)の水があった。
 市街地の大半が戦火で焼失した今治であったが、迅速に復興への努力を重ねた。昭和25年(1950年)ころから織ればいくらでも売れるという“がちゃ万”状態(がちゃんと織れば1万円儲(もう)かった繊維業界の好景気を表す言葉)となったが、広幅織物は戦前の状態に復帰せず、次第にタオルへと転換する業者が多くなった。また大阪などの先進地に追いつくことを目標に、積極的な経営努力が続けられ、設備の近代化が進められた。
 昭和30年代に入ってタオルケット(タオル地製の上掛け、タオルぶとん)が考案され、次第に需要が拡大していった。タオルケットは高温多湿の日本の気候に合い、その上今治綿業界の先晒し、先染めとジャカード紋織機(多数の経糸を自由に運動させて大きく複雑な各種の模様を織り出す機械)という二つの特徴によく適合した製品であったので、昭和30年代後半に今治のタオルの生産高が日本一となった(⑧)。

 ア 紡織科誕生のころ

 **さん(今治市山方町 大正11年生まれ)から、今治工業高等学校に紡織科が開設された当時の様子を聞いた。
 「昭和23年(1948年)6月に、地元の熱い要望であった紡織科の設置が認可されました。翌昭和24年2月に校舎・設備などすべて地元負担で新築されました。空襲で焼けてしまった今治としては、珍しく立派な建物でした。
 実習室の機械の運転の伝導装置の取り付けや機械の据え付けは、大手紡績会社今治工場の協力を得ました。シャトル(製織の際、緯糸を通すのに用いる舟形の器具)や木管(緯巻機(よこまきき)で糸を巻き取るのに使う木の管)、ボビン(糸を巻いて整経するときに使う筒状または棒状の用具)など器具類は、他の会社に援助してもらいました。糸も配給でなかなか手に入りませんでしたが、いろいろ申請しましてようやく40ポンド(約18kg)ほど配給してもらうことが出来ました。最初の機掛けは染織試験場のお世話になりました。
 またそのころは定時制に紡織科があって、生徒たちは昼は市内のタオルや綿布工場で働くベテランの男子工員でしたので、よく機械の調整や修理をしてくれました。いろいろ助けられることも多く、学校の帰りにささやかな気持ちばかりの中華そばをおごりながら、タオルの話などをしたものです。
 昭和24年の高等学校再編成で、9月1日から今治西高等学校工業部となりました。紡織科の1回生・2回生の中には、機械科と工業化学科からの転科生も数名おりました。このころの生徒たちの優秀であったことは、いまだに忘れることが出来ません。市内3校の弁論大会で1位になったり、生徒会長になったり、まことに自主的な高校生でした。工場見学なども自分たちが計画し、その際の列車の交渉などもして、担任の私がすることはほとんどありませんでした。現在では想像もできない手間のかからないすばらしい生徒ばかりでした。
 彼らは卒業するとそれぞれ関連の仕事に就いて行くのですが、始めは工員として地道に働き仕事に習熟してゆきます。研究熱心で独立心に富み、10年もすると自分で機械を購入して、ささやかながらも紡織の事業を始めます。家内工業として日夜がんばるわけです。その折々の今治繊維産業の進展の中で、切磋琢磨(せっさたくま)して企業家として成功していった者が多いのです。これが今治繊維業界の一つの特徴とも言えます。」

 イ タオルの先晒し、先染め 

 タオルに自由な絵や柄を織り出せるジャカード紋織を可能にしたのは、今治綿業界に古くから行われていた糸を先に晒し、先に染めるという先晒し、先染めの工程による。これは大阪の後晒しと対比され今治タオルの特徴となっている。
 タオルの先晒し、先染めについて、長らく晒しや染めに携わってきた**さん(今治市大西町紺原 昭和3年生まれ)、染めや織りの指導をしていた**さん(今治市大西町紺原(こんばら) 昭和2年生まれ)、愛媛県繊維産業試験場に勤めている**さん(新居浜市庄内町 昭和22年生まれ)にそれぞれの体験と思い出を聞いた。

