データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)関川の子どもたち

 関川(せきがわ)地区は四国中央(しこくちゅうおう)市土居(どい)町の西部、関川上流地域に位置する。山林が多く北部北野(きたの)の丘陵と法皇(ほうおう)山脈との間の平野では稲作が行われ、山麓には果樹園が多い。
 関川の子どもたちの遊びやくらしについて、**さん(昭和9年生まれ)、**さん(昭和13年生まれ)、**さん(昭和14年生まれ)、**さん(昭和15年生まれ)、**さん(昭和15年生まれ)に話を聞いた。

 ア 遊びは連れがあってこそ

 「夏の水浴びは馬渡(うまわたり)の橋の下や熊谷橋(くまがいばし)の上流下流でしました。紺屋淵(こんやぶち)は木が茂っていて深く、底が見えないほどの怖い場所で、親から水泳の禁止令が出ていました。冒険心のある者が、こっそり遠征することもありました。関川小学校にプールが出来るまでは、梅雨明け宣言が出ると、担任の先生が馬渡の橋の下へ引率して行って、泳がせていました。夏休みは一日中河原近くで遊んでいましたが、がき大将がいて全体の統制をとっていて、事故は起こりませんでした。大将は小学校6年生の中から自然に決まり、『お前は、この辺りまで行け。』とか『あそこへは行ったらいかん。』などと指示をしていました。少なくても一グループ4~5人、多いときは30人も40人も川で遊んでいました。それでもあまりけんかはしませんでした。
 魚はハヤ、ドンコ、チチコ(カジカ)、モチンコ(タカハヤ)などいろいろいました。手拭(てぬぐ)いに石を入れてヒョイとすくうと魚がとれました。ウナギはせき止めて、石をはがして手でつかんだり、浸け針を夕方仕掛け、朝お日さんが上る前に揚げたりしました。そうしないと他の者に揚げられてしまうのです。10本仕掛けて1本くらいの確率でした。ヒゲガニ(モクズガニ)もたくさんおりました。ざるに鍋のふたを載せて、とったカニを入れました。カニの潜っているところは、砂出しがあるので分かります。穂の付いた草をその前で揺らしてやるとはさんで来て、釣り上げられるのです。
 遊びといえば、一人遊びということがありませんでした。連れがいないと遊べないのです。ゴム跳びにしても、縄跳びにしても、仲間が集まって遊びが始まるのです。ケンケンパはまず石を投げて、その石の所まで、地面に描かれた片足用の円と両足用の円をけんけんぱ、けんぱけんぱと跳んで行くのです。石の手前の円でとまり、石を拾えたらさらに向こうへ石を投げて進むことが出来、出発点へ早く帰った者が勝ちです。円でなく三角や四角の図を描くこともありました。その他、団体ゲームでは缶けり、ロクムシ(ボール遊びの一種)、天町百武士(てんちょうひゃくぶし)(陣取りの一種)、かごめかごめなどがありました。個人ゲームではフラフープ、お手玉、パッチン、ビー玉、きしゃご(おはじき)、まりつきなどいくらでもあります。お手玉も単に何個かを上げるだけでなくて、上げている間に下に置かれたお手玉を、一瞬の技でいろいろ移し変えることをやっておりました。
 生(な)り物取りにもよく行きました。どこにビワが生って、いつがよいときか、みんな知っていました。行って木を揺すったら、木が『さあー、さあー、(どうぞ)。』と言ったのでとったなどというわけです。学校帰りには弁当箱を洗いもしないで、ノイチゴ、グイミ(グミ)、ヤマモモなど一杯入れていました。ノイチゴは今の変電所のところでたくさんとれました。ヤマモモは今も千足(せんぞく)神社の所にあるのですが、今の子はだれも食べません。クワの実も赤になって、次に黒になったころが一番おいしいのですが、黒くなるまで待てないのです。カキなども一人では行かずに、連れだってとりに行って、悪さも一緒、怒られるのも一緒でした。『こらー!』の一声で、ダアーッと逃げるのです。数も自分が食べるだけなので、それ以上のおとがめはなしです。ミカンなども小屋に石を投げて、人がいないと行くのですが、見残し(取残した果実)はおとがめなしでした。」

