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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(3)宇和海南部 冬の強風に耐えて

 南宇和(みなみうわ)郡愛南(あいなん)町内泊(うちどまり)で住まいとくらしについて探った。内泊地区は、愛南町の豊後水道入口に突き出た半島の北側斜面にあり、冬は強い季節風にさらされる地区であり、夏は、台風の通過地点になることも多い。地形的には標高300m級の山が連なり急斜面をなし平地に乏しい。この地区は、寛文年間(1661年~1673年)の『西海巡見志』では当浦に船番所が置かれ、家数は8軒であったという (⑨)。元禄9年(1696年)に中泊(なかどまり)が開発され、慶応2年(1866年)に中泊の人が外泊(そとどまり)を開発した。この3地区は冬の強い季節風に対して防風、防潮石垣を築いていたが、改築のたびに取り壊され、現在残っているのは傾斜地に集落が開かれ、ひな壇のように家々が建設された外泊のみになっている(⑫)。外泊も古い石垣(口絵参照)は、徐々にその姿を失いつつある。
 内泊地区の人口変化は昭和30年(1955年)が1,153人、昭和40年が690人、平成16年(2004年)は164人であり、平成16年の人口は、昭和30年の約14%という激減ぶりである。
 南宇和郡愛南町内泊地区で生まれ、漁業に従事してきた**さん(昭和13年生まれ)に昭和40年ころまでの住まいとくらしについて聞いた。

 ア 石垣のある住まい

 「内泊は、北西の風が強く、私の家も石垣がありましたが、昭和52年(1977年)に改築したときに壊しました。内泊は谷が奥深く、海岸の家だけが北西の季節風や潮の影響を直接強く受けていたので海岸に近い家には皆石垣がありました。中泊、外泊の集落は傾斜地に家が立地しているので、現在まで潮風を防ぐ石垣が残ったのだと思います。内泊の西端の家には、台風と季節風を避けるために高さ2mくらいの石垣がありました。
 私の家は(図表2-3-22参照)分家で、集落の西の端ですから『はなのへや』と屋号をいっていました。『はなの本家』が**の本家の屋号です。西林寺の周囲は水田も一時ありましたので、畦地(あぜち)という屋号もあります。
 内泊地区は北側斜面に開けていますから、海岸沿いの家は皆北側または東側が入口です。私の家は、東側が入口で、海側に庭がありました。庭に面した座敷でオモテの間と呼んでいた6畳の部屋と4畳半の部屋があり、この部屋は夏の間板の間でした。この4畳半の部屋の床下には深さ150cm程度で3畳くらいの広さの芋つぼがありました。南側にはオクの間と呼ぶ3畳の部屋がありました。その隣りに子どもの寝室などになっていた4畳半の部屋と土間に面して3畳程度の板の間がありました。そこが食事場所でした。土間の東側には倉とか納屋とか呼んでいた穀物や漁具・農具を入れる建物がありました。納屋の2階が祖父母の寝所でした。庭に面した6畳の表の間と4畳半の部屋の前には石垣塀がありました。防風と防潮の役目を果たしていたと思います。昭和10年代には納屋の2階の部屋で蚕を飼っていました。隣りの船越地区は水で苦労したと思いますが、昭和29年に船越湾簡易水道工事が完成しています。内泊は谷が深いのでもっと以前に簡易水道ができていましたから水で苦労した覚えはありません。
 私は漁師4代目です。国民学校1年のときから、学校の休みなどには親について船で釣りに行っていました。船は終戦後、石油がありませんから、木炭でガスを起こして走るエンジンつきの船でした。
 親父に仕込まれましたから、新制中学を卒業するころには、一人前の漁師にある程度なっていました。冬場はブリの一本釣りです。最初は1匹のイカを1本の針につけて釣っていました。ところが大分(おおいた)県津久見(つくみ)市保戸(ほと)島(大分県南東部、津久見湾の入口にある島で、小型船は土佐(とさ)沖から三陸(さんりく)沖に出漁する。豊後(ふんご)水道のイサキ、タイ、サワラ、ブリなどの一本釣りも盛んである。)の漁師がこの内泊まで来るようになり、船で寝泊りしながら釣りをしていましたので、この人たちから多くのことを学びました。それは、保戸島の人たちは、枝針を10本ぐらいつけ、それに餌(えさ)にするための切ったイカをつける漁法で、一度で何匹も釣れるので、この地域では画期的な漁法でした。
 私は中学校を卒業してから、昭和37年(1962年)までの8年間、漁師生活をしました。それから都会の生活にあこがれて、大阪の会社に就職しました。そのときの漁はブリ釣りがほとんどで、船も4馬力のエンジン付き3トン未満の船でした。
 夏はイカ釣りです。最初はたいまつを燃やし、戦後はガス(アセチレン)を燃やして漁をしていましたが、発電機ができてから、水中灯と船上からの明かりをつけてイカを寄せて、夜から朝まで漁をしていました。多いときは一晩で200kgから300kgほどの漁でした。大正から昭和の初期にはほとんど干しするめにして、1斗(約18ℓ)ダルに詰めて出荷していたと聞いています。ここのスルメイカは他の地域のイカより肉厚で、甘味があり最高だと思っています。
 秋にはメダイとかクエ、カンパチなどの釣りが主体でした。海域は由良(ゆら)半島から南、宿毛(すくも)にかけての海域でした。戦前の親父の時代は高茂(こうも)岬に海軍の兵舎があり、その沖合で漁をするのにその兵舎で許可をもらわないと漁ができなかったそうです。」

