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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)草葺き屋根の家-**家-②

 ウ 母屋

 **家の母屋は草葺(くさぶ)き屋根で、間取りは図表2-1-4の通りである。横くい違い型の四間どりの居室になっており、広い土間、籾入れ、俵戸棚にみられるように典型的な稲作農家の体裁になっている。居室は、4畳の寝間と6畳の間だけが常に畳を敷いた部屋で、オモテと座敷の畳は普段は部屋の隅に片づけられているので、必要なときに畳が敷かれた。畳を敷く部屋の床は隙間(すきま)のある板張りが普通だが、これらの部屋は板間でもあったわけで、全面に板が張られていた。以下に特徴のある家の作りや年中行事を記す。
 **さんは、「ウチはもともとは、草葺き屋根の母屋が一つあっただけです。草葺きの材料はカヤ(ススキ)です。カヤは、田んぼのあど(上の田と下の田の間。傾斜地にできた田には、広いあどがある。)や、町有地のカヤダバなどで刈っておいて、秋、乾いたころに取って帰ります。それをツシ(天井裏)に積んでおきます。ツシは天井の上1mほどに梁(はり)が通っていますから、そこに板でも載せておくと広い倉庫ができたんです。毎年、これをくり返しておくと葺(ふ)き替えのころにはツシいっぱいにカヤがたまるのです。草屋根修理には屋根全部を葺き替える『フキカエ』と一部分を吹き替える『カノコ打(う)つ』というのがありました。カノコ打つはカヤを押さえているシモトという竹がチラチラ見え始めると、そこのカヤを抜いて新しいカヤを足すのです。屋根の厚みは材料の多寡によるので一概にいえませんが、ウチの屋根で約3尺(約91cm)くらいです。草屋根の耐用年数はわかりませんが、場所によって違います。表側の乾くところは保(も)つのですが、雪や雨でも乾きにくい裏側は傷みが早いんです。私の場合は入母屋の部分が傷んでそこを直し、やがて他の部分が傷み始めたので、コヤサゲするかという話になったので、草屋根がどの程度の期間保つか経験がありません。私の代になってからは、カヤを刈ってきてためることはしていなかったのですが、コヤサゲするときに父親がためていたたくさんのカヤが出てきて、近所の人にあげました。
 草屋根は、合掌といって屋根の勾配(こうばい)を形作る材を上げて荒縄で縛って組み合わせ、それに水平に何本も竹を通して屋根の原型ができます。その屋根は家の上に載せているだけで、縛ったり釘を打ったりして止めているのではありません。屋根の主材を丸くとがらせ、桁(けた)を少しくぼませ、くぼみの上にとがった部分を載せているだけです。」と話す。**さんは、「風が吹いたりすると、ギーッと音がして、台風のときなんか怖かったです。」と話す。**さんは「竹を縛って屋根の原型ができると、その上にカヤを載せ竹を置いて縫います。これを何度も繰り返します。その時多くの人の手伝いは受けますが、基本的に屋根を葺くのはカヤ葺き職人さんがやります。カヤを屋根に置いていくときに上手に置いていないと、何年か経って溝ができてそこから腐り始めます。水が均一に流れるようにカヤを置かないといけません。
 草屋根は、夏は涼しく冬でも寒さが違いました。夏、外から帰って来ても、ひんやりとしていて扇風機などいりませんでした。部屋の空気そのものが涼しいんです。冬は寒いですが、今の瓦屋根と比べると底冷えする感じは無かったと思います。」と話す。**さんは、「夏でも、食べ物が傷んだ記憶はありません。」と話す。
