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えひめ、その装いとくらし(平成16年度)

(1)新年を迎えて

 ア 正月の行事

 正月行事は地域によって多様であるが、一般的には次のような行事の行われた地域が多い。
 正月行事の最初は、元日早朝の若水汲(く)み(若水迎え)である。汲んで帰った清水は、敷地内のあちこちに祀(まつ)られた神々に供えられるとともに、その水で雑煮が炊かれる。正月の神であるトシトクジン(歳徳神)を祀る臨時の神棚を設ける地域も多く、これをオタナサンと呼んだ。
 元日には、そのほか初詣(はつもう)でやカドアケ(門明け)が行われた。カドアケは年始礼のことで、本家・分家関係、親戚(しんせき)・知己(ちき)の関係、主従関係などによって家を訪ね、年賀のあいさつを交わし合う行事である。
 2日目以降にはシゾメ(し初め)が行われた。仕事始めの行事で、実際には形式的にほんの少し仕事のしぐさをする程度である。これはその人の生業(せいぎょう)に応じて異なり、例えば松山(まつやま)市久谷(くたに)地区(現松山市東方(ひがしかた)町などの総称)の農家ではクワゾメ(鍬初め)と称して土に鍬を3回打ち込み、土に埋めた輪飾りに御幣(ごへい)(*1)・干し柿(がき)・ミカンなどを供えて豊作と農事の安全を祈った。一方、漁家ではノリゾメ(乗り初め)があり、西宇和(にしうわ)郡瀬戸(せと)町三机(みつくえ)地区では関係者総出で船に乗り込み、船玉(ふなたま)様(船の神様)にお供えをして「今日は日もよし、風もよし(以下略)」と祝言(いわいごと)を唱和した。
 また、正月三が日をすぎると、新春のめでたい門付(かどづ)け芸(家々の出入り口で芸を披露して、金銭・米などをもらって歩くこと)を演じに、でこまわし(人形まわし)の一種である「三番叟(さんばそう)まわし」がやって来る地域があった(①)。各家々を訪ね人形を舞わせてお祓いをし、お守り札などを渡していくのである。

 イ 山里の正月

 伊予郡砥部町高市地区で農林業を営む**さん(昭和2年生まれ)に、昭和20~30年代の正月行事とその装いについて聞いた。高市地区は砥部町の南部に位置し、農林業を主産業とする山間地である。
 「元日の朝はまだ暗いうちに起き、提灯(ちょうちん)を下げて家の向こうにある水槽に若水を汲みに行きました。そこで、『福汲む、徳汲む、幸い汲む、よろずの宝を今ぞ汲み取る。』と唱えながら水を7回汲んで桶に入れて帰り、その水で雑煮を炊きました。
 できあがった雑煮は、一つの椀(わん)に餅を二つずつ入れて、神棚やクワカマサマなど合わせて8か所の神様にお供えしました。クワカマサマとは、鍬(くわ)や鎌(かま)など農林業の道具を庭に並べ、その前にお飾りの段をしつらえて祀った正月だけの神様です。
 雑煮を神棚にお供えして、『今年は何歳になります。どうか健康で幸せな年でありますように。』と祈願して、初めて『歳をとった』ことになります。そのあと家族で、先祖代々伝わる盃(さかずき)で酒を酌み交わしお互いに正月のあいさつをしますが、ここまでの行事を夜明け前にすませました。そして夜が明けると、山道を下って麓(ふもと)の高森三島(たかもりみしま)神社に初詣でに行きました。
 正月の正装に着替えるのは、雑煮を炊くころです。私は、無地の濃い茶系統の絹のきものを着て黒い帯を締め、黒い紋付の羽織(はおり)を着ていたと思います。こげ茶色の袴(はかま)も持っていましたが、袴はほとんど履きませんでした。女房もきもの姿で、紋のない簡単な羽織を着ました(写真2-2-3参照)。
 初詣では山道を歩いて行くので、羽織を脱ぎ、下駄(げた)を履きました。水分を含んだ冬の泥道は夜になると凍りつき、朝になって太陽が昇ると氷が溶けてぬかるむことが多かったので、下駄履きの軽装の方が歩きやすかったのです。のちに自動車で行く時代になると、羽織を着て草履(ぞうり)を履くようになりました。初詣でが終わると洋服に着替えますが、正月で誰(だれ)が来るかわからないので、普段着よりは小ぎれいな服装を心がけていました。
 正月2日になると、ホリゾメ(掘り初め)やコリゾメ(樵り初め)があります。ホリゾメは菜原(なばら)(野菜畑)で拝み、鍬で何回か掘るまねをする行事で、このときには近所の子どもたちを呼んで餅(もち)・ミカン・干し柿などを配りました。また、コリゾメは山で拝んで薪(たきぎ)を少しだけ拾って帰る行事で、ともに仕事始めの意味合いだと思います。ただ、これらの行事のときに作業着を着るわけではなく、普段着の洋服姿でした。」

