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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(2)使い切る知恵と技②

 (イ)アイロンの話

 アイロンは、その名「鉄」の意のとおり、19世紀中ごろ、イギリスで取っ手をつけた鉄の厚板に石炭のおき火をのせて、衣服のしわを伸ばしたのが始まりといわれている。日本では、古くから金属製の火桶に木製の柄がついた火熨斗(ひのし)(写真2-1-20参照)が使用された。19世紀末ごろにはイギリスから西洋火熨斗(アイロン)が導入された。今日のような電気アイロンは、ニクロム線の開発によって熱源が急速に電気に変わった20世紀以降用いられるようになった(⑨)。
 アイロンについて、**さんは、「火熨斗は友人の亡くなった母親が使用していました。大正初期のころに、きものの半襟の上を押さえたり、男物の上着やハンカチのちょっとした皺(しわ)取りに使っていたようです。
 アイロンは、炭火アイロンから電気・ガスアイロン、蒸気アイロンと変わってきましたが、私はガスアイロンは使ったことがありません。炭火アイロンもわずかしか使いませんでしたが、使用するとき堅炭(かたずみ)は火がつきにくいので、消し炭(薪や木炭の火を途中で消してできた軟らかい炭)を熾(おこ)してその上に堅炭を置き、火力を強くして使用しました。しかし、昭和17、18年ころから太平洋戦争直後のころは堅炭が手に入らないので、消し炭を使用しました。
 全般的には戦前はアイロンもあまり使わず、ズボンやスカートなどは夜布団に敷いて寝押しをして折をつけたり、絹物のきものは、着る前に一晩吊っておくと、皺は伸びてきれいになっていました。」と話す。
 また、**さんは、「炭火アイロンを使ったことがあります。炭火を使用しないで、ストーブや練炭火鉢の上に乗せて暖めてから使ったりもしました。電気アイロン(写真2-1-21参照)を最初に使ったときには、あまりの素晴らしさに、『こんな便利なものがあるのか。』と驚きました。ポケットを折ったり、ボタンホールを作るなどの細かいことには、電気アイロンのとがっている角を使い、水を付けて押さえました。蒸気(スチーム)アイロンは最後の仕上げにはよいのですが、細かいところには向きません。そのため現在でも電気アイロンを使っています。」と話す。
 **さんは、「炭火アイロンは温度調節ができにくいので、指先に付けた水や唾(つば)の弾き方で温度を見ました。焦げやすいので、余分な熱を別の布で取りながら使用しました。昭和24年ころまで使っていたと思います。その後電気アイロンに変わりましたが、よく裁縫をしたので、重宝しました。」と話す。

 (ウ)洗濯の話

 昭和30年代ころまでは、洗濯といえば洗濯板を使ったたらい洗濯(写真2-1-22参照)であった。たらいはヒノキやスギなどで作られ、たが(おけ・たる・たらいなどの周囲に巻いて、しめつけるためのタケの輪)に狂いが生じると桶屋で修理していた。また、洗濯板はカシやブナなどで作られ、一面にぎざぎざの溝がある板で、溝の形には山型や波型などがあった。
 このころの洗濯といえば、井戸端や川べりにしゃがみこんだ姿勢で長時間揉(も)み洗いし(写真2-1-23参照)、絞るのもけっこう重労働であった。家族が多いと半日近くはかかり、特に冬の寒い日には大変な仕事となった。
 国産初の電気洗濯機は、昭和5年(1930年)に製造されているが、一般家庭に電気洗濯機が登場したのは、戦後になってからである。当初は、大学卒業者の初任給の20倍以上もする高価なもので、攪拌(かくはん)式、回転式、振動式などのタイプがあった。
 昭和28年(1953年)、噴流(ふんりゅう)式洗濯機が発売されると、洗濯物が傷みやすいものの、まず値段が安い、また、洗濯時間が短い、そして汚れがよく落ちるなどの理由で、どんどんと普及していった。
 また、初期の洗濯機には手動のローラー式絞り機が付いていたが、昭和34年(1959年)には遠心脱水機、その翌年には二槽式洗濯機が現れた。脱水装置の普及によって乾燥時間は短くなり、水が滴ることもほとんどないので屋内でも洗濯物が干せるようになった。さらに、昭和42年(1967年)には電気衣料乾燥機が登場し、天候や時間を気にしなくてもよくなった。
 せっけんは、明治10年(1877年)ころから一般家庭で使われるようになった。それ以前は灰汁(あく)や米ぬかなどが使われ、これらはせっけんの普及後も大正時代ころまで用いられていた。せっけんは衣類に付着した固体や油性の汚れなどを取り除く洗浄剤として使用され、水に溶かすとアルカリ性を示す。せっけんは、絹やウールなどの動物繊維の洗濯には使えないものの、木綿や麻などの植物繊維の洗濯に適している。やがて、電気洗濯機の登場によって、洗濯用洗浄剤は固形せっけんから粉末せっけんに変わり、ついで合成洗剤へと移り変わっていった。
 洗濯機や洗剤について、**さんは、「洗濯は手押しポンプのある井戸端で、たらいを使って毎日行いましたが、疲れて大変でした。また、戦時中にはせっけんが買えなくて、灰汁の上澄み液で洗濯をしました。当時は白い生地がなく、黒っぽい布が多かったので灰汁でも良かったのではないでしょうか。物がないため荒縄を丸めてたわし代わりにもしました。  
 洗濯機を購入したのは比較的早く、昭和32、33年ころであったと思います。私は仕事を持っていたため、時間にゆとりができて非常に助かりました。」と話す。
 洗濯や洗剤について、**さんは、「昭和33年ころまでは、洗濯は木製のたらいと洗濯板を使っていました。せっけんは大きいもの(長さ30cm、幅10cm、厚さ6cm程度)を買って、菜切り包丁で10個ほどに切って使いました。
 濯(すす)ぎはすぐ近くの川に洗濯物を持って行き、川べりにしゃがんでしました。子どもが6人いたため洗濯物が多く、しゃがんで長時間洗うために非常に疲れました。しかし、水量が多く水もきれいな川なので助かりました。   
 洗濯機は昭和34年ころに購入しました。子どもの成長期のころの多忙な時期だったので、洗濯機を回しながら他の仕事ができ、大変便利になったと思ったものです。」と話す。

写真2-1-20 火熨斗・炭火アイロン・蒸気アイロン 

写真2-1-20 火熨斗・炭火アイロン・蒸気アイロン 

西条市高田。平成16年12月撮影

写真2-1-21 電気アイロン

写真2-1-21 電気アイロン

西予市宇和町卯之町。平成16年8月撮影

写真2-1-22 たらいと洗濯板

写真2-1-22 たらいと洗濯板

今治市朝倉南。平成16年10月撮影

写真2-1-23 井戸端での洗濯

写真2-1-23 井戸端での洗濯

昭和30年ころの再現。今治市朝倉南。平成16年10月撮影