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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)城辺の百貨店

 愛南町は、愛媛県最南端に位置する南宇和郡内の5か町村が合併して平成16年10月成立した町であり、高知県宿毛市と隣接している。昭和30、40年代は国道56号の整備が遅れ、陸の孤島(ことう)などともいわれた。宇和海に面した地域では、真珠養殖や魚類養殖が盛んである。
 **さん(南宇和郡愛南町城辺 昭和13年生まれ)は南宇和郡愛南町城辺地区で昭和初期創業の地域におけるよろず屋的な百貨店を守って現在にいたっている2代目の経営者である。その**さんに、地域の百貨店として現在に至った話を聞いた。
 「この店は、昭和5年(1930年)に父親が創業しました。親父は新しいものが好きで、総合的な商店にしようということで、何でも屋という感じで百貨店の名称になったと思います。現在は、百貨店ではイメージが古いようなので私は極力使わないようにしています。契約などの正式なときは、登録店名が百貨店ですので、そのときに使うくらいです。創業当時は家具や寝具のほか、化粧品、呉服、衣類などを扱っていました。
 私は、昭和31年(1956年)に高校を卒業して、呉服などを扱う大阪のとある商店に就職しました。私は次男坊でしたから親父は口癖のように『お前はいらん子じゃから自分で道を切り拓かなければいけん。』と言っていました。親父の勧めもあって、卸問屋より小売商店のほうが商売のさまざまなことを学べるということで就職しました。就職した呉服屋は手広い商いをして、小売商でありながら卸商のようなこともやっていました。戦後10年経って社会も安定し始め、人々の目が着るものにいくようになった時代であったと思います。いい商売ができ、こんなに売れるのなら自分もという気持ちがいっそう湧いてきたのも事実です。その当時の従業員のほとんどが『10年で独立するぞ。』というのが合言葉でした。住み込みでしたから、一から十まで覚えさせられました。私は次男坊で帰るところはないわけですから、なおさら一生懸命でした。10年目に独立する準備を始めていたときに、親父から『兄貴が後を継がないから、お前が帰ってくれ。』と言われたので、昭和40年(1965年)に城辺町に帰りました。それから4年後に親父は亡くなりました。
 私の小学、中学、高校時代、自分が手伝うことといえば大売出しのときなどの商品の運搬程度でした。お祭り前や正月前はたくさんのお客さんでごった返したのを覚えています。特に水産関係の人はよく買ってくれました。御荘(みしょう)町中浦(なかうら)(現愛南町中浦)の水産会社の船が何か月ぶりかに帰ったときなど、とても忙しい毎日でした。船に乗っている人の買い方を見ていると、それは思い切りがいいと思ったものでした。姉が呉服を中心に、私が洋服を中心に商いました。しかし呉服もまだ結構忙しかったので、採寸なども私が随分やりました。もちろん鯨尺とヤール(ヤードの変化した語。主に布地を計るときに用いる。1ヤードは約91.44cm)さしで、この2本のさしが基本です。今でも使っています。布団や服地はみなヤールさしを使います。
 呉服は絹製品を扱うので、目付(めづき)(輸出用羽二重(はぶたえ)など精錬した絹織物の一定面積についての重さを示す単位)といって、同じ絹製品でも生地の厚いものと薄いものがあります。それらが手触りですぐ見分けられなくては一人前とはいえません。そういうことをできることが自分の自信になっていきました。
 昭和40年代ころまでの普段着にするような実用呉服の需要が少なくなり、徐々に洋服という形に変わってきました。昭和50年代には、オーダーメイドが流行らなくなり、服地の売れ行きも減り始めると、次第に既製品の洋服が売れるようになりました。このような時代の変化に対応しつつ、今では百貨店のイメージを払拭し、洋品専門店と呉服専門店の2店舗を営んでいます。」