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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(3)学生の住まい②

 ア 下宿屋を営んで

 (ア)楽しかった下宿屋の仕事

 「私が下宿屋を始めたころ、裏に建物はなく、部屋の窓から松山城がきれいに見えました。下宿屋の設計は父と大工さんが考えてくれました。木材は大工さんが久万(現久万高原町)から取り寄せた良質の杉を使用しました。各部屋に収納スペースを多くとり、廊下や階段も広く作りました(写真2-2-16参照)。廊下や階段が広いので引越し屋さんには感謝されます。当時このあたりにアパート・マンションは少なく、間借りタイプの下宿がほとんどでした。
 建てた当時は、1階に4畳半5部屋、2階に4畳半6部屋の計11部屋がありました(図表2-2-25参照)。後に広いほうが学生さんも喜ぶだろうと考え、4畳半の部屋を改築して1階に6畳、7畳を各1部屋、2階に6畳2部屋、7畳半1部屋をつくったため、部屋の数は11部屋から9部屋に減りました。その後、時代のニーズに合わせて各部屋に流し台を設置し、ガスを引いたりしました。部屋は間貸しするだけで、机やイスなど家財道具は学生が全部持ってきました。最初のころの下宿生は、あまり荷物はありませんでしたが、途中から冷蔵庫やテレビなど荷物が増え、中にはベッドを持ってくる子もいました。
 1階は高校生、2階は大学生を下宿させていました。大学生は愛大(愛媛大学)の学生が多く、ほとんどが県内出身でした。高校生はほとんどが北高(松山北高等学校)の生徒でした。北高の子は、中島(旧温泉郡中島町)出身が多かったです。高校生には食事の世話をしていましたが、大学生にはしませんでした。それは生活時間帯が不規則なので、高校生と合わせて食事ができないと考えたからです。
 昭和50年代に私が母の付き添い看護をすることになったため、食事の世話ができなくなり、高校生の下宿はやめました。高校生が下宿していたころは私も若かったので、夜騒いだりすると、『勉強しなさい。』とよくしかりました。北高の子は大変素直でいうことをよく聞きましたが、下宿生の友達は難しいおばさんがいるのであまり来ませんでした。下宿を巣立っていた高校生の中には、『おばさんのおかげで勉強に集中でき志望校に合格することができた。』とうれしいことを言ってくれる子もおります。夜私が寝ていたら、枕もとに来て、『おばさん、○○君が僕をいじめるんよ。』などと甘えてくる子もいました。卒業後、結婚したときにお嫁さんや子どもを連れてあいさつにくる子もおります。私には子どもがいないので、下宿生は自分の子どものように可愛(かわい)く、下宿屋の仕事は本当に楽しかったです。」

