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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)横井戸のある家-**家-

 砥部(とべ)町七折(ななおれ)(またはナナオリ)地区は、砥部川支流の村川の上流域で、標高約100m地点に位置する山間地である。西方に山があるため冬季の季節風を受けることが少なく、比較的温暖な地域である。砥部町七折の**さん(昭和6年生まれ)に話を聞いた。

 ア 生業

 **家の生業は主にウメやミカンの果樹栽培であったが、主にウメの栽培について話してもらった。**さんによると、「私は次男で工業科に進学していて農家の後継ぎをする気はなかったのに、長男の戦死で後を継ぎました。本格的に農業を始めたのは戦後なんです。親から聞いた話などを交えながら話してみます。この地域は、明治期の国有林の払い下げで急激に耕地を拡大しました。ウチはその耕地を使って大正期にはナシを栽培していました。その時分には朝鮮半島出身の男衆(おとこし)さんがいたそうです。しかし、大正の末年にヒメシン(ナシヒメシンクイ)いう虫が湧(わ)いて、当時では駆除する農薬もないためナシを断念して、ミカン、ウメ、カキなどを栽培していました。これらの果樹も戦争が激しくなると伐採を余儀なくされ、特にウメはほとんどが伐採されました。これは、たまたまウメが平地に近い状態の所に植えてあったのと、直接的には食料になりにくいことが原因だったろうと思います。伐採地は麦やサツマイモの栽培に変わっていきました。戦後はミカンを主に栽培していました。ところが梅酒が流行し始めて、こちらの方がよいのではといっていたころに、昭和42年(1967年)ミカンの大暴落があったのです。そのころから地域を上げてウメの栽培に取り組むようになりました。概して果樹栽培だったためか、果物を組合や市場に出荷するときに、籠などの入れ物に屋号を入れます。例えばマルハさん、マルトラさん、カネショウさんという具合です。私の家は父の名前が**だったものですからマルハでした。それで、名前で呼ばずに屋号で呼ぶ習慣がありました。例えば、ウメを漬けるシソを頼むときには、マルハが2樽(たる)分、ヤマシンが1樽分といって頼んでいました。

【農村部の屋号】
 「屋号」とは、個々の家屋敷の通称で、家屋敷の状態、初代の名前、出身地などをもとにした種々の名称がついたものである。屋号は農村部にもあったようである。
 久万高原町東明神地区の例をあげると、**さんは、「ウチはワカジヤで、**さんところはタナカ。名字はみんな**さんでも家によってタツノ、ナカ、オオシタです。みんな未だに名前はいわずに屋号で呼び合っています。同じ屋号がないから便利ですよ。ウチの新宅は家を建てたところがカジヤですから、カジヤが屋号です。田んぼは耕地整理で名前が消え、山は広い区画で一つの呼び名ですが、畑地などは一筆ごとに土地の名前があり、それが屋号になっているようです。ウチのワカジヤは『上鍛冶屋』と書き、もと鍛冶屋でもあってそれが土地の名ひいては屋号になったのかなと思っています。トウフヤいう屋号もありますよ。ただ、新しく建てられた家はだんだん屋号がなくなっています。」という。これとよく似ているのが、鬼北町上鍵山地区である。**さんの家はサクシロ、**さんはイナヤという具合で、国土調査の地籍図にもこれらの屋号は書き込まれたという。やはり地名が屋号化したのであろうか。ちょっと変わった屋号が、西条市上市。**さん(昭和3年生まれ)は、「キリヌキヤ、ゲンパチヤ、ウラモンなどありますが、どの家にも屋号があったわけではありません。ウチは屋号がないが、本家がキリヌキヤなのでキリヌキヤの新宅と表現します。屋号は当時の番傘にも書いてダイモジ入りの傘といっていました。例えば、上市の『上』、キリヌキヤの『切』、**(**さんの父親の名)の『定』を入れるのです。遠くから見ても、どこの家の者が歩いているのかすぐ分かっていました。」と話す。伊予市では**家がカネヤ、吉田町立間地区の**家がゲンゴであったが、これらの地区では屋号のないところも多いという。