 **さんは、「コヤサゲした理由の一つはカヤが少なくなったことです。例えば、町が持っていたカヤダバは、昭和32年(1957年)ころでしたか、各個人に分けて払い下げられました。当時は林業志向が強かったですから、みんながそこに植林したのです。カヤダバの雑木を炭に焼いている時分は跡地にカヤも生えますが、植林してしまうとカヤは生えません。それに職人さんがだんだん少なくなったことです。今では、この地区の草葺き屋根は1軒だけになりました。」と話す。**さんは、「梅雨の時分には、カヤが何時も雨にぬれますから、堆肥を上に載せているようなもので、カヤの中にわくオケコシ(ヤスデの一種)と呼んでいた虫が時々落ちてくるんです。最近は殺虫剤なども進んだから虫がわくことはないと思いますが、この虫が臭くて嫌でしたね。それにいろりでふすべるとカヤが長持ちするといわれますが、そのいろりもなくなりました。私がお嫁に来たのは昭和29年(1954年)ですが、そのときにはもういろりはなくて、炭を使う掘りごたつでした。」と話す。
 **さんは、「図表2-1-4の東側にヤグラ(杵(きね)に当たる部分を踏んで搗(つ)く大型の臼(うす))があります。これはいつも同じところに据え付けられた道具で、精米などに使っていました。普段は近くに水車小屋があって精米してもらっていたんですが、雪の日など外に出にくいときはこれでやっていました。臼の口が少し内向きに傾いていましたから、ふつうの臼のように手取りをする人は不要で、米がくるりくるりと回りながらつけていました。これは米の場合ですが、いろんな食べ物の調整がありました。ヒノリバでたたいたトウキビの芯から実をとる作業もこのヤグラでついたこともあります。ヤグラの臼は餅(もち)をつく臼などと違ってかなり深いものでしたから、これなら一人でもできました。トウキビは挽(ひ)き臼で挽き割って牛や馬のえさにしていました。昔は人間も食べていて、時々トウキビが懐かしいこともあります。」と笑う。
 **さんは「ウシやウマは家族同然でした。」と言い、**さんは、「時々ウマが暴れて板壁を蹴(け)ると、ちょうど後ろが台所になっていましたからびっくりすることがありました。」と笑う。**さんは、「ウシを肥育しては売って利益を上げる家もありましたが、ウチのウシはもっぱら労働用でした。色の褐色がかったウシで、山から材木を引き出す地引(じび)きで大きな木を引っ張ったりします。木が何かにひっかかったら力を入れて思い切り引っ張らんといけないでしょう。この癖が付くと、田んぼで犂(すき)が石に引っかかったりすると思い切り引っ張るので犁を壊したこともありました。ウシは何が何でも引っ張らんといかんように思いこんでいるのでしょう。男が犂を持ち女の人が手綱を持って『へせ』(右)じゃの『はせ』(左)じゃのいうてウシに方向を教えることもあります。これを『鼻やり』といっていました。ウマも飼っていましたが、これは運搬用です。山田に苗や肥料を運ぶとか、飼料をもって帰るとか、堆肥を田んぼに運んだりしていました。それに、秋に山で肥草を刈って春に乾いた草を運び下ろすのもウマの仕事です。田んぼを鋤(す)かせたこともあります。親父がウマに乗って私が犂を持ってついて行くのですが、これは能率がよすぎて、かえってしんどいですねえ。
 家への出入り口は長さが1間(約1.8m)もある大きな入り口で両手で引かないと開かないような大戸がありました。納屋への出入り口も同じで、半分から下が板戸で、上は障子(腰高障子)になっていてともに雨戸がありました。どちらから入っても同じ土間になっています。土間にはわら打ち石やふたをした芋つぼがありました。昔は、ここで泥臼(どろうす)を使って籾すりをしていたんです。わら打ち石は大切な道具でした。50cmくらいの石を土間に半分くらい埋めて動かないようにして、その上に一人がわらの束を持ってくるくる回しながら、もう一人が餅(もち)をつく杵(きね)のようなものでたたいてわらを柔らかくしていました。それを使って、人の草履から牛の草履、さらに俵の細縄まで作っていました。俵のわらは堅い方が良いので打ちませんでした。こんな仕事は大体年寄りの仕事でした。」と話す。
