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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)郊外の子どもたち-伊予郡松前町浜の話-

 松前町浜は、同町の西部に位置する。東側を旧の国道56号と伊予鉄道郡中線が並行して通り、伊予鉄道松前駅がある。西側は伊予灘(この海のことを松前町浜の住民は「西の浜」と呼んでいる。)に面しており、松前港がある。

 ア 女の子の遊び

 松前町浜で生まれ育った**さん(昭和24年生まれ)、松前町恵久美(えくび)から松前町浜へ嫁いできた**さん(昭和17年生まれ)に聞いた。
 **さんは、「ふだんの日(ケの日)に対して特別な日(ハレの日)がありました。正月や祭りなどには、晴れ着を着せてもらいました。秋祭りには、きれいな着物や新しい下着が用意されました。ふだんは、着たきりスズメの子どもたちが多かったように思います。
 小学校から帰ると、近所の幅2尺ほどの細道(ほそみち)(中道(なかみち)とも呼んでいました。)を入った友だちの家の前にゴザを敷いて、四、五人で集まっては、着せ替え人形やままごと遊びをしました。着せ替え人形の着物は、端切れで縫いました。お菓子の空き箱で家を作ったりしました。ままごと遊びでは、アサガオやオシロイバナで色水をつくりました。夏になると西(にし)の浜(はま)で水泳を楽しみました。また、もらったウミホオヅキ(アカニシ・テングニシ・ナガニシなど巻貝類の卵のう)でホオヅキのように口の中でブキブキ鳴らして遊んだり、梅干を竹の皮に包み、しゃぶって赤く染まってくるのを楽しむ、梅しゃぶりもしました。竹の皮に何を包むかで、いろいろな味を楽しむことができました。
 ゴム跳びもよくしました。段跳びとか、女跳びとかの技がありました。当時は義農神社(ぎのうじんじゃ)の周りには水田が広がっていたので、春になるとレンゲ畑で寝っころがったり、首飾りをつくったりして遊びました。」と話す。

 イ 遊びの移り変わり

 **さんは、「当時は、東洋レーヨン(現 東レ)の社宅にある集会所で開かれていたバレエ教室の練習風景をよく見せてもらいました。それから松前城址の近くにあった学習塾へも通いました。親子の先生が熱心に教えてくれました。
 特に意識した訳ではありませんが、中学生になるとだんだんと同じ進路希望の子どもたち同士で遊ぶようになりました。
 高校生になってからは、ラジオ放送をよく聞きましたが、『9,500万人のポピュラーリクエスト』が楽しみでした。ザ・カスケーズの『悲しき雨音』や舟木一夫の曲を懐かしく思い出します。また、土曜日の午後には、よく映画鑑賞に行きました。松山(まつやま)市の二番町に『銀映』という再映の洋画専門の映画館があって『エデンの東』や『スペンサーの山』を見たのを思い出します。」と話す。
 一方、**さんは、「私が、生まれ育った恵久美では、亥の子は、一の亥の子(一番亥の子のこと)、二の亥の子(二番亥の子のこと)、三の亥の子(三番亥の子のこと)と三回に分けてしていました。昭和20年代の終わりのころからは、『石の亥の子』から『わらの亥の子』へ変わっていきました。ただ、亥の子は男の子の行事で、女の子はメンバーにはなれませんでした。女の子には御祝儀の分け前もなく、少し寂しい思いをしましたが、当時はそれが当たり前でした。
 夏休みになると、毎日、近所の川での泳ぎと高校野球のラジオ放送が楽しみでした。このほか、ゴム跳びや羽子板、缶けり、花いちもんめ、おはじき、お手玉、かくれんぼ、ドッジボールなどもしました。
 当時は、松前の町には、『第一大坪座』や『第二大坪座』などの芝居小屋や映画館もありました。
 東洋レーヨンの製造工程で出ていた独特の臭いとか、珍味加工場の臭いを懐かしく思い出します。ラジオ放送では、浪花千栄子と花菱アチャコが演じていた、連続ラジオ劇の『お父さんはお人よし』が楽しみでした。搾乳用(さくにゅうよう)のヤギや毛糸を採るためのヒツジを飼っている家もありました。」と話す。