 ウ お三番叟さんがやって来る

 毎年旧正月を過ぎたころ、高市地区に徳島県から人形を舞わす門付け芸人がやって来た。高市の人々はこれを「お三番叟(さんばそう)さん」と呼んで、その到来を心待ちにしていた(②)。**さんに、お三番叟さんの思い出を聞いた。
 「むかいづけ(谷をはさんだ向こう側の集落)から鼓(つづみ)の音が聞こえてくると、今年もお三番叟(*2)さんのやって来たのがわかります。しばらくすると、人形遣(つか)いの**さんがサス(天秤棒(てんびんぼう))の前後に人形を入れた大きな箱をぶら下げ、鼓を棒で打ちながら、こちらの山道をゆっくりと登って来ました。中折れ帽をかぶり、地味な茶系統のきものの上に羽織姿で、きものの裾(すそ)をはしょって下には股引(ももひき)・地下足袋(じかたび)を履いていました。
 **さんは、村に着くと各家をまわって庭先で荷をおろし、箱から次々と人形を取り出して三番叟などめでたい人形劇を演じます。節をつけて謡(うた)う声は朗々としていて、人形が本当に生きているように動きました。演目が終わると、腰が痛い人には腰を、肩がこる人には肩を、トントンと人形の足で触り、最後に家内安全、五穀豊穣(ごこくほうじょう)のお札をくれました。お礼として、どの家でも米1升(約1.8ℓ)を渡していました。
 村には**さんの常宿(じょうやど)が数軒あり、私のうちもその1軒でした。うちに宿泊した時は、翌朝起きるとすぐに座敷一杯に幕を張り巡らせ、幕の後ろに千歳(せんざい)、翁(おきな)、三番叟、恵比寿(えびす)(写真2-2-4参照)の人形(にんぎょう)4体(*3)を用意して次々と舞わせてくれました。家族は皆、正座してこれを見ましたが、そのときには私の父は必ず羽織を着ていました。家々の庭先で演じる場合は10分くらいですが、座敷ではそれよりかなり長い時間演じてくれたような記憶があります。
 昭和30年代のことですが、人形の衣装を新調すると言うので、私もそのうち1体の衣装を寄附させてもらいました。金糸(きんし)で刺しゅうされた豪華な衣装は、かなりお金がかかりましたが、その分、40年以上たった現在でもほとんど色あせずに輝いています。
 **さんが昭和38年(1963年)の豪雪を境に来なくなり心配していたところ、ある日のこと、廃業するので人形を譲りたいとの連絡がありました。それで現在、私の家で保管しています。先年、4体のうち2体の頭(かしら)は初代天狗久(てんぐひさ)(天狗屋久吉(ひさよし)。明治から戦前にかけて徳島県で活躍した阿波人形師の名人)の作だとわかりました。貴重な文化遺産として、これからも人形を大切にしていきたいと思います。」


*1:御幣 多くは白の和紙、時には金・銀・五色の紙を竹や木の串にはさんだもので、神前に供えたり、罪・穢(けが)れをお
  祓(はら)いする用具として用いる。
*2:三番叟 もともと能楽の「翁(おきな)」を構成するめでたい舞で、歌舞伎や人形芝居などにも導入されさまざまな形式を
  もって各地に広まった。農耕儀礼と関連し、五穀豊穣(ごこくほうじょう)を寿(ことほ)ぐ(喜びや祝いの言葉を言う。)と
  する見方がある。
*3:人形4体 式三番(しきさんば)の形式をとる三番叟の舞では、一番目に千歳、二番目に翁、三番目に三番叟が舞う。ま
  た、恵比寿舞の恵比寿は生業守護の福の神とされている。

写真2-2-3 正月のきもの

写真2-2-3 正月のきもの

昭和20~40年代に着用。**さん宅にて。平成16年7月撮影

写真2-2-4 恵比寿の人形

写真2-2-4 恵比寿の人形

砥部町高市。平成16年7月撮影