 戦前のウメ栽培の要点をお話しします。ウチは昭和初期からウメを栽培していたのですが、そのころはこの地区ではウメはやっていませんでした。父が下灘(しもなだ)(現伊予(いよ)市双海(ふたみ)町の西部)から導入したのが最初だと聞いています。このウメの実は日の当たった部分が赤く色づくので**紅梅、略して**といって商売人にも親しまれていました。紅梅といっても花は白いんです。当時で6反(約60a)ほど栽培していました。このころは、宮内(約4km下流の集落)まで天秤棒(てんびんぼう)で担いで下ろして、宮内から馬車で市場に卸していた時代です。このウメは、今の七折小梅と違って中ウメでした。
 昔はウメを栽培している農家が少なく、ウチに栽培のノウハウを聞きに来る人がいたくらいです。しかし、今から比べるとざっとしたものでした。消毒といっても年2回くらい、硫黄合剤をかけていました。剪定(せんてい)といっても、剪定ばさみではなく、鋸(のこ)でおおざっぱに枝を切るくらいです。果樹の選別も手で3段階くらいに選別していた時代でした。今みたいに5段階にも6段階にも分けることはありません。施肥は、戦前はニシンをやっていました。数の子を取ったかすでしょうが、2枚に下ろして頭もついたのを乾燥したものです。それを魚粉にしてやっていました。それと大豆粕もやっていました。直径1mくらい、厚みが20cmもある固まりで届いたのを、やはり粉にして与えていました。
 戦前もミカンの方がやや多かったのですが、戦後はウメに切り替わるまではミカンだけでした。この辺りのミカンは早生(わせ)はとったらすぐ出荷しますが、多くの晩生(おくて)のウンシュウはすべて山小屋にかこっておいて2月ころに出荷していました。山小屋は1間半(約2.7m)に2間半(約4.6m)の部屋が6室ぐらいあるもので、全部で3軒ありました。」と話す。

 イ 屋敷構え

 **家は南東向きの山あいの平地に立地する。家の中心部は明治時代の建築で、ほかの部分は後に建て増しされたという。中2階を改造した2階建てで塀はなかった。特徴は横井戸の存在である。概観を図表2-1-12に掲げる。昭和30年(1955年)にこの家屋は売却され、新しい家が建てられた。
 **さんは、「納屋は、養蚕のために建てたものと思います。部屋の4隅に、板を引くと2尺(約61cm)四方ほどの空気抜きがありましたから。床は完全な板張りでした。ただ、私は養蚕していたころのことは知りません。私が知っているのは、叔父が病気のときにこの一室を使って療養していたと聞いたこと、私が結婚するときに病気だった父を一時ここに移したことぐらいです。それ以外はこの部屋は使っていませんでした。一番端の部屋は土間で、私の手が届くくらいのところに棚がある構造でしたが、純然たる納屋として使われていました。消毒液を入れる桶(おけ)やポンプが置いてあったと思います。
 母屋を挟んで逆の側にある物置蔵は、米や麦の穀物を置いているところです。床が張ってあって壁も分厚い板でできている部屋で、ネズミがかじった後などはきちんとトタンで補修してありました。隣の物置は大正時代には朝鮮半島から来た男衆さんが住んでいたといいますが、私が物心ついたころには、むしろやわらを入れていました。
 南西側にも納屋があります。そこの土間にあるヤグラは1間半(約2.7m)ほどもある大きな道具で、精米をしていました。それ以外に使っていたのは知りません。また、この土間では父が草鞋を作ったり、とりほご(果物などをとるときの手持ちのわらのいれもの)を作ったりのわら仕事や、ウメの選果をしていました。母屋にある土間は小さくてほとんどこちらの土間を使っていました。
 私のところは井戸を掘っても水が出ないところなので、近くの山に横井戸を掘っていました。中山(なかやま)の方の職人に掘ってもらったと父から聞きましたが、いつごろできたのかは知りません。この横井戸から地下水を引いてコンクリートの小さな正方形の水槽にためていました。この水槽はおだれ(家のひさし)より高いくらいで、深さは6尺(約182cm)くらい、ふたをしていました。この水槽から落差を使って台所や風呂へ鉄のパイプで配管していたのです。朝起きると、この水槽から台所の出口付近に引いていた水道の蛇口をひねって洗顔や歯磨きをしていました。歯磨き粉はあったと思いますが塩を使って磨いた記憶もあります。大きい長方形の水槽は上の小さい水槽のあまり水や、谷からの水を引いてコイを飼ったりしていました。この大きい水槽は桶(おけ)とかもろぶたとか大きなものを洗うのにも使っていました。深さは1mくらいです。これで飲料水に困ったということはありませんでした。ただ、このあまり水を引いていた田んぼは水が足りないことがあって、下の川から手押しポンプで何時間も掛けて汲んだ記憶があります。
 外の庭は特別な呼び名はなかったんですが、まあ乾し場でしょうねえ。千歯で落とした麦の穂を干したり、籾(もみ)を干したりでした。」と話す。

