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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)「まち」に生きる

 ここでは、昭和初期から高度経済成長期ころまでの都市の小さな単位である集落を「まち」としてとらえ、そこを主な生活の舞台としてきた人々への聞き取り調査に基づき、普段の装いについて探りたい。しかしながら、まちは多くの生業形態をもっており、それらが日常的に分立し活動しているために、そこにおける社会構造は重層的なものになりやすく、いきおい文化の創造や伝承の単位も多様である。このため、以下に述べることは、あくまでもまちのくらしの一断面であることを断っておきたい。

 ア 商いの装い 

 (ア)店先で

 松山市湊町(みなとまち)3丁目で、衣料品店と食品の卸売り会社を経営してきた**さん(大正8年生まれ)、**さん(大正12年生まれ)夫妻に、戦前・戦後の「まち」の暮らしや普段着、仕事着などについて聞いた。
 湊町は大街道とともに、松山の中心商店街として発展してきた。昭和5年(1930年)から39年(1964年)の間は1~6丁目があり、3丁目は洋品店・履物店・足袋(たび)屋・金物店・帽子店・眼鏡店・仏具店など種々の商店が並び、呉服店が多い4丁目では11月には大売り出しのえびす市が開かれていた。湊町と大街道(おおかいどう)1丁目が交差するあたりは“魚の棚”と呼ばれ、魚屋が多くあった。
 **さんは、「大正8年(1919年)に、私が湊町3丁目(図表2-1-2参照)で生まれたころ、父は砂糖や小麦粉などの卸・小売業を営んでいました。子どものときには、庶民の市場として栄えていた“魚の棚”に、揚げ物やちくわ、味噌(みそ)などを買いによく行かされました。また、正安寺(しょうあんじ)に近くて、境内は近所の子どもの格好の遊び場になっていました。遊びが過ぎて和尚さんにしばしば叱(しか)られましたが、今では楽しかった思い出のひとつになっています。
 尋常小学校の1、2年生ころは、きものに八折(やつおれ)(板裏草履)のような草履を履いていましたが、3、4年生ころから学童服を着るようになりました。家に帰ってからの遊び着(普段着)も通学の服装とほとんど同じものでした。
 昭和11年(1936年)に県立松山商業学校(現松山商業高等学校)を卒業して、家業を手伝っていましたが、そのころ、店に出入りする運送業者は、肌着の丸首シャツの上に印半纏(しるしばんてん)(襟・背・腰まわりなどに、屋号・家紋・姓名などのしるしを染めぬいた半纏)を着て、足首のしまったズボンをはいていました。頭には日本手ぬぐいでねじり鉢巻をしたり、麦わら帽子をかぶったり、足元は地下足袋を履いていました。
 昭和15年に陸軍に召集され、北満州(きたまんしゅう)(中国北東部)に駐留、ソ満国境の警備に当たりました。その後、台湾やフィリピンを転戦し、同21年2月に無事復員してマラリヤや皮膚病に悩まされながらも、空襲で焼失した我が家の後始末に取りかかりました。昭和23年に結婚し、ここに小さな家を建て、とりあえず雑貨や衣服の古物(ふるもの)などの取り扱いを始めました。昭和26年に衣料の小売りを、翌27年には砂糖、小麦粉、雑穀、その他食品類の卸売を始めました。
 昭和30年ころは、詰襟(つめえり)でボタン付きの長袖シャツに作業ズボンで仕事をしました。また、寒い日には毛糸のカーディガンやボタンでとめるジャンパー、でんち(袖なし綿入れ半纏)などを着ました。
 普段着もほとんど仕事着と同じでしたが、夕食後に家でくつろぐようなときは、夏には浴衣やじんべい(じんべえ。麻・木綿製で半袖または筒袖の夏の家庭着)を、秋から冬にかけては袷(あわせ)(裏地をつけたきもの)や丹前などを着ました。」と語る。
 一方、奥さんの**さんは、「昭和26年(1951年)から衣料品店の営業を担当し、子ども服や婦人服、紳士服・セーター・ジャンパー・ズボンなどの紳士物、肌着や足袋、靴下などの洋品を扱いました。
 仕事のときは、昭和23年(1948年)ころには、銘仙(めいせん)(絹織物の一種。縞柄(しまがら)や絣柄(かすりがら)の平織りで、実用着としての丈夫さと絹の風合(ふうあ)いを併せ持つ。)や紬(つむぎ)(絹織物の一種。くず繭(まゆ)を紡いでよりをかけた糸で織った布)のきものに白い割烹着(かっぽうぎ)(家事や料理などをするときに着る袖のある白いうわっぱり)を着けていました。お客さんより良いものを着て店に出ることはまずいので、きもののときには必ず割烹着をするようにと母から厳しく言われていたからです。
 昭和26、7年ころになると、シャツカラーやテーラードカラーで無地のブラウスや、膝下10cm程度のタイトスカート、事務服などに変わりました。防寒着はカーディガンやトッパー(婦人用のゆったりした短いコート)でした。仕事着がきものから洋服に変わったことで、忙しい中でも着替えが短時間ですみ、助かりました。また、軽装だと活動しやすいので、疲れも少なくなりました。
 昭和28年(1953年)ころには店員もブラウスやセーター、カーディガンにスカートを着ていましたが、店員が多くなった昭和30年には紺色の制服を作りました。昭和35、6年から化粧品も扱いましたが、人目につく格好はしないようにしつけられていましたので、私はあまり化粧はしませんでした。
 このころの普段着は、ベージュ・茶・紺色のセーターや無地のブラウス、茶・紺色のベストなどを着ていました。派手な黄色や赤色などのものは着ませんでした。」と話す。

