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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(1)海にせまる町で

 伊予市双海町串下浜地区は伊予灘(いよなだ)に面し、豊田(とよた)川河口には豊田漁港があり、昔から漁業従事者が多く、タイ、フグ、イカなどを水揚げする。海岸線に沿って海岸回りの予讃(よさん)線と、それに並行する国道378号が走っている。大正時代にイワシを取る巾着(きんちゃく)網が導入され、長年、煮干イリコの町として脚光を浴びてきた(⑥)。
 豊田漁港の近くで生まれ、長年、漁師として、伊予灘を見てきた伊予市双海(ふたみ)町の**さん(大正7年生まれ)に話を聞いた。
 **さんの生まれた下浜地区の戸数、人口の変遷については昭和30年(1955年)、戸数104、人口694、平成15年(2003年)、戸数148、人口494と人口は約200人減少しているが戸数は44戸の増加があり、豊田漁港の整備などによる漁民団地の造成などがあり漁家の定着などがあったものと思われる。

 ア 下浜の住まい

 「私は双海町串の下浜地区で生まれました。私の家は漁師でしたから住まいは浜に面して建ててありました。家は2階建てでしたが、2階には6畳と2畳の炊事場があり2階から道路に出入りしていました。1階にはイワシをゆでる釜場があり、浜に下りるのには段差があり、はしごで降りていました。
 私が長男で12人の兄弟があり、2階の二つの部屋では寝るのも困るような状態でした。私は尋常小学校卒業と同時に漁師になりました。家は3度の飯にも事欠くほどの貧乏でしたので、13歳のときには櫓(ろ)舟で佐田岬(さだみさき)半島まで漁に出て、稼いだお金を一家の生活費に当てたこともあります。
 昭和16年(1941年)夏に結婚し、私たち夫婦は、階下の浜に面したイワシの煮干し製造場の一角の、6畳程度の寝泊りできるところで生活をしました。私たちの部屋のそばにはイワシのゆで釜や網、道具類が山のようにあり、出入りにも容易でない状態でした。海に向かっては長い竹で組み立てたイワシの干し場があり、潮が満ちてきても海水に浸からないので、そこが子どもたちの格好の遊び場でした。
 ここは山が奥深いので水は豊富でしたが、日照りが続いたりすると、イワシをゆでるのには足らないときもありましたので、家の近くに井戸を掘っていました。これは満潮のときは潮が入り飲料水には適しませんでした。
 風呂は、もらい風呂で、祖父母が串の別の場所に住んでいましたから、そこへ行ったり、友達の家に行ったりしました。夏はお湯を沸かして、外で体をふく程度でした。このような状態ですから当時は本当に貧乏な生活だったと思います。
 いわし漁などの仕事が辛いとは思いませんでしたが、現金収入が少なかったのが辛かったです。お米のご飯などは食べたことがありません。年中麦とイモの生活でした。しかし父親はお酒が好きで、母が『**よ、今日お父さんの酒代がないんじゃが、お母さんが明日持ってくるいうてお酒もろうてこい。』いうて、2合(約0.36ℓ)瓶を持ってよく買いに行きました。その日のお金がないのに、母親は親父の面倒をよく見ていたと思います。まじめに働いても収入は増えないというのが辛いことでした。
 漁をして魚を組合に出荷すると3日も4日も経過してからでないとお金がもらえませんでしたので、魚を隠して農家へ麦やイモと替えてもらうために持っていくこともあり、当時の漁師はみじめでした。
 母が瀬戸(せと)町の小島(こじま)(現伊方(いかた)町小島)の出身でしたから、兄弟で櫓(ろ)舟を操りながら漁をし、母の里へよく行きました。帰りに船が沈むぐらいお土産を積んで帰るのが楽しみでした。私が太平洋戦争から帰ってみると親父は亡くなっていましたし、妹二人は徴用で大阪に行っていましたが、この二人も空襲で亡くなっていました。」

