データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(4)かけはぎ

 かけはぎとは布が短すぎたり破れたりした時、目立たないように同じ布地などでつなぎ合わせることをいい、掛継(かけつぎ)とも言う(⑫)。
 かつては、貴重なきものや洋服に穴があいたり破れたりした場合、家庭で補修ができず、かけはぎ職人に依頼していた。この作業は細かくて、根気のいる仕事であった。現在のように大量生産、大量消費、使い捨ての時代には、買い替えによって安易に同じ製品が手に入るため、かけはぎ職人に補修を依頼する人も激減したという。
 平成16年(2004年)に聞き取りした限りでは、県内でかけはぎ店として営業しているのは、宇和島、松山、西条にそれぞれ1軒で、他は京都、大阪へ送る取り次ぎ店であった。

 ア 体の不自由を克服して

 **さん(宇和島市伊吹(いぶき)町 昭和24年生まれ)は、小さいときに小児麻痺(しょうにまひ)を患い、現在でも、松葉杖なしでは歩行が困難である。**さんにかけはぎを始めた動機などについて話を聞いた。
 「私は、中学校を卒業して市内の洋服店に昭和38年(1963年)に就職しました。私の親父も洋服仕立て業でしたので、私の夢は、洋服を縫えるようになることでした。
 親父はわたしが生まれてすぐ亡くなりましたから、顔は知りません。子どものころから自分のズボンをほどいてみてはミシンで縫い直したり、中学生のころにはラッパズボンが流行していて友達が直してくれと言ってきたこともありました。見よう見まねで、自分の着る物のほころびなどは、ほとんど自分で直しておふくろに頼んだことなどありませんでした。
 その店で掃除や道具の手入れ、修理をしながら技術を覚え、ズボン、背広、コートが縫えるようになるのに5年かかりました。そのころは、夜も寝ることができないほど忙しく仕事がありました。昭和30年代後半から40年代にかけては注文服がほとんどでした。
 28歳で独立しましたが、そのころは既製服の普及で仕立ては減少し、直しの仕事が増えていきました。私はこのような身体で、転職ができませんから、かけはぎができるように努力しました。宇和島市内に教えてくれる人はいませんでしたから、大阪でかけはぎの仕事をしている友人が帰ってきて教えてくれました。これもやり方だけ教わって、後は自分で努力するほかありませんでした。毎日が練習で、お客さんから料金が何とかもらえるようになるのに2年以上かかりました。
 かけはぎの手順は表からします。経(たて)糸、緯(よこ)糸に同じ生地の経糸緯糸をつなぎ合わせていくのです。肉眼ではできませんし、1本違えば模様が違ってしまいます。ルーペで見ながら織り糸をつなぎ合わせる作業をしますから時間がかかります。
 洋服の仕事も細かい仕事ですが、この仕事はもっと大変でした。最初は『なんやこんなの簡単や、上からふたをしめたらいいやないか。』と思いました。実際やってみると神経は使うし、これほど大変な仕事はありませんでした。もし私が健常者だったらもうやめていたでしょう。しかし、自分にはこれしかないと思い直して頑張って続けました。
 今までの仕事でいろいろありましたが、『親父の形見として着ていた洋服だが直してくれないか』と持ってこられる方が時々あります。このようなお客さんは大事にしたいと思います。複雑なものはやりたくなくても、そこまで大事にされているものならと思います。
 仕事は、穴に四角い同じ布をかぶせ、あとかたなく仕上げるのがかけはぎの技です。織り方が何種類もあるのでその織り方を十分知って、布の性質に合わせて仕上げます。細かい仕事ですので何度やめようと思ったかしれません。
 小児麻痺で身体が不自由な上に、目が疲れます。修業していたときは景気のいい時代でしたから、技術を1日でも早く覚えて独立したいと思っていました。しかし、いざ自分が独立してみると先行きが不安な状態で、独立してからはあまりいいことはありませんでした。家内がお好み焼きなどの店をして生計を支えてくれましたので、この仕事が続けられました。いつもこれでいいなどと満足していては技術が向上しません。夜中でも気になれば起きて納得するまで取り組むことがあります。評価はお客さんがすることだと思います。
 この仕事をする人はこれから少なくなると思いますが、これからも満足することなく努力して、できる限り続けていきたいと思います。」

 イ 82歳の現役職人

 **さん(松山市堀江町 大正12年生まれ)は、今まで生きてきたお礼に何か一つでも他の人に喜んでもらえればと、現在もかけはぎの仕事を続けている現役の職人である。その**さんにかけはぎへの思いについて聞いた。
 「私は、昭和23年にシベリアより九死に一生を得て帰国し、農業をやっていました。戦後のことですから山の開墾をしたり、食糧生産に一生懸命でした。35歳のころでしたが、病気になり、激しい労働が出来なくなりました。そのとき妹が服飾関係の仕事をしていて、服飾の仕事を手伝ったことがきっかけで、補正の仕事を見よう見まねで始めました。洋服一式は仕立ての勉強をしていないから作りません。
 補正の仕事をしているうちに、虫食い、破れなどのかけはぎの仕事の注文がきます。自分はそれだけの技術がありませんでしたから、それができる知人に頼みに行きましたら、忙しいからといって断られました。そのときのくやしさが自分をかけはぎの道に進ませたといっても過言ではありません。それから独学で始めましたが、これは、細かくて根気のいる仕事でした。かけはぎは布の織り方に合わせて糸を織り込むわけですが、この仕事は2年や3年ではなかなかお客さんからお金を貰うまでにはなりません。私は、布の織り方などについて県立図書館に何度となく通って文献を読んで勉強し、苦心惨憺(さんたん)して自分なりに身につけました。お客さんに満足してもらえるようになったのは6年から7年たってからです。仕上がりがお客さんに満足してもらえなくてはなりません。現在でもかけはぎに持ってこられる方で勘違いされている方がおられます。元通りになると思っている方がおられるということです。
 私は、補正の仕事からかけはぎの仕事に入りました。突き詰めていえば、補正よりはかけはぎのほうが経済的によかったということです。細かくて根気のいる仕事ですが、一つ一つの出来上がりが違っていて面白いです。これは私だけの技術だという自負も芽生え、のめりこんでいきました。
 若い人がこの仕事を商売として身を立てようと思っても成り立たないのが現状です。この仕事に入った時代には、紳士服1着あつらえたら、20年、30年、あるいは一代着れるかもしれないというきちんとしたものが作られていました。しかし、現在は大量生産、大量消費の時代で、安くていい既製品があります。私のような仕事は経済的に成り立ちません。この仕事を始めた最初の20年間は、衣類を大切にする世代の人が現役で働いておられた時代でした。後半の20年は大量生産・大量消費で衣類は使い捨ての時代となり、私たちの仕事は激減しました。
 傘寿を過ぎた82歳の今、今まで勝手放題に生きてきて、一人でも二人でもいいから私のしたことに対して喜んでもらえれば、それが私の支えであり、喜びです。きざな言い方かもしれませんが、それだけです。私たちの植え付けられてきた価値観と現在の若い人たちとは、全く違います。15年ぐらい前からは、ほとんど古いものを直してくれという人はなくなりました。時代は変わったのです。」