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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(4)施主と棟梁

 **さんに建築を頼み、今もその家に愛着を抱いて生活している施主の**さんと**さんに新築当時のことや、住みなれた住まいへの思いを聞いた。  

 ア 住まいの移動

 **さん(東温市川内町 大正11年生まれ)が、**さんにわが家の新築を依頼したのは、**さんが復員して郷里に帰って来た昭和23年(1948年)のことであった。**さんはわが家についての思い出を、次のように話した。
 「終戦後間もないころで物のないときではありましたが、家も古くまた狭くなっており、大家族で7人兄弟であったりもしましたので、新築を思いつきました。大工さんは同じ村内で、親父さんの代から大工仕事をしている**さんに頼むことにいたしました。親父さんの仕事ぶりもよく知っておりましたし、広島へ修行に出て腕を上げていたことも聞いておりました。それ以上に子どものころからの、**さんのまじめで熱心な人柄を知っていたから頼みにいったのです。初めは自分が若いので、棟梁として引き受けることをためらっておりましたが、知り合いみんなで『あの親父さんの子じゃろが。』と言って請け負ってもらうことになりました。
 手斧(ちょうな)初めの日に長男が生まれまして、家の神さんが祝ってくれていると、家族みんなで喜びました。大黒柱はケヤキの通し柱で、上の梁まで通っています。和小屋の本建築で、棟木のマツがとても大きくて、重機のない時代にみんなで苦労して上げたのを覚えております。筋交(すじか)いは1本も入っていません。釘(くぎ)がなかった時期でもあったので、栓(せん)を打ちほとんど木組みだけです。上屋根が低いので、座敷が少し暗いと家内は言いますが、その分家はがっしりしており、私は良い仕事をしてくれたと思っているのです。建前は村の人、親戚、兄弟が大勢来てくれてにぎやかなものでした。扇子に麻を付けて棟木に止め付けました。餅(もち)も大分撒きました。焼酎(しょうちゅう)をしぼって大分飲みました。屋移りは昭和25年(1950年)の冬でした。寒い日に畳が来るのを待っていたことを覚えています。
 昭和26年(1951年)に納屋を建てました。元々林業で木材や炭などの仕事をしておりましたが、あまりはかばかしくないので、畑を買って畑作に変わりました。養蚕(ようざん)の景気が良くなったので、桑畑に切り替えて、下に小屋を作り長らくお蚕(かいこ)さんを飼いました。
 昭和28年(1953年)ころから国道11号の改修工事が始まり、私の家も立ち退きしなければならなくなり、家族でいろいろ相談いたしました。この際、下へ降りようかとも思いましたが、私が長男でしたので、お墓守りをしないといけないと考え、残ることにしたのです。国道を渡って家の北向かいに自分の畑がありましたので、そこへ家を移すことにしました。
 畑に土を入れて石積みをして地業(じぎょう)をしました。1年くらい掛けてしっかり固めたかったのですが、建設省が『早く動かしてほしい。』とやいのやいのと言ってくるので、やむなく動かしました。家の台がしっかりしておりましたので、下へローラーを付けて、パッキンを入れて、ボルトで締めてゆっくり移動させました。本来国道の通行止めは難しいらしいのですが、一晩許可をもらって動かしたのです。道の南から北への移動ですから、玄関の向きを反対にしないといけません。ぐるりと180°回しながらの移動なので、本当に難儀しました。一晩だけの許可でしたので、翌朝からは自動車はどんどん通るし、その辺りはまだ道の体裁は出来ていないので、地面が柔らかくてタイヤがめりこんで動かなくなったりして、しばらくはまことに大変でした。
 それ以後子どもたちの成長に合わせて、中2階を改装して部屋にし、1階の台所などもガス、水道が使えるように改築しました。養蚕も昭和50年(1975年)ころまでねばりましたが、ついに止めざるをえませんでした。子どもたちもそれぞれ外に出て、孫を連れて訪れてくれます。**さんにこの家を建ててもらってから60年近く、人生いろいろでありましたが、身体が元気な間は夫婦二人で『がんばらないかん。』と話し合っております。」

 イ 三角の敷地に

 **さん(東温市川内町 昭和7年生まれ)の夫の**さんと**さんのお父さんが、**さんに家の建築を依頼したのは、**さんが山口県から愛媛県へ帰って間もない昭和42年(1967年)のことであった。
 新築当時の事情や、それ以後の日々の思い出を**さんは次のように話した。
 「国道11号の落手隧道(おちでずいどう)が開通したのが昭和37年(1962年)のことでした。それと前後して道の大幅な付け替えが行われて、落合橋を回っていた道が、今の落手橋からまっすぐ落手隧道へ通ることになりました。そのため私の土地は半分以上削られることになりました。この土地で長らく店を経営していましたし、親戚、知人も多く、なによりこの土地が好きでしたので、外へ出ることは考えませんでした。それまでは東に面して店を構え、後ろの滑川(なめかわ)沿いには離れがあり、8人家族でしたが比較的ゆったり住んでいたのです。ささやかな宿屋もしていました。
 残った土地は狭い三角形なのです。宿屋はあきらめましたが、店を続けたいと思いあれこれ考えました。**さんは、以前すぐ近くに住んでいて私の夫と幼なじみでした。その**さんが、山口県から松山市に帰っていると聞きましたので、夫と私の父が相談に行きました。『狭い三角の土地に家を建ててほしい。店と居家(おりや)(家族の住む家)も一つ棟で。』という注文には、**さんも頭を抱えていたようです。町の家ならそういうこともあるそうですが、田舎ではほとんど聞いたことのない話だそうです。三角に切り組んで組み合わせる技術もなかなかです。また建坪は小さくても、建築資材の無駄がかなり出て、大工さんに取っては採算の合わない話だということを後で知りました。子どものときから知っていたこともあり、わが家の困った事情がよく分かるものですから、引き受けてもらって、家族みんなで本当に喜びました。今でも心から感謝しています。
 1階は、店・居間・炊事場・風呂・便所、2階は座敷・仏間・居間二つ・ベランダそして三角形の押入が三つ出来ました。『よくこんなに、上手にまとめたことよ。』と建具師さんや畳職さんが感心していたのを覚えています。また店は広さが10坪(33m²)あり、その上が6畳2間なので、店の中ほどに鉄の柱を2本入れて補強されています。また狭くても家族や親戚の入り口は、店の客の出入り口とは、別に取ってもらっています。
 新しい発電所が出来、国道も広くなり、便利にはなりましたが、人はだんだん減ってきました。新居に入って間もなく夫が亡くなったものですから、この店一つで子育てをし、なんとかくらして来ました。子どもも一人前になり、町でそれぞれ家を構え、仕事をしてくれており、親としては安心できる毎日です。40年近く前に家族のことを考え、店のことを考えて、三角の敷地に、この家を建ててもらった**さんには、本当にありがたく思っているのです。」