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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)松野の子どもたち

 北宇和(きたうわ)郡松野(まつの)町は南西部に鬼(おに)ケ城(じょう)山系、北東部に戸祇御前山(とぎごぜんざん)の支脈が連なり、その間を広見(ひろみ)川が流れている。米作りが中心で、近年モモの栽培が盛んである。
 松野の子どもたちの遊びやくらしについて、**さん(昭和8年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)、**さん(昭和12年生まれ)、**さん(昭和23年生まれ)、**さん(昭和24年生まれ)、**さん(昭和24年生まれ)に話を聞いた。

 ア ホタル籠とハヤ瓶

 「ビー玉、メンコ、ネンガリ、木馬(きんま)などいくらでも思い出します。ねんがりは普通五寸釘を金槌(かなづち)でたたいて、研いで使いました。いたんだ千歯こきの歯を使ったりもしました。これはかなり強力でした。紙鉄砲、スギ鉄砲、水鉄砲などいろいろありました。全部自分で作って、よく飛び、よく当たるように工夫しました。ヤスも自作でした。自転車屋からスポークをもらってきて、よく研いで、それを竹にゴムで留めて、ドンコやハヤなどを突きました。
 ホタル狩りもよくしました。また麦わらで編んでホタル籠(かご)も作りました。昔はこの辺り一帯、麦を作っていました。とったホタルを麦わらの中に入れて光らしたりしました。ホタルをとる道具も麦わらで作っていました。また麦わらで風車を作って走って遊びました。それから輪回しをしました。竹の輪を作って回したり、桶(おけ)のタガをはずして回す競争をしました。又になった木の枝の具合の良い物を切ってきて、それで輪を回すのです。後に自転車のリムや針金製の桶のタガを使いました。針金製の輪が一番良く回ったように思います。
 川ではエビとり・ハヤとりなどもよくしました。ハヤ瓶(びん)には長い瓶と丸い瓶もあり、どちらもうまく浸けると沢山とれました。それが農薬のせいですっかり姿を消してしまいました。昭和30年代に入ると、農薬散布のときに赤い旗が立つと川での水泳禁止となり、だんだん窮屈になって来ました。小学生もウナギは地獄でよくとりました。ミミズをとって浸けるとよく入りました。カニは蚕(かいこ)のさなぎでよく釣りました。釣り上げても離せば落ちるのですが、離さないものですから、子どもの獲物になったのです。アセチレンガスで夜川(よかわ)(夜の川漁)にも度々行きました。川は子どもにも大人にも遊びの場であり、生活の場でもありました。田ウナギもよくとりました。田植えが終わると川からウナギが田へ上がって来たものです。それを手でつかんでとりました。また『濁りすくい』といって、大水が出たときの魚すくいも痛快でした。大水のときは魚が急流から水のよどんだ所に避難するので、そこに柄の長い大きな網を入れると一網打尽にとれるのです。ただ水かさが増していて危険なので、必ず大人に連れて行ってもらいました。吉野(よしの)の沈下橋の辺りではよくとれたものです。
 子どもだけで筏(いかだ)を作ったのも良い思い出です。子ども5~6人で鋸(のこぎり)、柄鎌(えがま)、荒縄などを用意します。柄鎌が使えないような者は、役に立ちません。まずモウソウチクを20本くらい4~5mの長さに切って二段に重ねます。幅は1.5mくらいで縄や葛(かずら)でしっかり締め付けて縛りました。縄より葛の方が締め付けも良く、丈夫でした。学校では禁止されていましたが、作り上げて進水させ、流れに乗り出したときの爽快(そうかい)な気持ちは今でも忘れられません。そして筏を隠すのもいろいろ工夫がいりました。うまく隠し繋(つな)いでないと、水が出たときに流されて、下流の奴(やつ)に取られたらそれまでなのです。水遊びはさまざまで、また一日中でした。朝起きて川へ行って、昼食べに帰って、また川へ行って晩まで、唇が紫色になるまで遊んでいました。今でも目黒では子どもの川遊びの姿が見かけられます。
 釣り竿なども自分で作っていました。釣り針とテグスは買いましたが、これならという良い竹を探し、それをあぶって調整し、仕掛けも自分でいろいろ考えて、一番良い竿を作り出そうと真剣でした。また根ぶち(鞭(むち)などに使う竹の根)というのを取って、磨いて学校へ持って行って、見つかっては先生によくしかられたものです。なんでも遊ぶ道具は自分で作っていました。
 冬には次々と股(また)の間に首を入れて馬を作り、それに順に飛び乗って遊びました。体重の重いのが飛んでくるときには、『おおい、だれそれが来るぞ。』と言って首や足腰に力を入れて、身構えたものです。凧(たこ)揚げもよくしました。冬はわらぐろを風よけにして凧を揚げたので、子どもの姿は見えず、凧だけが空に舞っているように見えたものです。またわらと馬の尻尾(しっぽ)で作った仕掛けで小鳥をとったりしました。また立木を曲げて、紐と木の枝を組み合わせて作ったバネ仕掛けの鳥罠(わな)をこぶ手と呼んでいました。トリモチでメジロなどもよくとりました。」