 ウ 男の子の遊び

 松前町浜で生まれ育った**さん(昭和19年生まれ)にも聞いた。
 **さんは、「松前には、山がないので、セミやカブトムシを捕まえるときには、トリモチを片手にして、はるばる伊予市の谷上山(たがみさん)(伊予市上吾川(かみあがわ)にあり、標高455m。山上からは伊予市のほか松山平野や瀬戸内(せとうち)の島々まで見渡すことができる。)へ歩いていっていました。トリモチで捕まえたメジロを飼うのが流行しました。松前小学校前にあった竹材店で購入した竹ヒゴで鳥かごをつくりました。鳥かごのように売られていないものを自分たちで作り出したり、竹トンボのように工夫しながら削り出したりする喜びがありました。遊び道具づくりそのものが遊びだったように思います。
 このあたりは、広場がほとんどなかったので家の前の道路や海岸にあった塩田跡のほか、小学校の運動場でよく遊びました。草野球のときのゴムボールは貴重品で、見失うとそれこそ目を皿のようにして見つけ出すまで探しました。西の浜で砂遊びをしましたが、深く掘りすぎて砂山がドスンと崩れ落ちたりすることもありました。
 柘榴石(ざくろいし)(マグネシウム・鉄・マンガン・カルシウム・クロムなどを含む珪酸塩(けいさんえん)鉱物。)が出るというので忽那山(くつなやま)(松山市北吉田(きたよしだ)町にあり、標高49m。西は伊予灘(いよなだ)に面する小分離丘陵(きゅうりょう))へはるばる歩いていったり、貝拾いの遠征もしましたが、歩くのは苦にはなりませんでした。
 当時は、今のような専用の体操服はなかったので、体育の時間には、ふだんの服装に近い服装で飛んだり跳ねたりしていました。このころから、運動が得意でした。そのおかげか、昭和39年(1964年)の東京オリンピックの聖火リレーでは松前町の代表に選ばれ、国道33号の三坂路を走りました。
 今のようには、親が子どもにかまう時間もゆとりもなかったので、子どもには子どもの領分がありましたし、年上の子どもが、弟や妹の面倒をみるのが当たり前でした。高等学校を出るまでは、男の子は男の子同士で、女の子は女の子同士で遊ぶような風潮がありました。年下の不始末は、年上の責任にされました。日々のくらしの中で、だんだんと年上としての自覚ができていったように思います。」と話す。

 エ 大人のまねごと

 松前町浜に住む**さん(昭和14年生まれ)は、懐かしい道後(どうご)遠征について、「小学校高学年のころですが、正月になると、近くの2、3級上のお兄さんたちが道後温泉につかりに行くということで、よく誘われました。温泉に行くというのは口実で、道後温泉本館の近くにあった『うどんのとしだ』(大正13年[1924年]創業)でうどんを食べるのが本当の目的でした。行き帰りは電車でした。まだ舗装されていないころで、松前小学校の前にあった親戚(しんせき)の家に打ち水するのを手伝いに行きましたが、もらったささやかな小遣いで、地蔵町駅から松前駅の間を電車で往復するのが楽しみでした。伊予鉄道郡中線も初めは赤電球が懐かしい、坊っちゃん列車(汽車)でしたが、ディーゼル列車を経て昭和25年(1950年)4月末には電化されました。今思うと、少しだけ背伸びをして、大人のまねごとをしていたのだと思います。」と語る。