 (ア)かせ糸の晒し、染め

 **さん、**さん、**さんは「昭和20年(1945年)くらいまでは、一人が釜を三つくらい受け持って、精練をし、カルキで漂白し、染色していたのです。紡績からきた木管巻の原糸をかせ(一定の長さの枠に巻いた糸を、枠から取り外し束ねたもの)の状態に取り、釜に詰め込みそれをカセイソーダで精練(天然繊維に含まれている油分などの不要な物質を取り除くこと)をし、さらに別の槽でカルキで晒し、染色していました。職人は最低8時間、多いときには12時間働いていました。晒しは冷浴で精練は高圧で120℃くらいでした。その後一浴(いちよく)晒しということで、過酸化水素を使って一度に精練と晒しをするようになったのです。晒し部門と染色部門があって、リーダーがいて、その下に何人かついて、晒しまた色々な色に染めて行くのです。リーダーが色を見て、もう少し色を足しなさいなどと指示し、各釜の人が色の調整をしていくのです。昭和30年(1955年)くらいまで、そういう晒しを行っていました。蒼社川や泉川の辺りに晒し工場が多く、今のように下水処理されていないので、泉川は七色の水と言われていました。
 かせでしていたころは、のり付けをして、遠心脱水機で水分を取り、それを物干し竿に5段くらいかけて、天日で干していました。カラフルでなかなかの風景でしたが、にわか雨が降ると、取り込みが大変でした。その後、かせの乾燥機が出来て、熱風乾燥にかわりました。
 かせ糸についての作業はほとんど手作業で行っていました。取り扱いによって、糸が切れたり、もつれたりするので、それが起こらないように熟練を要しました。かせ糸の状態でバスケットに詰め込んでいくのですが、詰め込み方を均一にしないと、精練、漂白、染色にむらが起こります。バスケットの中にポンプ圧によって、液を中から外、外から中へ流すのです。詰め方がゆるければ、圧力で液はゆるい方へ流れ、かたい方へは流れません。精練、漂白、染色が終わるとのり付けをします。かせの束をのり槽に漬け、ぐるぐる回してほどよく付いた段階で、出して手でしぼり、積み上げ、さらに遠心脱水機にかけるのです。機械を止めることなく、漬け、しぼり、積み上げる作業を次々と行います。慣れていないと、束が崩れるし、ずっと立ちっぱなしで、体を曲げながらの作業なのでかなりの重労働です。それぞれの工程で糸に水分が含まれるので、かなり重たいものになります。それを何回も何回も入れ替えるのですから大変です。以前造船が不景気のときに、そこからタオル屋さんへアルバイトに来た人がいました。晒し場で働くうちに、『糸がこんなに重たいとは思わなかった。鉄より重たい。』と言ってやめていったそうです。」と話す。