 イ 農繁託児所

 「農家の子どもは灌仏会(かんぶつえ)や節句などの紋日(もんび)(行事のある特別の日)以外はあまり遊べませんでした。夏は葉タバコの乾燥場で火を焚(た)く仕事を手伝ったり、よく牛を使ったりしていました。『牛はどうして、あんなに動いているのだろうか。』と言ってよくよく見ると、子どもの背が低いから、牛だけが仕事をしているように見えたなどということもあるのです。たとえ小さくても、よく世話してくれる子どもの言うことは、牛もよく聞くのです。そういう子は牛に餌(えさ)をやりに行ったら、頭をなめられていたそうです。『ほち、ほち。(進め。)』『ぼう。(止まれ。)』と言っても、あまり世話してない人が言うと、牛も動きません。一番最初に牛を出す日を、追い出しといいます。これはしんどい一日で、始めは狭い所から出すので、牛が走り回ります。牛とのコミュニケーションを図り、じわりっとこちらへ引き寄せ慣れさせるのです。慣れたら後は黙っていても、次々と指示通りに動くようになります。田の仕事が済んで鋤(すき)をはずしてやると、牛だけがとっとっと帰って来るようになります。
 農繁休業が3日くらいありました。地域の山手の西福寺(さいふくじ)に特別に農繁託児所が設けられ、乳幼児を抱えた農家は大いに助かっていました。このお寺では当時の御住職の情熱で、昭和6年から農繁期に地域の子どもたちを100人以上預かって、無料で世話をしてきた伝統があるのです。戦後はVYS活動や子ども会活動などと連携し、地域の子どもたちの世話を地域全体で行おうとする雰囲気が生まれてきたのです。今も関川公民館には学校帰りの子どもが30人くらい立ち寄って、遊んだり宿題を教え合ったりしています。ときにはお年寄りが来て、勉強の手伝いをしてくれる日もあります。先日も子ども見守り隊を募ったところ、この小さい地区で70人も手を挙げてくれました。
 6月15日くらいから小麦を刈って、20日ころから田植えが始まるのです。順に水を回し、共同で植えて行くので、10日くらいかかりました。6月30日か7月1日に田休みをします。半夏団子(はげだんご)(夏至から11日目の半夏生(はんげしょう)に作る小麦団子)や柴餅(もち)を作って、みんなゆっくり休みます。女の子はちょっときれいな着物をきて、ちょびっと小遣いをもらいました。100円ももらうと、それは大きい小遣いなのです。」

 ウ 土居市のさくら

 「昔は大きいイベントがなかったので、春の花祭りで甘茶をもらったり、夏の輪越しの夜店で買い物をしたりするのが楽しみでした。また歳末に行われる土居市(どいち)では、なんでも売っていて、昭和30年(1955年)ころまでは大勢の人が集まりにぎやかでした。誓松(ちかいまつ)の広場で開かれる近郷最大の野天市でした。打ち上げ花火をして、バーンと鳴って始まっていました。正月用の物だけでなく、なんでもありましたが、要はたたき売りでした。『そこらの姉さんちょっとお出(い)で…。』などと言う台詞(せりふ)が面白くて、前に立って聞いていたものです。切れないノコギリであったり、ぼろい瀬戸物であったり、粗悪品も多かったのです。
 野師(見せ物や巧みな話術などによって、粗製の商品などを売る者。)とさくらがおり、うまいことやりとりしてさくらが買って帰るのです。それにつられて買う客が出るのです。そのうちさくらがまた帰って来るのですが、あまり早く帰ると周りに覚えられていて、『あれ…さっき買うた奴じゃ。』とばれてしまうのです。妹に綿菓子を買ってやったところ、それを他人の着物にくっ付けてしまい、その人が気付かずに行ってしまったのを、妹は取られたと思い、ワーワー泣くので困ったことがありました。ヘビ女や大入道のお化け屋敷があり、サーカスも小屋掛けしていました。巡業の人の子どもたちも来ていましたが、興業の期間は地元の小学校に籍を置いていたそうです。」