 イ 八朔相撲と亥の子

 「八朔相撲(はっさくずもう)は吉野生(よしのぶ)と延野々(のびのの)で今も行われています。吉野生は小学校の校内の行事に地域がタイアップして行うという形で、土俵も学校にあります。延野々は昔のままの地域の行事として行われており、神社の境内に立派な土俵があります。昔のままの姿が残っているのは滅多(めった)にないのですが、どことも子どもの数が減って、形を変えざるをえないのです。
 延野々の八朔相撲は、イネの豊作を祈願して御嶽(みたけ)神社に奉納する宮相撲なのです。旧の8月1日に行われていました。昔は関取が来て、東西に肥マツを焚(た)いて、夜が白々と明けるまで取組が続いていました。屋台が出て枡(ます)席が組まれ、勝ったら金一封が出ていました。終戦後しだいに素人相撲が廃れ青年団中心になり、さらに昭和30年ころから子ども相撲に変わってきました。
 子ども時代にこの相撲を経験した地域の人みんなが支えて、今も続いているのです。昔と同様に東西に塩も用意し、行司は衣装を身に付けます。賞金はモウソウチクに付けて渡されます。とびつき(5人抜き)も行われますが、5人目は引き分けとされます。これは勝ち負けを決定せずに、翌年に持ち越すためです。またこの1年間に生まれた男の子の土俵入りも行われます。地域の人へのお披露目の意味を持つのです。子どもの数が減り、15年くらい前から女の子も土俵へ上がるようになりました。
 亥の子も冬の行事で楽しみでした。宿に泊まって、餅をついてもらい、またお米など御馳走の材料を持ち寄って、作ってもらって食べました。茶碗(わん)も箸(はし)もみんな持って来るのです。宿の印として、大きいモウソウチクでお亥の子旗を立てました。袋に米を2合半入れてモウソウチクにぶらさげました。そして夜中になるとOB組が押し寄せてきて、ついた餅(もち)を取りに来るので、それを取らさないようにがんばったものです。体力ではかないませんから、文句を言って断固つっぱねたことがありました。それはけんかというほどのことには至りませんでしたが、よその亥の子組とのけんかはありました。小学校6年生が親分で、朝暗いうちから各家をついて回りました。学校へ行く時間までにはつき終わるのです。寒いので大豆殻を燃やしてあたったのを覚えています。亥の子歌も何種類かあり、お寺やお宮では一般家庭とは違うものを歌っていました。御祝儀は先に集めており、お米の場合とかお金の場合もありましたが、帳面を持って行って付けるのです。御祝儀によってつき方も少々違いました。亥の子石をお車に乗せて、運んで行く組もありました。小さい館の中に石を置いて、その前に花などを飾って車で運ぶのです。」

 ウ 松野南小・中学校移転

 「吉野までだった国鉄宇和島(うわじま)線が江川崎(えかわさき)までのび、予土(よど)線となったのが昭和28年(1953年)のことでした。それまでは松丸(まつまる)が材木や薪や炭などの貨物の大集積場でした。和霊様(和霊神社の祭礼)のときは臨時列車が出て、それに鈴なりになってみんな出かけたものです。そのため帰りの峠にさしかかると、機関車が引っ張れなくなって停まってしまい、しばらく蒸気を溜(た)めて、やおら動き出したものです。
 昭和30年代の地域の大きな事柄といえば、合併でお祭り騒ぎをしていたことを思い出します。昭和30年(1955年)に松丸(まつまる)と吉野生(よしのぶ)が一つになり、松野町が発足したのです。またあのころ滑床(なめとこ)へ地蔵(じぞう)峠を越えてバスが入るようになったことも画期的なことでした。それまでは小学校の遠足もずっと歩いていくしかなかったのです。
 目黒では昭和32年(1957年)に新校地に松野南小・中学校の校舎を移築し、祝賀会が盛大に行われました。それ以後順次給食室や技術科教室などの建築やプールの整備など行われたのが大きい出来事です。昭和43年(1968年)にプールが出来るまでは、一ノ瀬(いちのせ)橋付近の目黒川が体育の水泳場でした。建徳寺(けんとくじ)と営林署の土地を合わせた広い日当たりの良い敷地に学校を移転したのです。そして学校のあった所へ、お寺を動かした訳です。御本尊を動かすので、工事にもいろいろ気配りをしたそうです。
 昭和30年と40年(1965年)では様子が大分違います。昭和30年(1955年)ころ中学生は金の卵といわれ、大阪、名古屋へ就職する者が非常に多かったのです。また松野地域でも林道工事などのいろいろな仕事があり、転校生が増えてゆきました。炭坑帰りの子どもや、山の飯場で仕事をする人の子どもや、営林署の官舎の子どもなど小学校は大勢の子どもで、にぎやかなものでした。今、松野南小学校は児童数8人ですが、当時は同級生だけでも50人いたのです。教室の中は子どもで身動きが取れないような状態でした。あまり多いので裁縫室が教室になったこともありました。弟や妹などの小さい子どもを連れて学校へ来る子もいました。30年代には映画館も出来ました。映画がある日は朝からレコードがかかっていました。
 楽しみといえば、ラジオでは『笛吹童子』、『お父さんはお人好し』、『二十の扉』、『のど自慢』などでした。昭和36年(1961年)に広見町(現鬼北町)の泉ケ森(いずみがもり)山頂にテレビ中継所が開局され、テレビが見えるようになりました。町の大きな電気屋とか、旅館とかに曜日を決めて見せてもらいに行きました。今日はこの家、明日はここというふうに学校が決めていました。力道山のプロレスが一番、『むちゃくちゃでござりまする。』の花菱(はなびし)アチャコも人気がありました。当たった家は臨時の集会所のようでした。学校にテレビが入ってからは、学校の近くの者は、宿直の先生の世話で見せてもらいました。『番頭はんと丁稚(でっち)どん』、『てなもんや三度笠、』、『鉄人28号』、『鉄腕アトム』、『世界残酷物語』、『殿様とお姫様』、『あんみつ姫』などいろいろ思い出します。まだアニメや長編物はなかった時代です。昭和39年(1964年)の東京オリンピックからテレビも普及し、それ以外のさまざまな進展が起こり、時代がガラッと変わったと思います。チャンネル権は大体お父さんにありました。子ども向けの番組は夕方6時前後で、それ以後はプロレス、チャンバラ、歌謡番組など大人向けのものでした。」