 (イ)チーズやビームの晒し、染め

 **さん、**さん、**さんは、「昭和30年代後半になると、チーズ晒しになります。ボビンに糸を巻いた形が乳製品のチーズと似ているところから、チーズと呼ばれているのです。紡績工場から硬いチーズ状態で入ってきたものを、ソフト巻きといって柔らかく液が通るように巻き直して、槽へ漬け込みます。全体で200個くらいのチーズをぼこっと漬け込んで、ポンプ圧によってソフト巻チーズの中へ液を中から外、外から中へ流して漂白、染色、のり付けもするのです。過酸化水素の漂白で一浴精練漂白と呼んでいました。なぜこのようにチーズに変わったかというと、かせ糸から乾燥後のチーズへの巻返しはチーズ状ソフト巻の乾燥後の巻返しに比べて10倍の人手がかかります。チーズ状巻返しは10倍のスピードが出るからです。かせは20人かかるのに、チーズだと二人ですみます。人件費が比較になりません。納期も短縮できます。チーズ染色はかせ染色に比べて自動化省力化によって製品の品質が均一になります。その合理性から、かせの染色がチーズの染色に変わったのです。昭和40年(1965年)ころには、ほとんどの工場がチーズの晒し、染めに切り替えました。染色するには、色の黒いものに染料かけても、鮮明な色は出ないから、必ず先に糸の状態で漂白しておいてから、染色し、紋織りにかけるのです。
 ビーム晒しに使うビームは大きいステンレスの円筒形のもので、それに糸を巻いて晒しにかけるのです。今治で一番最初にチーズ晒しを始めたのがS繊工で、昭和37年(1962年)のことでした。それまでは、かせで晒していたのです。ビーム晒しを始めたのは、昭和40年代の半ばころです。作業工程的にはビーム晒しが速く、のり付けもほぼ一定となります。チーズの場合は、ある程度糸の層があるので、内側と外側でのりの量が変わってきます。かせからチーズへの切り替えのころは、同じ工場の中でもかせの作業とチーズの作業で、違いがありました。チーズであればボタン一つ、キャリヤー(運搬台)の出し入れはクレーンです。ところがかせは重労働で、さらに熟練が必要です。  
 染めについては、昭和30年代は、その職人でなければ染められないということがありました。職人個人が自分のデータを持っていたのです。染料の配合量がその人しか分からない。また従業員にも言わない。その人がいなくなれば、その色は出せない。グリーン系や少し赤味、少し青味などを出そうとすると配合が非常に難しくなります。昭和50年代の初めころまでは、各工場の染料師の秘伝のようなものになっていたのです。」と話す。

 ウ ジャカード機とともに

 織機は普通織機、自動織機、革新織機と順次改良されてきた。今治のタオル業者は復興に際し、織機の上部にジャカード機を敷設(ふせつ)して、生産拡大と品質向上を図ってきた。『えひめのタオル八十五年史』の著者辻悟一氏は「かつては大阪地区の独占物であった紋タオルも、菅原利鑅(としはる)などの研究、指導が功を奏し、遂に戦後になると、当地の特産品となったのである。ジャカード機の開発普及は、先染め先晒し技術と結びつき、紋タオルの発展をうみ、当地の飛躍に大きく寄与したのであった。」と述べている。

 (ア)高等学校やジャカード商会で

 高等学校を卒業してから、長らく紋紙製作に携わってきた**さん(今治市別宮町 昭和10年生まれ)に、紋紙とジャカード機についての思い出を聞いた。
 「今治工業高等学校のころは、蒼社川を歩いて渡ったりしたこともあります。今治の駅で降りて、線路を伝って榎町まで下り、木の橋があって、正門の方じゃなしに裏から入って、先生から怒られたこともありました。古い機械で糸をたぐって実習していて、失敗してかせ取りができなくて怒られました。入学したときは合併で今治西高等学校の工業部でした。昭和27年、2年生のときに今治工業高等学校になりました。運動会や水泳大会は今治西高等学校でやって、マラソン大会だけは工業から土手をずっと上がって走ったんです。校歌ができたのも2年生のときで、全員募集でぼくらのクラスの高見君が作詞したものが選ばれました。
 昭和29年(1954年)卒業ですが、当時は不景気でなかなか就職がありませんでした。月賦屋(げっぷや)(商品代金を何回かに分けて月ごとに受けとる販売店)へ行った友人もいますが、半分くらいしか就職できませんでした。私は2月になってジャカード商会に就職が決まりました。仕事は紋紙(もんがみ)でした。今治のタオルが力を持ってきたのも、たくさんの穴をあけた紋紙を使って、糸の吊(つ)り上(あ)げ吊り下げをするジャカード機が織機の上に付けられるようになってからです。織機がどんどん高速化してゆき、ジャカード機もそれに応じて研究が加えられてきました。はじめジャカード機は紋紙を3枚使いましたが、それを紋紙1枚で織れるように改良したのが、節約装置です。これが昭和30年代に一般化したのです。紋紙の穴の数が多いほど上がったり下がったりする糸の運動が自由になり、複雑な模様ができるようになるのです。
 浴布(きんよく)からバスタオルさらにタオルケットと次々に売れ出すにつれて、タオルの密度がこんできて、紋紙の幅も大きくなっていったのです。機械も順次改造されて、今ではコンピュータのフロッピーだけでよくなりました。小さい画面のところに、紋紙に相当するところがあってフロッピーで指示したらよいことになっているのです。普通ジャカード、高速ジャカード、電子ジャカードというふうに技術革新が進んできたわけですが、電子ジャカードの一番大きいものは、針の数が6,000本もあります。6,000本分の柄が自由に出来るというわけです。
 ジャカード商会での仕事は、タオル工場をまわって図案を売ることでした。そのころには大梅、小梅などという柄の名前がありました。これが輸出でものすごく売れたのです。今治の工場の半分くらいが東南アジア方面へ輸出していたと思います。昭和32年(1957年)ころからよくなってきました。売れて売れてしょうがない、がちゃ万時代の到来でした。その中を図案を描いては、各タオル屋さんへ売りに歩きました。」