 イ 串地区の漁民の習俗とくらし

 この地区の漁民に長らく語り継がれてきたさまざまな習慣、習俗などについて**さんは次のように語る。
 「正月2日には、乗り初め、とり初めの行事がありますが、乗り初めは、漁師がその年の大漁を願って正月に行う行事で、船霊(ふなだま)様(船の守護神)に鏡餅(かがみもち)を供え御神酒(みき)をあげていました。ご馳走ができた場合、まずご馳走と御神酒を供えるのが習慣でした。乗り初めが終われば、その年の海上安全を祈願する行事をしました。とり初めは、漁師が仕事始めに出漁することをいいますが、仏滅の日(俗に万事に不吉とする日)は忌み嫌います。
 盆は8月16日が魚の供養日とされて、魚をとるのはもちろんのこと、これを食膳に上げることもせず、精進料理で1年の間にとった魚霊を慰めていました。
 金比羅(こんぴら)(香川県の金刀比羅宮(ことひらぐう)のことで、航海の安全を守る神として船人が最も崇敬する。)さんは、この地区の漁師にとって特に崇敬する念は厚く、金比羅参りは古くから行われていました。新造船が建造されれば必ずこの行事を済まさなければならないとされていました。以前は春の節句を済ませてお参りすることが多かったですが、次第に海が穏やかでかつ漁閑期の真夏に行うことが多くなって、観光旅行のようになっていきました。
 大晦日(おおみそか)は、夜には船に乗らないことにしていましたが、もし、やむを得ず船に乗った場合は、除夜の鐘のなるころに投錨(とうびょう)して一旦(いったん)停船するようにといわれていました。
 漁船上で忌み嫌われる言葉としてはヘビとか、サルの言葉がありますが、ヘビのことを別名くちなわと呼ぶところがありこれは朽ち縄に通じるためでしょうか。
 漁師の家庭は半農半漁が多く、1反から3反くらいの畑地を所有している程度でした。漁家の女性は過酷な労働を強いられ、畑は急な坂を登らねばならず、畑仕事は女性がするものとされていて大変でした。下肥の始末についても、海に流すわけにもいきませんから、親戚(しんせき)、近所のものが共同で山の畑に持っていっていました。それも家から畑まで何人もがバケツリレーのように、天びん棒(両端に荷をかけ中央を肩に当てて担う棒)で肥桶(こえおけ)を担いで区間を決めてリレー式で運んでいました。子どもももちろん労働力でした。
 新造船が建造されればそれは盛大に船おろしの行事をしていました。このことは家庭の主婦には大変な出費でした。漁業協同組合の婦人部がそれを改善しようということで、何十本も飾られていた新造船の旗や幟(のぼり)も旗3本、幟2本に統一し、祝宴も料理は5皿以上は用いないことなどを決め、その活動は漁民の生活に大きな影響を与え、生活改善の先駆的役割を果たしました。私も一時大病を患い、亡くなった家内に苦労をかけ、家内は船の免許や無線の免許まで取り、漁をしてくれました。ですから漁師の奥さんの苦労を忘れてはいけないと思います。
 漁民にお互いに助け合うという気持があり、この気持ちは最も誇るべきものだと思います。出漁中に故障のおきた船を見れば、近くにある船は直ちにその船を曳航(えいこう)して近くの港に寄港します。港が遠い場合は1日を無駄にすることもありました。網を海底の障害物に引っ掛け困っている船があれば付近の船は応援に向かうのは当たり前のことでした。また、網の使い方および操業方法については、お互いに教えあって技術の向上を図りました。漁船やエンジンの建造、据付には多額の資本を必要としますが、そうした資金の調達は頼母子講(たのもしこう)(組合員が一定の掛け金をし、一定の期日に抽選、または入札によって所定の金額を順次組合員に融通する組織)によってお互いが融通しあっていました。漁港が整備されていないころは、しけにあって帰港する船があれば、浜には近くのものが大勢集まって船の陸揚げを行うなど助け合いの精神を発揮していました。これが漁師仲間のきずなであったと思います。」