 エ 関川シリーズ

 「工業高校を卒業して電気会社に勤めていたMさんが、青いブラウン管を裸のまま据えて線をいっぱい引っ張って、箱も何もない状態で作ったのが、関川で初めてのテレビで、昭和31年(1956年)のことでした。その翌年に上野(うえの)地区の水道工事が始まり、業者が飯場にテレビを設置し、高校野球を見せてもらいました。そうするとピッチャーの動きがかすかに見えるのです。さすがラジオとは違うなと思って見ておりました。『西福寺のテレビを見に行かんか。』と誘ってくれる人がいて、行ってみると、ピッチャーの投げる玉がよく見えるのです。『投げた、打った、走った。』と一投一打が見えて、うれしくてうれしくてたまりませんでした。それが昭和33年(1958年)ころの話です。中学校にテレビが入り、力道山を夢中で見たものです。琴ヶ浜や大内山の取組に手に汗を握りました。皇太子さんの御成婚を見たのが昭和34年のことでした。昭和35年にはナショナルキッドという子ども向けのヒーローものが人気を集めていました。
 野球は人数に合わせ、場所に合わせルールを自分たちで作って遊びました。中日の杉下がフォークボールを投げ始め、日本シリーズで西鉄に勝ちました。関川シリーズは出場選手全員で5~10人くらい、三角ベース(3塁を設けず、1塁、2塁、本塁で競技する野球)、バットは竹、ボールはゴムマリ、球場は農家の広庭です。一辺が10mくらいのところで、こうなったらホームラン、こうなったらファールなどと決めるのです。ボールを二本指ではさみ、ひねって投げ、ひょろんと曲がって来たのをねらいすまして、竹でひっぱたくのです。特にフォークボールのうまかった子を今でも覚えていますが、さしずめ関川の杉下でした。
 日光写真、長縄跳び、釘(くぎ)打ちなど遊ぶことはいくらでもありました。地面に遊びのための線や絵を描くのには、ロー石を使いました。そのロー石は大川地区のお薬師さんのちょっと右の所に、塊(かたまり)があったのを覚えています。釘打ちは女の子もしていました。釘の取り合いなので、大きい釘が有利です。そこで家に打ち込んである古い大きな釘を抜き取って、勝負する奴が出てきました。それならということで、古い大きな火箸(ひばし)を持ち出して、ブスッ、ブスッと打ち込む奴まで出て来ました。結局どちらも、おやじに見つかって、連帯責任で一同の者におとがめ…えらいこと怒られました。
 ドングリ出しもよくしました。砂にドングリを埋めておいて、上からドングリを打ち付けて、下のドングリが見えたら自分のものとして取れるのです。そうなると打ち付けるドングリが大きいほど勝ち目は大きくなります。そこで長原(ながはら)の雑木林へ行って大きいドングリをとってくるのですが、これが大変な所なのです。うっそうと木の生い茂った所で、昔から追いはぎが出るとか、一回入ったら迷って戻れないなどといわれているのです。そこにはクリのようなイガのついた大きなドングリがあるのです。怖い思いをして長原の茂みに潜り込み、大きなドングリを手に入れて、勇んで帰ったものです。
 先出(さきで)というのは二つのグループによる陣取りです。学校へ行ったらまず運動場で先出をしていました。後から出た者が、先出た者より陣に早く着いたら勝ちなのです。負けた者は捕虜になり順に手をつなぎ、味方が助けに来るのを待つのです。味方は隠れて近づいて、さっと出てタッチ(さわる)すると、そこから前の捕虜が解放されるのです。
 冬休みの前に地区ごとに教室に集まって、休み中何をするか相談します。先輩からの引継ぎで、マラソンと火の用心をすることになると、朝の暗がりの中、郵便局の近くに集まって、『ワッショイ、ワッショイ…』と2kmくらいのマラソンをしました。そこはサトウキビを締める仕事場があって、朝から火を焚(た)いていて暖かかったのです。また中学生は夜、集会所に備え付けの拍子木を打ちながら『火の用心、火の用心…』と言って、地区内を回りました。なにがしかのお小遣いをもらい、子ども会のお菓子などにつかいました。」