 (イ)営業を担当して

 **さんは「ある社長さんから、工場長兼務のような仕事をやらんかという話がありました。絵柄作ったり、紋紙作ったり、各タオル工場まわって、織物設計が頭に入っていたからだと思います。その会社に入って機械などについて企画することも全部覚えました。問屋商売、営業も全部兼ねていました。大阪へ晩の船で行って1日まわって、また晩の船で今治へ帰って、向こうで聞いたことをもとにして織りの工夫を考えました。年末などは、晩の満席の船で大阪へ行って1日中問屋まわって、その日の夜行で東京へ行って、東京駅の朝風呂に入って9時ころから東京の問屋をまわって、そしてまた大阪へ帰ってもう一度商売をしてというふうに、3日も4日も働きました。そのようにして、タオルの糸がどう、目方がどう、値段がいくら、織物設計と単価の決め方、紋紙と機械、タオルの生産量などが全部分かるようになりました。昭和35年(1960年)から昭和39年ころ、織機がものすごく変わりましたので、その研究もしました。その会社でいろいろの仕事をやらしてもらったことが、非常に勉強になりました。」と話す。

 (ウ)紋紙についての思い

 紋紙製作について**さんは次のように話した。
 「昭和40年(1965年)にそこを退社し、独立して紋紙作りのデザイン専門の仕事に入りました。一番多いときで、30軒くらいお得意さんがありました。ジャカードが次々変わって行くので、紋紙を作るのが難しく、設備も十分ではなかったのです。『あそこへ持って行ったらなんとかなるじゃろ。』ということで、予想外に皆さんが来てくれました。
 電子ジャカードを導入するときは、大変でした。ソフトが一定ではなかったのです。外国のはDOS方式で、国内の紋紙の方はCDS方式になっているのです。タオル組合へ行って、どちらかに統一できないものかと相談しましたが、結局実現しませんでした。変更するには設備がいってジャカードより高くつくのです。その後、彫る機械とコンピュータで研究に研究を重ねて紋紙を作りあげました。チェックして誤彫(ごぼ)りがないか確かめて、1年くらいかけました。そのうち業界の人から、『ジャカードに関してはあそこのカードに限る。』と言ってもらえるようになりました。
 あるとき『紋紙の値が高い。』と言われることがあったので、1年間の契約で、100柄でも200柄でも相談しながら柄を作って、出来たタオル1枚について、払いをいくらというようにしてほしいと話しました。そしたら結局、今の値段でよいということになりました。デザイン料そのものが非常に安いのです。紋匠組合が出来たのが昭和45年(1970年)ころでした。愛媛パンチングセンターという名で、6、7人で発足させました。紋紙とデザインが一体になっていたからここまで来られたわけですが、今からはデザインがあって紋紙があるというように変えないといけないと思うのです。今治工業高等学校にデザイン科が設置され、今治高等技術専門校にデザインの授業が入ったのも時代の要請だと思います。またデザイナーを育成し、レベルを上げるためにも資格認定が必要だと思います。」

