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えひめ、その住まいとくらし(平成17年度)

(2)むらで集う③

 エ 鉱山町東平に集う

 別子銅山は元禄4年(1691年)、泉屋(住友)によって開坑された。江戸末期に経営が悪化したが、明治初期から近代化に努め、採鉱本部も北部へ移動して東平(とうなる)・端出場(はでば)地区が中心となっていった。しかし、開坑以来銅鉱を産出し続けた別子銅山も、鉱石の枯渇による採掘条件の悪化や低廉な鉱石の輸入などにより、昭和48年閉山に至った。
 新居浜市東平地区は、新居浜市の南南東の海抜650~800mの山中にあり、採鉱課事務所、配給所のほか病院、学校、保育園、郵便局、警察の派出所、娯楽場、接待館なども整っていた(⑤)。一(いち)の森と二の森の間の窪(くぼ)んだところに『私立住友東平尋常高等小学校』があり、その東側に東平(上・下)、辷坂(すべりざか)、喜三谷(きぞうだに)、第三の各集落、西側に呉木(くれぎ)(上・中・下)、尾端(おばな)の集落があって、それらを合わせて東平と呼んでいた。最盛期には周囲の山肌に社宅が何層にも連なり、鉱山関係者や家族など3,800人を数えた。その後採鉱本部が端出場に移転したため施設も次第に縮小され、ついに昭和43年(1968年)に閉坑となった。

