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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)採寸・裁断の脇役-鯨尺の話-

 和服の仕事に欠かせない鯨尺がこれまで製造され続けてきたのは、長年、大洲で竹材業を営んできた夫婦と、県外の鯨尺製造業者(滋賀県・香川県)の間に堅い信頼関係があったからである。そこで鯨尺の製造を生きがいとしてきた人たちのひたむきな思いについて、大洲はもちろんのこと県外の関係者を訪ねて、その思いを探った。

 ア 鯨尺は仕立ての基本

 鯨尺(写真1-2-3参照)について、大洲の**さんは次のように語る。
 「お客さんの寸法は呉服屋さんが、反物と一緒に持ってきてくれます。その寸法通りに裁断し、仕立てていきます。そのときに鯨尺を使います。呉服の仕立ては鯨尺がなければ出来ません。一時、鯨尺が使用禁止になった時代(昭和34年〔1959年〕から昭和52年〔1977年〕までメートル法に統一され尺貫法の単位が使用禁止になる。)がありましたが、きものを鯨尺を使って仕立ててきた人でメートルざしを使っていちいち寸をcmに直してから仕立てる人はいなかったと思います。それはきものは着付けで調節できますから何mmというこまかい数値が必要ないからです。私は、鯨尺を使い慣れていたし、仕立てにはどうしても使わないわけにはいきませんでした。」
 西条の**さんは、「呉服屋から反物と寸法がきます。それを自分で計って柄合わせをして裁(た)ちます。2尺(1尺は約37.9cm)ざしと、1尺ざしがそれぞれ1本あれば事足ります。はさみを入れるまでは鯨尺で何回となく計り直します。普通の柄合わせのない反物は、これだけが身ごろ(和服の前面、および背面をおおう部分)、袖丈というように、はさみを入れる前に折り目を入れていきます。これだったら間違いないと自分で納得してから、はさみを入れます。そうしないと切ってからではどうにもなりません。はさみを入れるのが一番怖いですから鯨尺には世話になります。もし間違って切ればその反物は自分で買い上げなければなりません。何度も計り直し、はさみを入れるのは丁寧に慎重にしなければなりません。仕立てには鯨尺が基本なのです。」と語る。

 イ 和裁に使う鯨尺

 鯨尺は、「江戸時代にできた裁縫用の物さし。尺貫法(長さの単位を尺、容積の単位を升、質量の単位を貫とする、わが国古来の度量衡法)の1尺2寸5分(約37.9cm)を1尺とする。出現の時期は不明であるが、室町末期に1尺2寸の裁縫用の呉服尺が出現し、それのさらに5分伸びたものと考えられる。名称は、くじらのひげで作られたことによる。したがって呉服尺も鯨尺と呼ばれた時期がある。江戸時代は両方とも使われたが、いずれも民間のもので、官用としては使われなかった。1875年(明治8年)政府は呉服尺を廃止し、鯨尺を残した。また1959年(昭和34年)以後、鯨尺の製造は、メートル法による統一のため禁止されていたが、放送作家永六輔氏らの運動によって、鯨尺の文字を用いず、メートル法で表記するという条件で1977年(昭和52年)に復活した(②)(写真1-2-4参照)。」とある。
 商品を販売するときの表示に尺貫法の単位が使えなくなり、鯨尺の製造販売も禁止になった。鯨尺が手に入らなくなり、鯨尺を毎日使って和服を仕立てていた人たちは大変困った。しかし鯨尺でも、メートル法の数値が書いてあれば製造販売してもよくなった。伸縮しやすく柔らかい布で作るきものの寸法は、1mm単位で計るほどの精度を出してもあまり意味がなく、きものは袖丈以外の長さは着付けである程度の調節ができるため、洋服ほど寸法を細かく決める必要はなかった。

