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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)写真でたどる高度経済成長

 ここでは、昭和30年代の前半に、上浮穴(かみうけな)郡父二峰(ふじみね)村二名(にみょう)(現在の上浮穴郡久万高原(くまこうげん)町二名(*3))で撮影された何枚かの写真を手掛かりにして、昭和30・40年代の「高度経済成長期」の子どもたちや子どもを取り巻く自然環境や社会環境の変容について読み解くこととしよう。
 とある婚礼の花嫁出立(でだ)ちの光景である。トラックには花嫁道具が満載されている。集落の子どもたちも珍しそうに見送りに出ている。
 乗用車は、当時タクシー用として利用されていたアメリカ合衆国製のシボレー(1951年型)である。このころは、国産乗用車の生産は、ようやく本格化したばかりで、欧米からの輸入車を使用することが多かった。自動車産業が、生産面や輸出面で世界トップの座を保持している現在では、想像もつかない時代のことである。
 草葺(くさぶき)の屋根が写っている。この当時は、萱講(かやこう)(草葺の屋根を維持するための相互扶助の仕組み)が機能していた。稲木(刈り束ねた農作物をかけ並べて干すための柵(さく)や木組み)は、稲作や麦作のため、一年中立っていたようである。道路は、未舗装のため雨や雪が降るとたちまちぬかるみ足元が悪くなった。
 『二名小学校閉校記念誌 ほたる(④)』には、「砂利道の思い出」と題する次のような一文が掲載されている。
 
   「(前略)私は、小学生のとき30分かけて登校していました。もちろん徒歩です。上級生が先頭で旗を持ち、必死で歩
   いた低学年のころ、3年上の兄に叱(しか)られないように緊張感でいっぱいでした。
    しかし、下校時は違っていました。同級生とおしゃべりしながらの道。まだ砂利道でした。この砂利道とともに思い
   出されるのは、道路工夫のおじさんです。おじさんは、リヤカーに砂利を入れ、道に敷き、道を整えて下さっていたの
   です。ゴツゴツした新しい砂利道は、歩きにくいのですが、海の色にも似た紺碧(こんぺき)のそれは、妙に私をわくわく
   させたものです。『おじさん、なにしよるん。(なにをしているのですか。)』と声をかけると、いつでも微笑(ほほえ)
   み、ときにはリヤカーに乗せて下さった。それがたまらなく嬉(うれ)しかった帰り道。たまに里帰りし、舗装された道を
   快走するにつけ、あの砂利道とおじさんが懐かしく思い出されて仕方ありません。
    今では、道路工夫さんはいません。小学校までの道のりも整備されたのに、閉校とは時代の流れのひずみすら感じま
   す。(後略) (昭和46年度卒業 **さん(④))」
 
 この一文には、小学生と道路工夫さんとの触れ合いとともに、道路も整備され、生活もしやすくなったはずなのに、なぜか人口が減ってしまい、小学校の閉校を招いた現実への素朴な疑問がつづられている。
 一方、写真序-2は、平成18年(2006年)に撮影した、ほぼ同じ場所の写真である。2枚の写真を比較してみると、そこには高度経済成長の証(あかし)とも呼べる事象が見える。
 トタン屋根に葺(ふ)き替えられた、かつての草葺の屋根に隔世の感がある。家屋が取り壊され、空き地となった屋敷地も見受けられる。電線や電話線が走る。かつての砂利道は舗装され、カーブミラーなどから、自動車が生活の一部に組み込まれた現状が見て取れる。昭和33年ころには、20世帯を超える集落で2軒の商店(食品から日用品までを販売する、いわゆる「よろずや」。)があったが、平成18年現在10世帯に減少し、いつの間にか2軒の商店ともなくなり、ふだんの買い物は、トラックに商品を積んで松山市からやってくる移動スーパーに頼るか、15kmも離れた久万高原町の中心部にあるスーパーへ出かけなければならない。
 稲木に代わって、高原トマトを栽培するためのビニールハウスが立ち並び、かつての稲作中心の農業から、冷涼な気候を生かした特産品・高原野菜づくりに転換した姿を垣間みることができる。画面奥の杉林は、密植状態が進み、森林管理が困難になってきたため、間伐を始めたところであった。最近は、イノシシによる農作物被害が絶えないという。


*3:二名 この地域は、江戸時代には二名村、明治の大合併で明治22年(1889年)11月父二峰村、そして昭和の合併で昭和
  34年(1959年)3月久万町、さらには、平成の大合併で平成16年8月1日に久万高原町となった。

写真序-2 平成18年の二名の景観

写真序-2 平成18年の二名の景観

久万高原町二名。平成18年11月撮影