 (ア)充実していた娯楽場・浴場・接待館

 新居浜(にいはま)市船木(ふなき)地区に居住する「東平を語る会」会長の**さん(大正12年生まれ)、中村地区の**さん(昭和5年生まれ)、**さん(昭和9年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)、岸の上町の**さん(昭和3年生まれ)、大生院(おうじょういん)地区の**さん(昭和9年生まれ)、西連寺(さいれんじ)町の**さん(昭和5年生まれ)、**さん(昭和6年生まれ)、東田(とうだ)地区の**さん(昭和19年生まれ)の9人に、人々が集い楽しんだ劇場や浴場、住友関係の要人や著名人が会食をしたり、宿泊をした接待館(東平荘)などについて聞いた。
 「第三通洞が貫通した明治35年(1902年)が東平の始まりで、閉坑した昭和43年(1968年)までの66年間を東平時代と考えています。大正のころまでは鉱石も豊富でしたが、年代の経過につれて鉱量が減少し、低品位になっていきました。しかし、戦後製錬技術の向上などにより再び繁栄し、昭和25年(1950年)ころに最盛期をむかえました。当時は『二代目掘り』といって江戸時代に掘って詰め戻したものを再び掘ったり、坑外に捨てていた低品位の鉱石を再使用していました。しかしそのような作業も次第に減少し、昭和43年についに閉坑となったのです。
 東平で働いている人々が仕事の合間に集い楽しんだ東平娯楽場(劇場)は、病院や配給所の近くにありました。なにしろ娯楽の少ない時代だったので、芝居や映画を見るのが楽しみでした。
 明治45年(1912年)に建設されたこの娯楽場は、縦21.8m、横33.7mで建坪が222坪(約732.6m²)ある大きな建物で、娯楽場内(図表3-11参照)には回り舞台や迫(せり)、花道などがあり、大きなシャンデリアが真ん中に下がっていました。中央の観覧席は畳敷きで、その両側の一段高いところと2階は桟敷となっていました。そこには別子銅山のマークの入った灰皿がいたるところに置かれていました。舞台裏には畳敷きの着替室や化粧室、さらに炊事場や浴場も整っていました。引き幕は大きなもので、藍色(あいいろ)の地に白抜きで東平娯楽場の文字が染め抜かれており、中幕も何枚かありました。舞台の天井には『天笑人語(てんしょうじんご)』の額が打ち付けられ、また舞台の両側では音楽を鳴らしたり、太鼓を叩(たた)いたりしていました。小道具類はだいたいそろっていたようです。花道の端には警官と労務係員の席がありました。
 当時は職員と一般労働者との上下差別が大きく、2階席は右側が職員席、左側が一般労働者席に区別されていました。2階の職員席へ上がる通路にはござを敷いていましたが、労働者のほうにはありませんでした。昭和15年(1940年)ころまでそのような状態が続いていたと思います。しかし戦後になると労働組合が組織されたため、自由にどこからでも見ることができるようになりました。
 娯楽場の入り口は、入場料を取るときには一人がやっと通れるくらいの狭いくぐり戸となっていましたが、無料の場合は広く開放していました。入り口を入ったところの土間には下足番がいて、労働者の履物をしばって吊るしていましたが、職員は自分で持って上がりました。
 戦前は歌舞伎や浪花節(なにわぶし)がよく上演されていましたが、1か月に1回無声映画も上映され、弁士や楽団が活躍していました。上映前にはちんどん屋のような格好で地域内を宣伝して回り、ちらしを配って歩いていました。戦時中になると戦勝ニュースや会社の宣伝、戦争映画などに変わり、戦後は時代劇が多くなりました。
 祭りの日(5月1日~3日)に歌舞伎一座がやってくると朝8時ころから芝居を行っていたので、そのときは巻きずしや羊かんなどのご馳走を持って見に行きました。東平にやってくる芝居は有名で、麓(ふもと)の新居浜市山根(やまね)地区や新居浜市街からも見に来ていたようです。一座の座長や主な役者、女性などは駕籠(かご)に乗せて、端出場(はでば)から約8kmの山道を2時間ほどかけて運んでいました。
 太平洋戦争後は映画の上映が多くなったのですが、労働組合の決起集会や社員による素人芝居、青年団の演芸会、社交ダンス、柔道の練習などにも使っていました。また、社員の給料日の前後には、新居浜市内から家電、貴金属、呉服、洋品、日用品などの店が多数臨時出店し、繁盛していました。
 次に、浴場は大きい東平職員浴場と各集落に1か所ずつあり、入浴料は無料でした。この風呂に入るのも楽しみの一つで、憩いの場や情報交換・情報収集の場となっていました。
 東平職員浴場は横23m、縦7mほどの建物で、男女別の入り口をくぐると広いセメントの土間になっていました。その奥に休憩室や更衣室(仕事着を着替える。)、脱衣場などがあり、脱衣場には窓の下に衣類を入れる50cmくらいの四角い木の棚がずらりと並んでいました。女性のほうには乳幼児の着替えをしたり、おしめを換えたりする場所もあったそうです。
 浴槽は大きく、真ん中を男女別に間仕切りしているだけなので、話し声や笑い声などは筒抜けでした。この男女の仕切りの隅には管理人が行き来できる開き戸が付いていました。戦前には浴槽は木製(ひのき風呂)でしたが、戦後になってコンクリート製に変わりました。洗い場には木製の桶や椅子(いす)があり、出口の横には湯上がり用の水の出るカランが5、6個ありました。
 土間の反対側にはトイレと戦前・戦中はピンポン台を置いた娯楽室、戦後には組合事務所や簡単な雑誌類などを置いた図書室などがありました。
 東平地区で最も人口の多かった呉木(くれぎ)の浴場は、東平側から長さ172mのトンネルを通り抜けた高い石垣の上にあり、横14m、縦7mほどの建物で、トタン屋根にはコールタールが塗布されていました。また一番奥は管理人室になっていました。
 浴場は入り口の中が土間になっていて、その奥に脱衣場と浴槽や洗い場がありました。風呂は石炭を使って沸かしていましたが、昭和30年(1955年)ころからは電気で沸かすように変わりました。
 父親が仕事から帰ってくる時間には、毎日子どもが着替えを持って浴場付近で待っていて、入浴すると汚れた仕事着を持って帰っていました。浴場のムードは非常によくて、子どもの世話をみんなでしたり、互いに背中を流し合ったり、談笑する光景なども見られました。この浴場のすぐ上には豆腐屋と散髪屋がありました。
 住友関係の要人や著名人が訪れ、会食をしたり、宿泊場所として使用された東平接待館(東平荘)は、明治42年(1909年)に建設され、昭和43年(1968年)の閉坑まで使用されました。
 屋根は雪がすべり落ちやすいようにトタン葺(ぶ)きになっていましたが、細工が施されて瓦(かわら)葺きのように見えました。建築費は17,000円だったそうです。部屋数は10畳ほどの広い部屋が4室、6畳の日本間が6部屋ほどと会食をする20畳の広い部屋が1室ありました。また昭和15年ころに暖房設備が完備した20畳ほどの洋間が増築され、この洋間からは東平事業所が一望でき、建築物や施設、鉱夫の入坑状況などを見ることができました。広い来客用の部屋には床の間や違い棚などもあり、来客には新鮮で風味のあるコーヒーやビスケットなどが出されたようです。風呂は総ひのき風呂で、浴槽につかりながら一の森の四季折々の景色や庭の赤石五葉松(あかいしごようまつ)などを楽しむことができたため、宿泊者は口々に『ここの風呂は特にいいなあ。』と喜ばれました。
 昭和30年5月、歌人の川田順が来山した際に、『この山にて働きしことの幸せを語る老鉱夫に耳かたむくる』の一首を残しています。
 しかし、一般の人々や旅役者は使用することができないので、旅館に宿泊していました。」

