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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(3)貸衣装

 ア 自立していくために

 **さん(西条市大町(おおまち) 大正14年生まれ)は、太平洋戦争で夫を亡くし、自活していくために美容師への道を歩み、現在(平成16年)も現役の美容師として、貸衣装業も営んでいる。その**さんに話を聞いた。
 「開業は昭和28年(1953年)でした。私は戦争未亡人で、夫は昭和21年(1946年)中国の武昌(ウーチャン)の兵站(へいたん)病院(*5)で亡くなりました。夫は西条市氷見の生まれで、食料品、雑貨商を営んでいました。夫が戦地に行くと留守を預かるものがいないということで昭和18年に強制的に結婚させられて、20日ほどしか一緒にいませんでした。夫はすぐ中国へ送られ、終戦後、中国の兵站病院で死亡したと昭和21年に白木の箱が送られてきました。その箱を開けると、中には約1cmの毛髪が5、6本入れられていて、これが夫だと思い葬儀を出しました。敗戦後のことですからひっそりとしたものでした。戦争はなんと酷なんだろうと思います。二度とあのようなことはないようにと思います。
 先日、愛媛新聞にある俳句が解説とともに載っていました。その句は昭和14年の作で、『蟇(ひきがえる)誰かものいえ声かぎり』とあり、この句を読んであの当時のことが思い出されて涙が出ました。親が死にかけていても戦場に駆り出される。それに対して何も言えない。本当に当時が思い出されて、死んだ人も声の限り叫びたいだろうと思いました。
 18歳で結婚して夫の実家に3年いました。**の姓だけは残してあげようと心に決めていましたが、夫が亡くなってから自分はどうして生きていったらいいだろうかと思ったときに、自分は髪をいじっていろいろな髪型にするのが好きでしたので、美容師になろうと決心しました。
 昭和24年(1949年)に、神奈川県鎌倉市の美容学校へ入学するのに、米を3升(5.4ℓ)と、野菜などを持って行きました。2年の修業を終えて西条に帰ると、義母がお金を出してくれてこの西条市大町に家を買い、小さな美容院を始めました。貧しかったですが、自分の好きな仕事ができるという喜びをかみしめながら頑張りました。新しい技術を学んできているわけですから、お客さんには喜んでもらいました。
 美容院をしていると婚礼にかかわりができ、昭和30年代の初めに黒の留袖2枚の貸衣装で妹と西条市福森(ふくもり)で貸衣装業を始めました。当時は衣装を借りるということ自体が恥ずかしいという時代でした。花嫁衣裳も黒の留袖で、私は、お嫁さんを少しでもかわいらしく豪華で、きれいに見せてあげたかったというのが貸衣装を始めた動機でした。そのためには日本髪の勉強もしなくてはならないし、かつらの結い上げなども勉強しました。
 しだいに留袖は、結婚式に列席する人が着るものになってきて、お嫁さんは振袖を着るようになり、しだいに派手になってきました。お嫁さんはまず白無垢(しろむく)(白一色の着物)を着て、色の内掛けを着て、振袖、ウエディングドレス(写真1-2-19参照)に着替えて、カクテルドレスを着てというように全部で5点ぐらい着るようになりました。最近は振袖はやめて、ドレスのいろいろなものを着たいというように志向が変わりました。
 私がこの仕事を始めた当時、この西条は陣屋町ですので、古いしきたりも残っていて、きものにはなかなか見識のある方が多くいたと思います。きものには案外贅沢(ぜいたく)であったと思います。京都に仕入れに行くときは、いいものを仕入れてこなくてはと思っていました。
 お客さんに『こんなに綺麗(きれい)にしてもらって』と言ってもらうのが一番の喜びです。貸衣装を持って行って寒風(かんぷう)山隧道(ずいどう)を通って高知県境の家で花嫁衣裳を着てもらって村の人々に見せたのち、西条へ嫁いで来た例もありました。昭和34年(1959年)のことでしたが、西条市藤之石(ふじのいし)地区風透(かざすき)(平成16年12月現在9世帯18名)でお嫁さんの着付けをしたときは、地域の人がそろいの衣装を着て祝いの歌を歌ってくれて山道を歩いて嫁入り先の集落までいっしょに歩いたこともありました。その途中に松の大木が倒されていて歩くのを妨げられもしました。そのお嫁さんが、大勢の人に惜しまれていて集落から出したくないという喜びの表現の一つだと聞きました。
 私は、お嫁さんをいかに美しくかわいらしく作ってあげられるかということに苦心して仕事をしてきたつもりです。かつらでも丸顔なら丸顔に、面長なら面長に合うように髪を作ってあげるよう注意して日本髪を結ってきました。
 やがて結婚式場が自前で貸し衣装を持ち始め、私たちは蚊帳(かや)の外に置かれ始めました。現在は結婚式場も簡素化され旧西条でも葬儀場になったところがあります。葬儀の衣装を借りる人も多くなりました。また、カラオケ大会とか、子どもさんのお稽古(けいこ)ごとの発表会の衣装とかさまざまです。
 現在私は高齢になりましたが、今あるのは皆さんのおかげですので、皆さんに今までいただいたさまざまなものを少しでもお返しするのがこれからの私の務めだと思います。」