 オ 自作の太鼓台とステレンの独楽

 「北野(きたの)地区は秋祭りに子ども太鼓台をかきました。その太鼓で集まったお花(御祝儀)を学校へ寄付しました。それでずっと表彰状をもらっています。昭和27年(1952年)ころ中学生が太鼓台を作ろうと相談がまとまり、かき棒にする木を買うことから始めたのです。元を太く、先を細くするのも、すべて自分たちで鉈(なた)で削りました。ぼろ木を集めて骨組みを作り、モウソウチクを割って取り付けて、その上に厚紙を張って絵を描いたのです。肝心の太鼓は作れないので、宮島さん(厳島神社)の祭礼用の太鼓を借りて載せました。10月に入ったら山へカズラをとりに行きました。それをなめして川へ浸けて、引き綱のロープを作るのです。北野は全部で300戸くらいでしたが、高額ではありませんが、みんな気持ちよくお花をくれました。そうすると中学校3年生の総代が『ただいま下しおかれましたる花の御礼(おんれい)…。』と口上を述べ、一同高く太鼓台を差し上げるのです。
 ジュウジュク玉(リュウノヒゲの実)鉄砲、スギ鉄砲、紙玉鉄砲など竹で作って飛ばし合いをしたものです。作るのが楽しく、仲間よりよく飛ぶとうれしいのです。ぶち独楽(ごま)はサクラの木がよい材料で、ひもは三椏(みつまた)より上質の和紙の原料となるヒヨというものを山でとって来て、その皮をさばいて房にしてたたきました。鉄輪の独楽も回す技術を競いました。掌(てのひら)回し、足くぐらし、胴回し、紐(ひも)すべらしなど技の難度、速度など名人芸の域に達する者もいました。新居浜の住友行(すみともゆき)さん(住友金属鉱山株式会社に勤めていた人)に頼んでおいたら、ステンレスの輪を持って帰ってくれるのです。会社の工作場に残っていた、昔の何かの機械の部品なのですが、独楽の輪としては最高でした。その輪に合わして木を削り独楽を作るのです。木部をはめ、慎重に軸を差し込み、何度もバランスをはかって仕上げるのです。仲間内では『ステレンの独楽』と呼んで、自慢しました。
 亥(い)の子は一番、二番までは小集落で亥の子をつき、相撲を取ります。子どもの数も多く1時間やそこらでは終わりません。その相撲は本番前の予選のようなもので、三番亥の子の日は、千足(せんぞく)神社で相撲の大会が開かれます。中学校で借りた回しを締め、三人抜き、五人抜きなどの取組もあります。それぞれお金や帳面や鉛筆の賞品をもらい、終わると力飯と呼ばれる握り飯をもらうのが楽しみでした。」

 カ 大火事が、やまじ風に乗って

 「地区の大きい思い出といえば、昭和29年(1954年)の北山の火事と昭和36年(1961年)の南の山の火事です。今の高速道路の上の南の山から出火し、やまじ風に乗って、あっという間に広がりました。山から山、尾根から尾根へ火が飛んで来るのです。4月4日のことでした。Sさんは畑野(はたの)へ嫁に行ったばかりでした。『家が焼けても道具だけは…。』ということで、裏の田へ運び出しました。ところが消防団が家には水をかけるのですが、タンスへは水をかけることが出来ず、火が飛んで来て道具は全部燃えてしまったのです。やまじ風には、春やまじと夏やまじがあって、『春やまじ、桁(けた)張る。春やまじ、出る出る降る。夏やまじ、池の底干す。(春は雲が横長く棚引き、やまじが吹くとその後雨が降る。夏はやまじの後は高温、乾燥の日照り状態になる。)』と年寄りから教えられています。
 関川中学校は千足神社のすぐ近くにありました。関川全体を見渡せる場所で、教室は運動場より一段高い場所にあり、涼しい風が吹き、実に環境の良い学舎(まなびや)でした。教室も中庭もきれいで、運動場は全校の生徒が毎朝竹ぼうきで丁寧に掃き、ほうきの目を立てていたのです。小石一つありませんでした。ほうきは各自が自分で作ったもので、掃除は先生にいわれたからではなく、先輩から代々伝えられ、生徒の毎朝の自然の行いであったのです。」