 ウ 竹ざしのふるさと

 大洲市、喜多郡地域は、さしの材料となるマダケ(真竹:竹の一種、高さ約20m、径約10cmにも達し、節間が長く節に隆起した2環がある。)が一定量供給できる地域として竹ざしの生産業者から評価されてきた。四国地方では唯一、その材料を長らく出荷してきた**さん(大洲市新谷町 昭和11年生まれ)は竹材業を始めた経緯や竹林への思いを次のように語る。
 「昭和39年(1964年)に夫婦で竹材業の仕事を始めました。しかし、夫の**(昭和5年生まれ)が、平成10年(1998年)に亡くなってからは、私自身は十分な仕事はしていません。この仕事を始める前は、松脂(まつやに)(*1)を採取する仕事をしていて、4月から10月の終わりぐらいまでの大部分は、高知営林署管内の宇和島(うわじま)や北宇和郡内の山々に行っていました。冬は櫨(はぜ)(ウルシ科の落葉高木。秋には美しく紅葉し、果実からは木蝋(もくろう)が取れ、蝋燭(ろうそく)の原料となる。)取りが主な仕事でした。子どもが小さいときから連れて行っていました。冬、仕事の休みで大洲市新谷町の家に子どもを連れて帰っていたとき、近くの保育園へ行って塀越しに園児が遊ぶのを眺めている子どもの姿を目の当たりにして、身につまされ、家にいても出来るような仕事があればと思っていました。
 昭和37年、たまたま大洲市喜多山(きたやま)地区で竹ざしの原料の竹を乾燥させていた**さんに会いました。この仕事を継いでくれる人を探していた**さんから夫に話があり、子どものこともありましたので、昭和39年に販路の権利を譲り受けて“ものさし材料業”を始めました。権利金10万円を支払いましたが、それまで竹を扱う仕事などしたことない上に、当時の10万円は私たちには大金でした。そのときの私たち女性の1日の労賃が230円ぐらいの時代でした。
 そのころの材料出荷先は、滋賀県甲賀(こうが)郡甲南(こうなん)町(現甲賀市甲南町)と香川県観音寺(かんおんじ)市の業者の2軒ありました。その後、神奈川県小田原市とか、鹿児島県姶良(あいら)郡姶良町のさしの業者を自分たちで開拓し売り込みに行きました。
 竹はマダケで、弾力があり、折れにくく、光沢もよく、油抜きをしても光ります。4年以上たった竹を切るようにしており、切るのは9月の末ぐらいから10月、11月ぐらいが主です。若い竹は、柔らかすぎていけません。年月がたったものは硬いですが、もろくなり割れやすくなります。切ったままで長く置いておくと日焼けして竹が茶色くなり、皮がはげやすく表面が傷みやすくなりさしには使えません。
 竹を切り、倒すときには、下に石でもあると表面に傷がつきますから、抱きかかえて倒すようにするなど気を遣います。それぞれの用途に応じた長さより少し長めに切り、5日くらい置いておくと竹の水分がなくなり硬くなります。そこで枝を打ち落とし、切った場所で割るようにしています。このときも竹の表面が傷つかないように気を遣います。それを工場で油抜きのためにカセイソーダーを入れたお湯の中に入れて沸騰させて10分ぐらい蒸すと、青々とした竹の緑の色は落ち、黄色味がかった竹になります。その後、天日で15日間ほど乾燥(口絵参照)させ、天然漂白をします。乾燥させるのは大体冬から春にかけてです。さしは表面が大切ですから、蒸したときに浮き上がる傷、その前からついている傷、このような傷がいかにつかないようにするかが大切です。蒸してからは硬くなりますから、傷がつきにくくなります。傷物は大分(おおいた)県別府(べっぷ)市の竹加工業者に送れば使い道はいくらでもありました。
 竹ざしは、鯨尺の1尺、2尺、3尺さし、畳を作るときのさしや20cm、30cm、50cm、1m、2mさしなどになります。竹が“ものさし”に向いているのは、熱による伸縮がないこと、それに湿度にも強く加工しやすいからだと思います。ものさし以外では、小舞竹(こまいたけ)(割って編みつけ、土壁の下地とする竹)、建仁寺垣(けんにんじがき)(*2)の竹、ひしゃくの材料、茶の道具、剣道の竹刀(しない)の材料などにもなります。長さ40cm、幅は3cmぐらいに切って、これを1尺のさしとして出荷します。昔は竹の需要が多かったから充分成長する前に切っていたので、なかなかいい竹は育ちませんでした。現在は一節(ふし)50cmくらいの竹もあり、節のない一尺の鯨尺には最高です。
 さしで一番需要が多かったのは鯨尺(くじらじゃく)でした。禁止になっていた時代に、呉服屋さんがお歳暮代わりに配るため年末に大量に仕入れていたとも聞きました。
 出荷は、トラックに積んで行きましたが、大阪からの高速道路では工事が各地であって、途中での車線変更など私が地図を見て夫に伝えるなど大変な思いをしたこともありました。最盛期には、年に約15万本もの竹ざしの材料を送りました。
 長年このような仕事をしてきましたが、もともと本業でなかったものが本業として成り立ったのも、もちろん生活のためということもありましたが、やっているうちに次第に、わが子をいたわるように竹をいたわるという気持ちがあったからです。いい竹は、それを親竹として育てて、切らずにおきます。そうすると2年後にはその近くに同じような竹が育ちます。そうすると今度はそれを親として、前の竹を切ります。そうして竹林を育てていくことが大切です。喜多郡、大洲市、小田町などの竹林を利用させてもらってきましたが、今は竹の需要が減りましたから竹林(写真1-2-6参照)が荒れ放題になって、何とかしないと大変なことになると思います。」

