データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)戦後の住宅不足

 わが国の住宅事情を調査した基本資料の一つに、総務省による『住宅・土地統計調査』がある。それによれば、昭和23年(1948年)の県内の総住宅数は272,932戸(空家などの居住世帯のない住宅を含む)であり、それから約50年後の平成15年(2003年)は総住宅数が650,100戸(同)となり、約2.7倍に増加している。平成15年の総世帯数は569,000世帯であることから、住宅数が81,100戸世帯数を上回っており、数の上で十分に住宅が供給されていることがわかる(⑪)(図表序-9参照)。
 数の上で住宅数が世帯数を上まわるようになったのは昭和38年(1963年)前後のことで、それまでは住宅不足が続いており、なかでも戦後の復興期の住宅不足は深刻であった。当時は、戦災による住宅の焼失ばかりでなく、外地からの引揚者や復員者も多く、全国では約630万人に達しており、昭和20年(1945年)11月に設立された戦災復興院(戦災に遭った市街地や住宅を再建するために設けられた政府機関)は全国で420万戸の住宅が不足していると深刻化した住宅事情を発表している。
 愛媛県の戦災による住居の焼失状況をみると、松山市では32,000戸の住宅のうち41%にあたる13,558戸が、今治市では11,200戸のうち73%にあたる8,199戸が、宇和島市では12,700戸のうち50%にあたる6,468戸が焼失という状況であった(⑫)。それに加えて、終戦当時外地(国外)にいた本県出身者の引き揚げや復員者の合計は約122,000人にのぼり(⑬)、さらには軍需工場の労働者として本県を離れていた県人の帰郷なども加わり、急激な人口増加も起きていた(図表序-10参照)。昭和19年と20年の人口を比較すると、わずか1年間に約175,000人もの増加があり、明治以来平均して1%を超えたことのない人口増加率が14.75%という驚異的な伸びを示している。また昭和19年と昭和25年の7年間で335,000人以上の人口増加があり(⑭)、この急激な人口増加は戦後の住宅不足に拍車をかけた。
 差し迫った住宅不足に対応すべく政府は終戦の翌月の9月に「罹災(りさい)都市応急簡易住宅建設要綱」を決定し、30万戸を目標として簡易住宅の供給を開始している。その要綱には「全国罹災都市ニ於ケル仮小屋居住ノ罹災者ヲ主タル対象トシ、罹災者越冬対策ノ一環トシテ所要ノ簡易住宅ヲ緊急建設ス(⑮)」という方針を示したが、実際に建設された住宅は6畳と3畳の二部屋と炊事場をかねた土間1畳と便所だけという狭さで、物資不足から屋根はルーフィングペーパー(瓦(かわら)の下に敷かれる防水性のある厚紙)、天井はなく床はむしろ敷き、ガラスはなく油紙の代用品という粗末なものといったありさまで、戦災による物資不足が住宅の再建にも深刻な影響を与えていたことがわかる(⑯)。住む家を失った人々は、焼跡に廃材・古畳・焼けたトタンなどを拾い集めて「バラック」を建てたり、「ごう舎」とよばれる空襲に備えて作った防空壕などに屋根をさしかけた仮の住まいを建てたりして風雨をしのいでいた。このような「バラック」や「ごう舎」といった粗末な住まいが戦後の復興期にどの程度建てられていたかはわからないが、昭和33年(1958年)の『第3回住宅統計調査』では、住宅の構造についての調査項目の一つとして「ごう舎・仮小屋」をあげている。ごう舎・仮小屋とは、「住宅としての設備は整っているが、臨時応急的に建てられた粗悪な建物で、長期にわたる使用に耐えないと思われる仮建築住宅」のことで、調査結果から、戦後10数年を経た昭和33年においても県内に2,000戸の「ごう舎・仮小屋」が存在していたことが記録されている(⑰)。
 政府は戦後の住宅難を解消していくために、昭和25年(1950年)に全額政府出資による住宅金融の専門機関として「住宅金融公庫」を設立し、長期で低利の融資事業を開始し、個人の住宅建設や購入を支援することになった。そして昭和26年に公営住宅法を定め、国は地方公共団体に補助金を交付し、庶民向けの賃貸住宅の建設を促した。さらに、大都市圏の住宅不足を解消するために、昭和30年には住宅・都市整備公団を発足させ、公団住宅の建設を進めた。こういった施策を背景に住宅の供給不足は徐々に改善されていったのである。

図表序-9 県内の総住宅数(戸)

図表序-9 県内の総住宅数(戸)

愛媛県統計課提供資料から作成。

図表序-10 戦後の人口の増加

図表序-10 戦後の人口の増加

『第47回愛媛県統計年鑑(⑭)』から作成