 (イ)忘れられぬ東平生活

 坑内の仕事に従事していた西条市大町の**さん(昭和6年生まれ)に、社宅の様子や坑内の作業、仲間が寄り集まった倶楽部(くらぶ)などについて聞いた。
 「私は昭和6年(1931年)に東平で生まれ、昭和43年の閉坑まで約37年間呉木集落で過ごしました。家族が生活した社宅は一般にいうハーモニカ長屋(細長い一棟を横に小さく区切った長屋)で、隣と隣の仕切りは4分板の仕切りになっていたため、隣の話などは筒抜けでした。屋根はトタンで黒色のコールタールを塗っていました。社宅は1戸分が6畳一間や3畳と4畳半の二間のところ、3畳と4畳半と6畳の三間のところなどがあったのですが、6畳一間の場合は表の板戸を開けると1畳ほどの土間になっており、障子戸の奥に6畳間がありました。炊事場は戸口の前にあったので、トタンの粗末な差し出しを作っていました。また非常に狭いため、屋根裏に低くて立つことができないほどの3畳程度の部屋を工夫して作ったりしました。各棟には共同の炊事場と便所がありました。飲料水は谷からパイプで引いていて豊富にあったのですが、冬になると凍るので溶かすのに大変苦労しました。また主婦は食料品や魚などの買出しのため、長く薄暗いトンネルを通り抜け、冬季には凍って滑る坂道を行き帰りしなければならず大変でした。
 しかし日常生活では集落全体が付き合いを、また一つの長屋は家族同様の付き合いをしていました。珍しいものを作るとおすそ分けをし、家内が里帰りをしたときでも自分で炊事をしたことはほとんどありません。家を空けてももちろん鍵(かぎ)などかけることなどなかったです。人々の愛情や親切心、互いに助け合う気持ちや気配りなど、当時の良い思い出として今でも脳裏に残っています。
 仕事は坑内と坑外の労働があり、昭和28年ころは坑内労働の請負夫の給料は坑外労働者の2倍近くありました。私は坑外で電気係をしていましたが、昭和30年に酒に酔った勢いで坑内労働を希望し、鉱夫になりました。鉱夫は三交替制で労働に当たります。一番方は午前8時から午後4時まで、二番方が午後4時から午前0時まで、三番方が午前0時から午前8時までとなっていて、朝8時の電車で80人くらいが坑内に入っていました。
 勤務時間の30分前に家を出て電車の発着場に急ぎましたが、家から事務所までは作業着(青色の菜っ葉服)に安全帽と地下(じか)足袋を着け、弁当、水筒、キャップランプ(充電式ランプ)を持ち、かずらで編んだ“尻すけ”をぶら下げて行きました。
 しかし、温度約36、37℃、湿度90%近い悪条件の現場で行う作業はそれは地獄でした。しばらくは遊びに行く気力もなく、好きな酒も飲めず、食事もあまりとれずに寝てばかりしていました。坑内労働を希望したことを後悔しましたが、閉坑までなんとか鉱夫を続けられたのは先輩の励ましや協力、思いやりがあったからだと感謝しています。
 このように過酷な仕事の合間には、疲れを癒すために倶楽部(くらぶ)(娯楽設備や用具があった。)によく行きました。倶楽部は東平・呉木・辷坂・喜三谷集落に1か所ずつありましたが、独立した建物があったのは東平と喜三谷集落でした。
 東平倶楽部は、明治41年に東平選鉱所のそばに建設されています。他の集落の倶楽部より少し高級で、玉突き台(ビリヤード)・囲碁・将棋などがあり、新聞も置いていたと聞いています。玉突き台は2台あり、特に人気があったようです。しかし、昭和3年に第三集落にあった採鉱事務所(本部)が東平倶楽部の建物に移転したため、倶楽部は少し高所の巡査駐在所付近の社宅を改造して移りました。前の建物より狭いために、玉突き台は1台になり、大勢参加するので順番待ちが大変でした。呉木と辷坂集落の倶楽部は、社宅の二部屋分をぶち抜いた大きな部屋で、囲碁・将棋や持ち込んだ花札などがありました。多くの仲間が集まり、思い思いにしゃべったり、ゲームに興じたりしたものです。
 この倶楽部は労働者の親睦(しんぼく)のみでなく、青年団や地域の会合などにも使用されました。戦後は放送施設が設置され、有線放送も流れていました。また村会議員や町会議員の選挙の投票所などにも使われていました。」
 **さんや**さんを中心に「東平を語る会」が結成され、当時の記録や写真などを収集・保管するとともに、毎月1回程度語る会を開いて、66年間に及ぶ東平での出来事を後世に残すための活動が続けられている。

図表3-11 東平娯楽場(1階平面図)

図表3-11 東平娯楽場(1階平面図)

**さん提供の資料から作成。