データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)今に残る防風・防潮石垣①

 宇和島市蒋渕大島(おおしま)は蒋渕から山を越えた西南端の集落で、宇和海南側斜面に開拓された集落である。南側海域には契(ちぎり)島がある。大島浦は江戸期の初期、寛文9年(1669年)11月にできた集落であり、北灘浦(きたなだうら)(現宇和島(うわじま)市津島(つしま)町)の庄屋清家氏が開発を計画し、巨大な石垣(写真2-3-19参照)を築いて土地を造成し、集落をつくり、寛文11年(1671年)からいわし網の操業を開始したという。清家氏の一族と百姓12人が入植し、家屋12軒が建てられ、宇和海沿岸地域における漁業集落形成の過程がわかる数少ない事例であるという(⑨)。
 蒋渕大島地区に生まれ、大島で半農半漁の生活をしてきた**さん(大正9年生まれ)、**さん(大正14年生まれ)夫妻に話を聞いた。

 ア 蒋渕大島のくらし

 「私の家は(図表2-3-19参照)、昭和47年(1972年)に鉄筋の平屋に建て替えました。台風のときの南からの風をマジとこの地区では呼びますが、この風が非常に強いので、浜に近い所や、傾斜地にある多くの家は石垣を設けていました。これが防風と防波堤の役目を果たしていました。この地区では、東風をコチカゼ、北風、西風はそのままの呼び方です。私の家は2階建てでしたが、私が子どものころは、その2階では蚕を飼っていました。1階は入口が海側で、8畳の間が2部屋と6畳の間と全部で3部屋ありました。土間には二つかまどの台所があり、風呂とトイレが外に並んでありました。風呂とトイレの入口は外にありました。部屋の仕切りは敷居に板戸が入れてあり、お客のときにはすべてはずして広くできました。
 仏壇は座敷にあり、その横にお稲荷様も祭ってあり、神棚がその上にありました。昔の家には縁起棚はありませんでしたが、現在の家には縁起棚を作ってエビス様をお祭りしています。
 養蚕は戦前にはやめていましたので、私たちは2階で寝ていました。私は、尋常小学校を卒業するとすぐに漁の手伝いをしました。それはいわし網でしたが、これだけでは生活ができませんから、段畑を切り開き半農半漁の生活でした。子どものころ、蚕も飼っていましたから桑の葉を採りによく行きました。桑畑は山の上にあり、そこに行くのも大変ですが、運んで帰るのも大変な思いをしたのを覚えています。一時この山の段畑はほとんどが桑畑でした。クワの葉を採りに行く方がいわし網の仕事より大変でした。漁師として一人立ちしてからは、漁は釣りを主としており、漁具があまりいらず、納屋とか倉庫は必要ではありませんでした。
 私は、昭和13年(1938年)に大阪の製鉄所に働きに出ました。まもなく戦争の時代になり、徴兵検査がありましたが、私は身長が足りず丙種合格(現役兵としては適さない)でした。それで昭和17年(1942年)に中国に行き、製鉄会社で懸命に働きました。昭和20年(1945年)、27歳でしたが、引き揚げ船で帰り、翌年の昭和21年に家内と結婚しました。
 それからは半農半漁の生活で、どちらかというと農業に力を注ぎました。海の仕事はいわし網を引きに行くか自分で釣りに行くかで、あまりお金になりませんでした。8反(約79.2a)の段畑があり、イモ・麦・ミカンも植えました。しかし、このようなことでは生活ができませんでしたから、冬の間は出稼ぎに行きました。11月の半ばにいも掘りを終え、麦を植えた後4月まで、大阪の製鉄会社へ出稼ぎに行きました。食費も切り詰めて、飲みたいものも我慢して仕送りをしていました。
 昭和40年代でも蒋渕大島では、食事は7分麦でした。昭和45年(1970年)でしたが、姉が大阪から帰ってきたときに、半分でも米を入れて食べられたらいいのにと言ったのを覚えています。
 農業が暇なときは小船でイカ釣り漁に出ていました。イカはタイを釣る餌(えさ)として生きたままでよく売れていましたし、夏のイカは干して仲買いに出していました。昭和40年代にはイカも釣れなくなり、ホオタレ(カタクチイワシの異名)もよくこの海岸まで入ってきていましたがこれも駄目になりました。このころから真珠養殖が盛んになり始めていました。家内は畑仕事を主にしていましたが、水を工面するのに段畑に水を担いで上げるのに大変苦労しました。おかげで現在足腰をいためてしまいました。畑は家の裏山と山の西側斜面にありましたが、現在は段畑も崩れてしまって以前の面影はありません。」

写真2-3-19 今に残る石垣

写真2-3-19 今に残る石垣

宇和島市蔣淵大島。平成17年7月撮影

図表2-3-19 **さんの昔の家の見取り図

図表2-3-19 **さんの昔の家の見取り図

**さんからの聞き取りにより作成(1階のみ)。