 イ トウヤのしきたりを守って

 さらに**さんは内泊地区のしきたりやくらしについて次のように語る。
 「漁村にはいろいろな言い伝えがありますが、漁に出てはいけない日に、女房が出産したときをアカ日といって漁は3日休めといわれていました。
 船には、船霊(ふなだま)様が固定して昔からありました。船霊様は女性だから、船頭以外に女性一人を船に乗せると船霊様がお怒りになるので、女性を一人乗せるときは必ず女性の人形を一緒に乗せていました。
 この集落のお祭りにはさまざまなものがありますが、海と関係するものに11月6日の竜王(りゅうおう)祭りというのがあります。いわれは鹿島の沖に定置網があったのですが、そこにもぐって帰ってこなかった人を祭ったのが始まりといわれています。竜王さんというお社が私の家から200mほど西にあり、ここは小さな岩礁でした。今は埋め立てて道路ができ、陸続きになっています。そこのお祭りで神主さんが船で渡って神事をした後、若宮神社で相撲やお神楽などを奉納していました。それから、7月10日には魚招(うおまね)きという行事がありました。これは若宮神社の下にエビスサンを祭った祠(ほこら)がありますがそこで行われます。十日エビスのことですが、それはにぎやかに行われていました。大阪の今宮戎(いまみやえびす)神社の祭りと同じです。現在は役員だけがひっそりと神事をするぐらいです。
 また、漁がなければそのときも魚招きといって一杯やるわけです。これは不定期ですが、若宮神社に酒を持って集まって世間話をしながらさかずきを酌(く)み交わすのです。そのときの席順は別に決まっていませんが、長老を立てるというのが常でした。私らは若かったですから買出しの使い走りです。とにかく魚を招く宴会ですから、賑(にぎ)やかにするというのがきまりでした。歌が出たり手拍子が出たりしていました。
 漁に行かないときは、畑仕事があり忙しいのが常でした。ここは半農半漁ですから、この地区の裏山は山頂近くまで段畑で、私の家も4反ほどの畑がありました。今でも山には当時のシシ垣が残っています。シシ垣は石を積んだもので、高さ約2m、幅80cmくらいあり、シカやイノシシは防げたようですが、サルには困ったようです。集落でシシ番を雇って、1日中石垣の上を大声を上げて巡回させたこともあるようです。
 山林も私の家で3町ほどあり、山仕事は大体冬の仕事でした。畑は芋、麦の二毛作で、水田がありませんでした。もち米がありませんから、もち麦を栽培し、芋とヨモギを混ぜて餅にしていました。べら餅といって小判型にしてシュロの葉で吊(つ)って乾燥させて、保存食としてよく食べました。子どものころのおやつであり主食にもなっていました。麦刈りとか、いも掘りなどはお互い共同でやっていました。梅雨明けには各戸が一番いい日を選んで、畳もすべて上げて大掃除をしていました。
 年祝いは、25歳、42歳、61歳としました。お参りは若宮神社で同じ年のものがいっしょにお祓いを受けて、自宅で個人個人でお祝いをしていました。大体は若宮神社ですましますが、中には金比羅さんに行く人もありました。宇和島の和霊(われい)様には、船で寝泊りしてたびたびお参りしました。
 この地区にテレビが見え始めたのは、昭和34年(1959年)9月にNHK大分放送のテレビ番組が見ることができたのが最初だったと思います。現在は廃校になっていますが、昭和36年に旧西海(にしうみ)町立西浦中学校にNHKからテレビが寄贈され、大相撲のときは内泊地区の人が見物にいき、夜間も宿直の先生に迷惑になるほどであったと聞いています。
 内泊の組組織は7組あり、西組、宮組、寺組、中組、浜組、東組、丸穂(まるお)組とありました。私のところは内泊の西組です。それぞれで集落の連絡事項や西海町(現愛南町)からの伝達を徹底するために会合をしていました。組の主な仕事は、1年ごとに神事、仏事、お祭りなど『トウヤ』といって1年間の行事を当番で準備する仕事が回ってきます。7月10日には十日エビスがありますが、その準備がこの地区の当番ですから早速餅の準備などしなくてはなりません。1年間の各種行事のお世話をするわけですから大変ですが、こういう助け合いの精神が残っているのが田舎のいいところで、いつまでも残って欲しいものだと思います。」

図表2-3-22 防潮石垣のあった住まい 

図表2-3-22 防潮石垣のあった住まい 

**さんからの聞き取りにより作成。