 (イ)店の奥で

 松山市大街道1丁目でカメラの修理・販売店を経営してきた**さん(大正7年生まれ)に、きものの生活や寝間着などについて聞いた。
 大街道は1~3丁目があり、1丁目はさまざまな商店が並んでいた。2丁目は映画館や劇場があり、映画・演劇の中心地で、3丁目は自家製造の小売店が多数ならんでいた。
 **さんは、「広島に住んでいた女学校時代はセーラー服が制服でした。帰宅すると夏にはモス(毛織物の一種。モスリンの略。細い糸で作った薄地のやわらかい生地)のきものや洋服を、秋にはセル(毛織物の一種。細い糸で織った薄い和服地)のきものを、冬には袷(あわせ)や綿入れを着ました。
 私は、昭和8年(1933年)に16歳で広島県比婆(ひば)郡西城(さいじょう)町から、松山へ来ました。夫は松山高等商業学校(現松山大学)を卒業後、昭和14年に陸軍に召集され、傷痍(しょうい)軍人(負傷した軍人)となって復員しました。その後、母校(松山高等商業学校)や銀行にも勤めましたが、戦争中は軍隊で重機関銃(きかんじゅう)の修理をやった経験もあり、機械いじりが得意だったので、昭和24、5年に中村町の実家でカメラの修理業を始めました。昭和31年(1956年)には大街道に店を出し、私たち夫婦と子どもで現在も続けています。
 昭和10年(1935年)に結婚し、普段はモスやセルのきものを着ていました。
 昭和17年には長女が誕生し、戦争中で衣料がないため、持っているきものをほどいて子ども服を手づくりしました。毛糸の服もたくさん持っていたので、手編みでセーターやパンツなどを作りました。戦後は銘仙のきものにエプロン姿が多く、ほとんど毎日きものを着ていました。ウールが流行(はや)りだしてからは、冬にはウールを着ました。きもののままで店頭にも立ちました。
 寝間着は、夏には浴衣(ゆかた)を、冬にはネルのきものを着ました。就寝中に何が起こるかわからないため、きちんとしたものを着なければいけないと親からよく言い聞かされていました。」と話す。