 エ タオル製織一筋に

 **さん(今治市大西町九王(くおう) 昭和9年生まれ)にタオル製織の思い出を聞いた。

 (ア)独立してから今日まで

 **さんは独立したころのことや海外のことについて、次のように話す。
 「今治工業高等学校の菅原利鑅(としはる)先生は、後に試験場の場長になられました。この先生が戦後京都から紋織を取り入れて、これだけの普及をされたわけです。泉州(せんしゅう)(大阪府南部)は後晒しでしたが、今治は先晒しで、色鮮やかな紋織のタオルが主力でした。今は先晒しも、のり抜きをして後加工するようになりましたが、その時代にはのり抜きをしないで販売していました。今治は時代によって、タオルケットがあったり、ギフトが伸びたり、業務用が伸びていったりしたのです。今治は業者がよく研究開発した土地柄です。短所を改善しながら日本一になっていったのです。
 昭和34年(1959年)に24歳のとき、タオルで独立するようになりました。資本もなかったのですが、荷車で土を運んで地上げをして、タオル織機を4台据えて始めたわけです。家族と工員2、3人で夜も寝ずに一生懸命働いて27歳で結婚しました。銀行が、独身には金を貸せない、どうしても嫁をもらえということでした。始めたときから苦労の連続でした。昭和39年(1964年)には、隣の家の松の木に落雷があって、それが電線を伝わって工場のジャカードとショートして、工場を焼いてしまいました。このときは手形がおちるかどうか、本当に大変な思いをしました。
 わりあい早くから、海外には目を向けていました。昭和40年(1965年)前後には、台湾、香港、バンコク、シンガポール、パキスタンなどあちらこちらへ視察に出かけました。衣食住はすたることはないのですが、従来の今治の方式だけで生きようと思うと、予想外のことが起こり失敗するかもしれない。しかし世界を知り、広く歩ける技術者になれば、心配はいらないと思うのです。たとえばパキスタンは綿花の産地です。そういうところへ行って、技術を生かしてやってみようとすれば、大きく生きる道があるのではないか。そんなことを工業高校の後輩に話したこともあります。」

 (イ)タオルの今後と若い人への期待

 **さんに今後のタオル製織や若い人への思いを聞いた。
 「以前はタオル業者も500軒あまりあって、作ったら売れ、設備を拡大しさえしたら売れた時代でした。昭和40年代には月賦屋も量販店もデパートも、さらには銀行や証券会社も垣根がなくなってきました。いつも変化は必ず起こると思って、対応してきたつもりです。加工量が減って染色工場も今は苦労していますよ。今はシルクや麻またエコタオルという薬品を使わないタオルの開発にも取り組んでいます。これからは船団を組んで伸びるのではなく、同じタオル屋であっても、それぞれが独自の技術を持ったヨーロッパ式の経営が必要だと思うのです。特徴のある企業でないと残ってゆきません。さらに企画力と営業力、その二つが求められています。
 私が高校に入学したころは機械科は機械科、紡織科は紡織科、工業化学科は工業化学科というように完全に別れていました。ところがある時期から、紡織科であっても機械が分からないといけない、工業化学科もコンピュータが分からないといけない。そういう基礎知識が必要な時代になってきました。3年間で高等学校の一般的な知識を十分身に付けて、運動もして、そして専門的な能力を付けよと言っても難しい。柔らかい頭で自分の職業に即応出来る人間になってほしい。そのためには4、5年の専門学校教育が必要だと思うのです。私自身将来の職業について色々考えて、物を作る職業が尊いのではないかと考えて、工業を選びました。
 今治工業高等学校を卒業するときに来賓の祝辞があり、『一隅を照らす人間になれ。』と言われました。地方におっても、一隅を照らす人間が寄り集まって一生懸命やっていれば、日本は明るくなる。大きいダイヤだけが真ん中で照らすことはない。そう思って、この歳までタオル一筋でやってきました。」