 イ 県境での貸衣装

 **さん(南宇和郡愛南町一本松(いっぽんまつ) 昭和25年生まれ)は、愛媛県南部県境の町の一本松町(現愛南町一本松)で美容院を経営しながら貸衣装も経営してきた。**さんは、これまで各種資格を取得してきたが、自分の腕を客観的に知りたいと、全国の美容師が着付け全般の技術を競い合う東京での平成14年(2002年)11月の「第43回トータルビューティコンテスト全国大会」に初めて参加した。コンテストでは、作りすぎず自然にを心にとめながら、メークや体型づくりなど入念に下準備して、数mmの誤差が美しさを左右するという襟元の調整などに気を配り大会に臨み最優秀賞を受賞した。その**さんに話を聞いた。
 「子どものころ、母が美容院へ行くときに私をよくいっしょに連れて行ってくれました。そのときにそのお店の人が生き生きと働く姿を見て、美容師になるのもいいなと思っていて、宇和島の美容学校に入りました。卒業後は、城辺町(現愛南町城辺)の美容室で2年間働きました。
 昭和45年(1970年)に一本松にいる叔母の誘いがあり、そのとき私はまだ10代でしたが一本松町で開業し、1年後に結婚しました。私は松山の美容室で働きたかったのですが親は反対しました。いつか都会でやろうと思っていましたが、いまだに一本松町でやっています。
 成人式の着付けやお嫁さんの着付けをしていく中で、年配の方に衣装のことを何かと教えていただきました。花嫁姿の写真は何時までも残りますから、最初に着付けを手がけたときは自信がもてず、着付けを教わった先生にわざわざ見にきてもらったこともありました。最初はそれぞれの家庭へ行って着付けをしていましたが、都会でやっていた前撮(まえど)りの方法を取り入れ、しだいに写真屋さんで着付けをするようになりました。また都会の写真館での着付けを見学したときに、隠し撮りをして自分で研究したりもしました。そしてその後、正式には津島町の先生に教わりましたが、東京や名古屋の先生に松山まできていただいて着付けの勉強をしました。一本松町から松山へ行くのに道がまだ整備されていなくて苦労しました。若いときに店を始めましたからいろいろなことがあり、失敗もしましたが、でもお客さんが許してくれました。都会ではそのようなことはないと思いますが、これが田舎のいいところでした。
 貸衣装は、昭和46年から留袖3着を仕入れて始め、そのあと打掛け(帯を締めたきものの上に打掛ける裾長のきもの)を買いました。最初は赤の打掛けを仕入れ、つぎに白を仕入れました。そのころ一本松地区では、家から花嫁姿で出るときは打掛で出ていました。しばらくしてドレスが出て、それも購入しました。私は田舎にいましたが、業界誌や松山の先生からその時その時の流行を勉強し、全国の流行をいち早く取り入れたメーク、着付け、かつら、衣装をしましたので、若い人がお客としてついてくれました。
 貸衣装の仕入れに、年に何回か京都の展示会に行きます。田舎ですから高いものでなくてもと最初は思っていても、仕入れるときにはいいものに目がいきます。自分が着るものは安いもので我慢してでもと思い、結構いいものを仕入れました。貸衣装のデザインはめまぐるしく変わりましたが、それにある程度ついていかないとこの商売はできませんから、資金面でも大変でした。
 このような仕事をしてきて、いろいろありました。私も女性ですから、お嫁さんが親の反対を押し切ってお腹が大きくなってから結婚式をあげるときに、それを何とか隠してあげたいという思いがあります。打掛けでは隠せますが、振袖やドレスは隠せませんから、たとえば大きな花を持つとか、扇子を広げて持つとか小道具を工夫しました。
 美容、着付け、貸衣装など手がけて、若いときは都会に憧(あこが)れていました。一本松町は本当に田舎ですが、田舎だからできない、都会だからできるということはないと思います。私も先生について学びましたが、基礎基本を学んでも本人の向上心なくてはできないと思いました。衣装にしても、衣装屋さんから田舎でそんなにいいもの買ってどうするのなどと言われたことがありますが、田舎・都会に関係なく私が手がけた人が綺麗(きれい)だといわれるのが一番うれしくなります。
 私は子ども二人を美容師にしていますが、子どもたちは別に店を持っています。一緒にすると私が辞めなくてはなりません。継いでくれるのはうれしいですが自分が引退するのは辛いことです。ですから自分が元気な間は田舎でいい、独りでやっていきたいと思っています。忙しいですが頑張りたいと思います。」


*5:兵站病院 戦場の後方にあって食糧・弾薬などを補給する場所にある病院で、軍人・軍属の患者を収容し、また、予備病
  院に輸送すべき傷病者の一時治療にあたる。

写真1-2-19 出番を待つドレス

写真1-2-19 出番を待つドレス

西条市大町。平成16年7月撮影