 オ 手伝い

 **さんは、「西の浜(新立海岸)では、地引き網をしていましたので、カギの付いたロープを腰に巻いて、カギを網に引っ掛け、引っ掛けしながら手伝いました。引き終わると、分け前(菜曳(さいび)きと呼ばれていた。)をもらいました。あのころは、伊予市の新川(しんかわ)(新川海水浴場。梅津寺(ばいしんじ)とともに伊予鉄道経営の海水浴場)まで見通せました。魚釣りは、長尾谷川(ながおたにがわ)でしました。そのころは、長尾谷川のことをダンダラガワと呼んでいました。きれいな水が、ダンダラの縞(しま)模様になって流れていたので、ダンダラガワと呼んでいたのだろうと思います。
 夏になると、タマネギ栽培をしていた親戚の手伝いにいきました。砂地なので水やりが一仕事でした。ハネつるべがあったのを覚えています。手伝いの後は、西の浜や夫婦橋(めおとばし)付近の湾でよく泳ぎました。今よりは、はるかに水がきれいだったので、マクワウリを冷やして食べました。」と語る。

 カ 出来事

 **さんは、「昭和18年(1943年)7月の大洪水では、長尾谷川の上流からスイカや牛が流れてきたという話も残っています。中学生のころには、ハトを飼うのがはやったこともありました。ハトは、とても頭のよい鳥で、飼い主が学校から帰宅するころには必ず家の近くに戻ってきました。ひょっとしたら時間がわかるような能力を持っているのではないかと思っていました。アンゴラウサギを飼ったこともあります。たぶん毛糸をとるために飼っていたのでしょう。
 小学校の遠足では、谷上山や湧ヶ渕渓谷(わきがふちけいこく)(松山市宿野(しゅくの)町にある。石手川上流の渓谷。)まで歩いていきました。草鞋(わらじ)を2足ずつ持って行ったこともありました。
 秋祭りといえば、夫婦橋での本村(ほんむら)(浜地区のうちで夫婦橋より北の集落。地元の人は、「ほむら」と呼んでいた。)と新立(しんだて)(浜地区のうちで夫婦橋より南の集落。)との神輿(みこし)の鉢合わせがありました。早朝から、鈴ひもを腰に巻き、シャンシャンいわせながら見物にいきました。次々に担夫(かきふ)たちが、レンコン地(レンコン畑)に落ち込むのが見ものでした。何年かに一回は、死者が出ることもありました。当時は本村が黄色で、新立が赤色に色分けされていましたが、この色分けは、現在も小・中学校の地区別対抗リレーなどで生きています。」と語る。
 また、**さんは、遠足の思い出について語った。
 「重信(しげのぶ)川には久谷(くたに)大橋や重信大橋、出合(であい)大橋などの橋が架かっていますが、最も河口に近いところにあったのが、河口大橋(かこうおおはし)です。
 昭和30年代前半のとある遠足の一こまです。松山市と伊予郡松前(まさき)町の境界にあった河口大橋を南へ南へと歩く一団です。
 自転車は、当時一世を風靡(ふうび)した実用自転車で、ロッドブレーキに砲弾型ライトを装備していました。緊急連絡のためか、自転車で引率する教員がいたのでしょう。松前小学校の児童数は、昭和31年(1956年)には全校で1,591人となり、同㉝年には、1,692人のピークを記録しました(⑩)(平成18年5月現在全校児童数835人)。子どもたちが湧(わ)いていた、いわゆる「団塊の世代」が小学生だったころで、路地や空き地に子どもたちの歓声がこだましていた時代の話で、今になってみても、遠足の列はいつまでも続いているかのように感じます。」と語る。
 一方、**さんは、「昭和31年(1956年)のことで、コンクリート製の河口大橋が架けられたときの開通記念行事の一こまです。昭和31年(1956年)の開通までは、幅1mほどの木製の仮橋(一銭橋(いっせんばし)と通称されていた。)が利用されており、さらに下流には、今出(いまず)(松山市)と塩屋(しおや)(松前町)を結ぶ『塩屋の渡し』があったと聞いています。
 現在の橋は、平成12年12月からの工事で、両側歩道付きの幅員15m、全長266mの近代的な川口大橋(かこうおおはし)に架け替えられ、平成15年10月から供用されています。また、重信川の河口部干潟に位置しているので、水辺教室や探鳥会に訪れた親子連れの姿を見かけることもあります。」と語る。