 ウ 母屋

 **家の最も古い部分が母屋の居住部分であり、新しく付けられた台所部分を含めて図表2-1-13に表示した。全体を見ると横軸がずれている横くい違い型の4間取りとなっている。明治時代からの間取りであったのであろう。ただ、座敷の縁側の部分を拡張して取り込み、広い座敷となっている。部分的に中2階で、中2階部分を改造して子どもが住めるようにしていた。
 **さんは「台所のかまどは左に行くほど大きくなっていましたが、普段使うのは小さい二つのかまどで、真ん中が羽釜(はがま)、左端でおかずを作っていました。大きいかまどには平釜が掛かっていて、豆腐や味噌(みそ)、醬油(しょうゆ)を作ったりするときに使っていました。これらの物を作る作業は、流しのところの石畳でやっていました。ここは御影(みかげ)石を敷いて目地をセメントでつないでいました。薪(たきぎ)入れには腕くらいの大きさの切りそろえた木や枝を束にしたもの、杉葉、松葉などの焚(た)きつけが入っていて、台所の燃料でした。薪はその他にも山から適当な長さにした物を持って帰って、裏側の道から入って流しの外側にヒョイと積んでいました。調理台の下は扉はなくて、鍋やバケツなどを入れてありました。朝食と昼食は汚れた服装のままで食事ができますから食卓を使って、夕食は茶の間で取っていました。茶の間は板間で火鉢が置いてあったくらいです。食事の場所は習慣的に決まっていたかも知れませんが、そこでないといかんというものではなかったです。ただ、大正時代の男衆(おとこし)さんはいつも土間で食べていたそうです。食事がすんだらすぐ居間の方に移ってラジオを聞いたりしていました。ラジオは戦前からあって玉音放送(敗戦の詔勅(しょうちょく))も聞きました。テレビがでたときもまず居間に置かれ、仏壇も居間にありました。
 便所は、外便所と内便所が同じところで、田の字型に切って、外便所は一つでしたから、残った空間に肥たごなどの汲(く)み取り道具を置いていました。祖父が歳をとって介護が必要になったとき、狭い便所では勝手が悪いからと広くしていました。風呂(ふろ)も広かったです。しかし風呂水が便所に入ることはなくて、下肥は野壺にためたりはしないで、じかに野菜などにやっていました。ミカン園にやったりもしましたが、人糞尿(じんぷんにょう)の処分の意味があったのかもしれません。
 居住空間で特徴的なのは、まず入り口の戸が幅4尺(約1.2m)ほどある大きな戸だったのを覚えています。納戸は便所や風呂に行くときの通路でもあったので、洗濯物や作業着が折りたたんでおいてありました。両親は座敷に寝て、子どもたちは2階に寝ていました。座敷の出っ張りは畳をはいでみると、どうも3尺(約91cm)だけが元々の縁側だったらしいので、それをなんかの都合でまた3尺出して1間(約182cm)にし、畳を敷いたものと思われます。そして中窓を付けていましたから、父の葬儀のときには座敷から直接出せずオモテの間のはき出し口から出棺しました。2階は窓の近くに行くに従って天井が下がっている2階で、中2階だったのが分かります。蚕が繭を作るまぶし(蚕に繭を作らせるためのわらの道具)が隅の方に置いてありましたので、蚕を飼うために天井をはったのかも知れませんが、子どもが増えたので居室にしたのかもしれません。
 神棚は床の間に立派な神社の模型のような1mほどの大きさの神殿が置いてありました。それが置かれるまでは20cmほどの箱に反った屋根のついた神棚があったんですが、新しい神殿ができて、これは仏壇の側の鴨居(かもい)の上に移して、オイブッサンとかいっていました。オイベッサンの意味でしょうか。もう一つ台所にも同じような物がありましたが名前は知りません。
 お正月には縄と温州ミカンとウラジロでお飾りを作って、ダイダイは使っていませんでした。玄関、台所、納屋の入り口、床の間に置いていました。床の間は、三方にウラジロを敷いて、米の山を作りその上にお飾りを置き、さらに米の山の周りには干し柿やミカンの小さいのを置いていました。」と話す。

図表2-1-12 昭和30年以前の**家屋敷構え

図表2-1-12 昭和30年以前の**家屋敷構え

**さんからの聞き取りにより作成。

図表2-1-13 昭和30年以前の**家母屋

図表2-1-13 昭和30年以前の**家母屋

**さんからの聞き取りにより作成。