 イ 氷づくりの装い 

 今や「氷」は、食品保冷用や食用として、生活必需品の一つであるといっても過言ではないだろう。家庭用にとどまらず、業務用としての用途も多様で、漁業協同組合や魚屋をはじめ、飲食店や旅館ほか、病院や学校などでも盛んに消費されている。しかしながら、戦後間もないころまでは、各家庭では製氷装置や電気冷蔵庫をもつことはまれであり、ほとんどの場合には、専門の製氷業者から購入していたのである。
 国産の電気冷蔵庫が市販されたのは、昭和5年(1930年)のことであった。そのころすでに一部では氷を利用した氷冷蔵庫が出回っていたものの、一般家庭で電気冷蔵庫が使用されたのは、昭和30年代のはじめであり、本格的に普及したのは、昭和40年代に入ってからのことであった。
 今治市恵美須(えびす)町3丁目で、製氷業とガソリンスタンドを経営している**さん(大正11年生まれ)と**さん(昭和3年生まれ)夫妻に、製氷業を始めた経緯や、かつての暮らしと仕事着、普段着などについて聞いた。
 恵美須町は今治港の南側に位置し、1~3丁目がある。住宅や商店、会社などが立ち並び、今治城のある吹揚(ふきあげ)公園に隣接している。
 **さんは、「私は、昭和4年(1929年)に富田(とみた)尋常高等小学校に入学しました。そのころはきものと学童服が半々でした。履物は白い鼻緒の草履(ぞうり)が多く、靴や下駄(げた)の者もいました。しかし6年生のころになると、きものの者はいなくなり、学童服に変わりました。
 昭和23年(1948年)に結婚し、アイスキャンデー屋を始めました。やがて出入りしていた今治市内の製氷会社で氷の大切さを知り、製氷業をやろうと決心して、昭和24年の1年間、松山市駅裏にあった冷蔵会社で勉強をしました。昭和25年に製氷業を始めましたが、経営が軌道に乗りかけた矢先の昭和29年に、漏電(ろうでん)火災を起こしてしまいました。そのうちに将来は家庭用の製氷機や冷蔵庫の普及などで氷の需要が減少するに違いないと考えるようになり、昭和32年には石油販売業も始めました。
 製氷冷蔵の仕事着は、夏にはシャツカラーや丸首の白い半袖シャツに作業ズボンを、冬には厚手の下着に木綿の作業着、ジャンパーなどを着ました。それでも中が-20℃以下に保たれた製氷室や冷蔵庫の中に入るときには、内側に綿の付いた防寒服や耳当ての付いた帽子、中側に毛の付いた長靴などを着用しました。
 普段着は、夏は仕事着のシャツやズボンでしたが、家の中では縮みのシャツやステテコ姿で、腹巻を付けていることが多かったと思います。冬は厚手の作業着、灰色や黒色のセーター、ボタンのついたジャンパーなどを着ました。」と語る。
 また、奥さんの**さんは、「昭和10年(1935年)に小学校に入学し、ワンピースに大きいエプロンをつけて通学しました。最高学年の6年生のときにもワンピースを着ましたが、セーラー服の者もいました。普段着もワンピースでしたが、冬には毛糸の服にスカートをはきました。きものはほとんど着なかったのですが、風邪で発熱したときは、母が作ってくれた袷のきものと羽織で過ごしました。
 愛媛県立今治高等女学校(現今治北高等学校)では、白い襟(えり)の付いた制服を着用し、普段着は同じくワンピースでした。結婚後は綿の服とズボンの普段着で氷を運びました。寒いときにはカーディガンやオーバーを着ました。寝間着は浴衣やネルのきものでした。」と話す。

図表2-1-2 昭和初期の松山市湊町3丁目付近の略図

図表2-1-2 昭和初期の松山市湊町3丁目付近の略図

太字は聞き取り調査先。**さんの提供資料より作成。