 **さんは、「食事は、二つ焚(た)き口があるオクドサンが中心です。一方で羽釜(はがま)でご飯を炊き、もう一方で鍋を使っておかずができるようになっていました。羽釜も大小2種類ありました。5、6升炊けそうな大きな羽釜では、こんにゃくを作ったり、牛や馬にトウモロコシや麦を炊いてやるのは大きい羽釜でした。特別大きな平釜はオクドサンにかかりませんから、外の軒下に臨時のかまど風のものを作って使っていました。これは、お茶を煎(い)ったり、田植えが済んだころにたくさんとれていたフキを湯がいて漬け物にしたり、醬油(しょうゆ)や味噌(みそ)用のダイズを炊いたりしていました。醬油は、びくのようなかごをもろみにつけてにじみ出てくる醬油を使っていましたが、残ったもろみは、水でのばしてウシやウマの塩分補給に与えたりしていました。いろりがあったころはおかずや味噌汁を炊くことがあったかもしれません。私が嫁に来たころはいろりはもう使っていなくて掘りごたつになっていました。この堀りごたつを中心に茶の間があるのですが、茶の間は畳の部分と板敷きの部分とに分かれていました。格別座る場所が決まっていたわけではないんですが、祖父母は畳の方で食べていました。」と言う。**さんは「いろりにはおもしろい風習がありました。亥(い)の子(こ)の日に開けるんです。『一番亥の子で使い始めなかったから二番亥の子には開けよう。』などと言っていました。それに亥の子の日にはナバラ(野菜畑)には入れないんです。『明日は亥の子だから今日大根をとっておこう。』などと言っていました。大晦日(おおみそか)にはトシトリクイゼといって大きな丸太をいろりの四方から入れて燃やしていました。大晦日から元日にかけてです。
 お正月の餅(もち)は土間でついていました。しめ飾りはワカバ(ユズリハの葉)・ウラジロ・ダイダイで作っていて主な出入り口や大黒柱、便所にお飾りをしていました。しめ飾りに餅やミカン、干し柿などを加えてするお供えは床の間や神棚、仏壇はもちろんお庚申(こうしん)さん、大黒さん、かまどのところにお荒神(こうじん)さん、井戸端にはお水神(すいじん)さん、鎌鍬(かまくわ)さん、屋敷神さんにお供えをしていました。お庚申さんは、子どもの神様だといっていましてお正月には御神酒錫(おみきすず)にワカバを、お節句には桃か梅の花を、秋のお祭りには菊の花をさして祝ったりしていました。大黒さんは実際には七福神をお祀(まつ)りしていました。お荒神さんは火の神様でかまどにいるものとされました。今はかまどがないのでガス台のところに置いていますが、この神様だけはお供え物を紙に包んであげていました。家を留守にしたときでもお荒神さんが火の番をしてくれるのですから、これは翌年新しいのを置くまで1年中おいています。お水神さんは水の神様です。鎌鍬様はお正月のときだけでしたけれども箱段の隅の方に鎌や鍬を置いてお祀(まつ)りしていました。農具の神様ということでした。不幸があった翌年はこれらのことはしません。お祭りにも御神酒錫に酒を少し入れてお庚申さんにしたように菊の花を供えるんですが、それも不幸のあった翌年はしません。節分には、オニノメツキさんをトシノヨ(歳の夜、節分の夜のこと)に入り口という入り口において、鬼が入れないようにしていました。タラノキを15cmくらいに切って途中まで割れ目を入れ、そこにヒイラギの葉っぱをさして作るんです。天井から鬼が降りてくるといかんのでいろりの自在かぎにもオニノメツキさんをくくっていました。玄関などには加えて味噌(みそ)やいと(味噌の上に置くお灸(きゅう))を置いていました。こちらの方が早く廃れました。」と話す。
 **さんは、「端午の節句にはショウブとヨモギとカヤを束にして屋根の上に上げたり、七夕にはオモテの軒先に短冊をつけた竹を飾り、お菓子やナス、カボチャなどをお供えにしていました。七夕は水気が多いものをお供えすると織女(しょくじょ)と牽牛(けんぎゅう)が天の川で会えないからいけないのだといって、スイカやキュウリはお供えしませんでした。結婚式には、部屋すべてに畳を敷き、ふすま、障子をはずしてお客を上げました。お産は、私は病院でしたが、母親は寝間だったようです。」と話す。

図表2-1-4 戦前の**家母屋

図表2-1-4 戦前の**家母屋

**さん夫妻からの聞き取りにより作成。