 (イ)下宿屋の1日

 「家を離れて一人暮らししている子に対し、一番気を遣ったのは食事でした。朝食は8時前ころで、学校が近いのでそれで十分間に合いました。私は朝6時ころ起きて食事の準備をしましたが、朝食はご飯に味噌(みそ)汁と卵焼き、漬物くらいの簡単なものでした。学生は食パンが結構好きで、朝食に食パンを焼いて、目玉焼きなどの簡単なおかずを作ったら良く食べました。下宿生を送り出した後、掃除をし、手がすくと食事の献立を考えました。高校生は食欲旺盛(おうせい)で、ご飯は残さずよく食べたので、御櫃(おひつ)はたいがい空になりました。下宿生が好んで食べたのは洋食で、魚料理より肉料理が好きでした。トンカツなど肉料理を作ったら喜びましたが、昭和40年ころ肉は高かったです。私は大正生まれなので、そんなにモダンな料理は作れませんでした。晩ご飯の買い物は、近所にスーパーマーケットがありましたが、だいたい自転車で萱町(かやまち)商店街まで行きました。晩ご飯は、部活動をしてない子は6時ころに食べましたが、部活動をしている子は8時すぎになりました。お風呂はすぐ近くにある清水湯にいっていました。
 下宿の門限は11時にしました。高校生はまじめに守っていましたが、大学生は難しかったです。学生も私が11時に寝るのがわかっていたので、11時を過ぎてから出て行ったり、近所の友達を呼んだりしていたみたいです。玄関のかぎは閉めませんでした。下宿生がたくさんいるし、そんなに無用心なことはありませんでした。下宿生同士は仲がよく、喧嘩(けんか)することはめったにありませんでした。2階の大学生と1階の高校生はそんなに交流はなかったように思います。夏の暑い夜には、下宿の前にあった商大(現松山大学)のプールに飛び込んで泳いでいました。家の前には水路があり、さらに商大の塀がありましたが、男の子ですからそれらを乗り越えて勝手に入っていたようです。
 各部屋の掃除は下宿生にまかせましたが、共同のトイレや廊下などは私が掃除しました。部屋の畳はわりと子どもがきれいに使っており、傷みは少なかったように思います。たぶん親がきれいに使うように言って聞かせていたのでしょう。昔の下宿生は自分でこまめに洗濯、掃除をしていましたが、最後ころの下宿生はため込んで親にしてもらう子もいたようです。
 洗濯機は東側の庭のところに1台置いており、学生たちが交代で洗濯していました。洗濯機も時代とともに買い換えました。最初はローラーで脱水するタイプの洗濯機でした。洗濯物は2階の物干し台に干しましたが、部屋の中に干す子もいました。掃除も下宿を始めたころはほうきと雑巾(ぞうきん)でやりましたが、すぐに掃除機を買いました。電気機器のない不便な時代は、私も若かったので朝から晩までよく動きました。私はきれい好きなので、下宿をぴかぴかにしていましたが、下宿生も友達が遊びにきたときにきれいなのを自慢していたようです。」

 (ウ)下宿事情の変化   

 「昭和60年(1985年)前後から近所に大きな学生マンションが次々と建ち始めた(写真2-2-17参照)ので下宿屋をやめることにしました。あれだけ近代的なマンションが建つと、うちみたいな古いタイプの下宿屋は到底ついていけません。学生たちは下宿を見に来たときに、時代とともにいろいろな装備(ガスコンロや流し台など)を要求するようになりました。これに応じて次々と部屋の改装もしましたが、それにも限界があります。最後の下宿生は愛大の大学院生で一昨年(2003年)までおりました。近所の立派な学生マンションを見ていると、良いタイミングでやめたと思います。鉄砲町、清水町界隈(かいわい)は近年、昔のアパートや下宿屋、いろいろな建物が次々に壊され、モダンな学生マンションが多く建ち並び、私が下宿屋を始めた当時と大きく変わってしまいました。」

 イ 学生マンションへ

 愛媛大学生協によると、現在の学生の志向は1DKのアパート・マンションであり、食事付きの下宿はほとんど希望がなくなっている。昭和30年代や40年代に建てられた木造の下宿は人気がなく、アパートでも共同トイレや共同炊事の所は希望が少ない。現在はユニットバスのある部屋が多くなったが、バス・トイレがセパレートタイプの部屋も人気があるようである。最近はエアコンも装備していないといけないようで、グレードの高い学生マンションになるとインターネットやオートロック標準装備のものまである。特に女子学生は、親の勧めで、用心のためにオートロックのマンションを希望するケースが多い。家賃は平均して4万円くらいのものが多く、大学から自転車で10分、半径1.5km以内の所に人気が集まっている。
 かつて4畳半一間で共同トイレ、銭湯通いが普通だった学生の下宿も、現在は各部屋にバス・トイレやエアコンまで標準装備の学生マンションが一般的になっている。

写真2-2-16 下宿屋の廊下

写真2-2-16 下宿屋の廊下

松山市鉄砲町。平成17年8月撮影

図表2-2-25 下宿屋の間取り図(昭和40年ころ)

図表2-2-25 下宿屋の間取り図(昭和40年ころ)

**さんからの聞き取りにより作成。

写真2-2-17 学生マンションが立ち並ぶ鉄砲町

写真2-2-17 学生マンションが立ち並ぶ鉄砲町

松山市鉄砲町。平成17年12月撮影