 エ 竹ざしに加工して-愛媛県喜多郡・大洲地域の竹を使って-

 大洲の竹は、かつては竹材商人にとっては評価が高く、筏師(いかだし)が竹筏を組んで肱川(ひじかわ)河口の長浜(ながはま)まで流し、全国各地に送られていたこともあった。昭和40年ころまでは、丸亀の有名なうちわや小豆島の醬油の樽のタガ用、宇和海沿岸の真珠養殖の筏用、瀬戸内沿岸の海苔(のり)養殖用の竹材として各方面に送られていたこともあり、プラスチックが出来るまではさまざまな日用品に竹が使われていた。大洲市内で竹熊手を主に製造していたころは、竹熊手の生産は全国生産の約70%を大洲市で占めていたこともあるという。
 大洲のマダケを材料として、竹の鯨尺を製造してきた滋賀県と香川県の業者を訪ね、大洲との結びつきについて聞いた。

 (ア)竹ざしの製造-滋賀県甲賀市甲南町-  
 
 **さん(滋賀県甲賀市甲南町竜法師(りゅうぼうし) 昭和18年生まれ)は、全国でも数えるほどしか残っていない竹ざしの専門メーカーの2代目の経営者である。鯨尺、陶器尺、ガラス尺、曲尺(かねじゃく)と用途にあわせて作る竹ざしは30数種類ある。創業は、**さんの父が、昭和23年(1948年)に独立したのが始まりであるという。その**さんに、大洲地区の竹とのつながりと竹ざし作りについて話を聞いた。
 「大洲の竹との付き合いは、昭和30年代の初めころからだと思います。最盛期には1万本や2万本ではありませんでした。**さん夫婦が車で直接運んで来たり、運送会社のトラックで送ってきたときもありました。
 気象条件がいいのか、大洲の竹が良いのは、竹に粘りがあり、節と節の間の伸びがよいし、虫もつきにくいのです。さしは表面が大切で、原料の段階で丁寧に仕上げて送られてきていました。当時、大洲市の**さんの竹が一番多く、他は、福岡、鹿児島、一時島根からも来ていました。
 甲南町は、きものの需要の多い京都に近いし、原料の竹があったところから、わたしが後を継いだときは町内に私をいれて3軒のメーカーがありましたが、今残っているのは私のところだけです。
 私も中学時代からこの仕事を手伝い、竹をかんなで削ったりしていました。父が病気がちだったので、昭和37年(1962年)、高等学校を卒業すると同時にこの道に入りました。
 私が継いだときは、幅きめ、目盛り切りなどすべて手作業で、何とか機械化が出来ないものかと思っていました。中でも、目盛りを刻む工程は、真鍮(しんちゅう)製の型枠を竹に重ね、一本一本目盛りを引いていました。これでは精度が期待できない上に、根気のいる仕事ですので人材の確保もままなりませんでした。手作業の時代には近所のおばちゃん30~40人に内職を頼みました。
 機械化への挑戦は、この目盛りを切る工程から始めました。しかし、材料は天然素材で、厚さなどにばらつきがあり、開発は難航しました。昭和44年(1969年)に7年かけてようやく機械化に成功しました。
 私が継いだころは鯨尺が使用禁止になっていましたが、需要はいくらでもありました。和裁をする人、呉服関係の人は現実に使っていましたから、ひっきりなしに注文がありました。検定協会に加盟していましたから、滋賀県計量検定所から何度も調べにきました。始末書を2回くらい書きました。埼玉県で鯨尺が見つかり、仕入れ先を調べられ、私のところで作ったということが明らかになり始末書を書いたこともありました。
 今から10年前までは、月産3万本は製造していました。現在はその10分の1にも満たない状況です。鯨尺は、現在でも文化財の保護とか和裁をする人などが使ってくれています。需要がある間は生産を続けたいと思います。浴衣(ゆかた)も留袖(とめそで)(既婚女性の礼装用和服。普通の袖丈で、すそ模様のある紋付)も鯨尺から生まれていきます。
 大洲から原料を供給してもらってきましたが、人間的に支えあう気持ちが大洲との長い付き合いになったと思います。悪いものがあれば返品するのが当たり前ですが、今までそのようなことがありませんでした。材料の選別の段階でしっかりしたものを送ってもらえるという信頼関係があったと思います。
 竹のさしは、プラスチック製のさしと比べて、たわまない長所があり、折れにくいし、こてやアイロンの熱に溶かされることもありません。竹ざしを使い続けることは、何よりも天然素材の温かみに対する日本人の愛着心の表れだと思います。これからも誠心誠意仕事のあるかぎり続けたいと思います。もっともっと竹ざしを使ってほしいものです。」

 (イ)竹ざしの製造-香川県観音寺市-

 **さん(香川県観音寺市 昭和22年生まれ)は、父親の時代から大洲市新谷町の**さんから、さしの材料の竹を仕入れてさし作りをしてきた。現在は中国製の安い竹ざしが輸入され、さし作りだけでは生計が維持できず会社勤めをしている。**さんは大洲の竹への思いを次のように語る。
 「昭和30年(1955年)に、父親が香川県綾歌(あやうた)郡宇多津(うたづ)町でこの仕事を始めました。大洲産の竹とは昭和30年代半ばから取り引きがありました。1尺の鯨尺は節のないもの、2尺(約76cm)の鯨尺は一節でないと商品価値がありませんでした。盆前や年末などには呉服屋がお中元やお歳暮として配るため2,000、3,000という数が出ていました。そうすると材料を多く仕入れていないと間に合いません。このような材料をきちんと納入してくれるのが大洲の業者でした。大洲市の**さんからは、昭和40年代の最盛期には材料竹を3万から3万5千本仕入れていました。
 鯨尺廃止の時代には、計量検査官が突然作業場を見にきます。鯨尺が見つかって高松へ呼びつけられたことがありました。鯨尺を使う人たちにとっては、手に入りにくく困った時代ではなかったかと思います。やむを得ず製造業者も作らねばならない状況にありました。尺貫法が停止になってから、内緒で鯨尺の生産をしてきた私のところのような小さい会社が息を吹き返しました。
 私たちは材料が入らないと生産が出来ません。大洲の**さんが入院して材料が入らなくなるかもしれないときに、私は大洲まで出かけて何とか材料だけは続けて入れてくださいとお願いに行きました。材料屋さんとの信頼関係が一番ですから、**さんが亡くなられてからは、大洲の竹林へ何度か足を運び、お手伝いさせてもらって材料の確保に努めました。
 大洲に材料屋があり、いい材料を提供していただいたことは、ありがたいことでした。材料屋にもうやめたといわれれば、私たちも職を失うわけですから、父親からも材料屋を大事にしなくてはいけないと言われていました。」


*1:松脂 松の樹幹から分泌する樹脂。無色透明だが、時間がたつと粘り気を増し、白濁して黄色味を帯びた固体ができる。
  塗料溶剤、ニス、医薬品、紙などに利用される。
*2:建仁寺垣 竹垣の一種で京都の建仁寺で初めて用いたという形式で、四つ割り竹を皮を外にして平たく並べ、竹の押縁を
  横に取りつけ縄で結んだ垣。

写真1-2-3 竹の鯨尺と20cmざし

写真1-2-3 竹の鯨尺と20cmざし

(上)20cm(中)1尺(下)2尺。1尺=約37.9cm。平成16年12月撮影

写真1-2-4 メートル法の数値を伴記した鯨尺

写真1-2-4 メートル法の数値を伴記した鯨尺

平成16年12月撮影

写真1-2-6 山腹を覆う竹林

写真1-2-6 山腹を覆う竹林

大洲市新谷町。平成16年9月撮影