 エ 飛行機馬鍬(まんが)

 「田植えは村にとってまた家族にとって一年の一大イベントでした。結(ゆ)い(農作業などでの相互扶助)による共同作業でそれぞれ役割がありました。日程が決められ、人数が決められ、その中で、子どもも自分の家を中心に、分担が決められておりました。結い全部を回ることはありませんでしたが、女の子は子守、男の子は苗配りや綱引きが仕事になっていました。小さい子は苗運びや赤ちゃんを乳飲ましに連れて行ったりしていました。綱引きは早乙女(さおとめ)の手元を見ていて、機敏に引かねばなりません。芯(しん)縄に90度にきちんと引っ張るのです。ゆがんだらしかられます。田植えが済むと田休みが楽しみでした。御馳走(ごちそう)を食べ、のんびり一息つくのです。餅(もち)しば取りが子どもの仕事になっていました。しばの葉で餅をくるみ、蒸籠(むしかご)で蒸して、腹一杯食べました。うどん、そうめん、すし、おこわなど各家それぞれの御馳走を作っていました。
 耕運機が出来、トラクターが出来、今では牛もいなくなりました。そういえば、当時牛の餌(えさ)やりは子どもの仕事でした。餌の草刈りにもよく行きました。農繁休業がありました。農家は猫の手も借りたいくらい忙しく子どもはいっぱしの労働力でした。牛に引かせる飛行機という鍬(くわ)に乗せられて、ポンシ(ちゃんちゃんこ)を着てバランスを取りながら、麦畑の二本の畝(うね)作りの手伝いをしました。小学校低学年までの子どもの体重が牛の力と鍬の刃先の深さにうまく合っていたようです。地域によっては飛行機馬鍬(まんが)などとも呼んでいたそうです。麦踏みなども子どもの仕事でした。また麦の黒い穂が出たときは、病気が付いたものなので取ってもよく、それを抜いて麦笛を作り、曲とまではゆきませんでしたが、ピイー、ピイーと鳴らしたものです。買い物、洗濯物の取り入れ、風呂(ふろ)掃除、風呂の水汲(く)み、風呂沸(わ)かし、薪拾い、杉葉拾いなど子どもの仕事は数多くありました。また薪を一人何束とか、お茶を一人何袋とか学校へ納めていました。」

 オ ケンパの思い出

 「女の子の遊びとしては、まりつき、ゴム跳び、ケンパ、お人形ごっこなどいろいろありました。まりつきは、一からのまりつき数え歌を歌いながら、2~3人でつきました。ケンパは、地面に木やロウ石で片足用の丸と両足用の丸を交互に描いておき、平たい小石をできるだけ遠くの丸に投げ入れます。石がうまく入るとそこまで、一つ丸はケンケンで、二つ丸は両足開きで飛んで行きます。こけずに石の所まで行ければ、また前方へ石を投げ、ケンパを続行し、早く最後の丸にたどり着いた子が勝ちなのです。お人形さんごっこは着せ替え人形が流行(はや)っていました。雑誌の付録などに紙の切り絵が付いていて、よく使いました。また姉が作ってくれた人形に、いろいろ着せて遊びました。
 給食が始まったころで、脱脂粉乳や鯨の肉の竜田揚げ、コッペパンなどを思い出します。コッペパンは持って帰って、中をくり抜いて砂糖を入れて食べたこともありました。お節句・4月3日のひな祭りには人形を飾り、豆菓子を食べました。そして重箱に巻きずしや揚巻やかまぼこなど御馳走を入れて、奥田(おくだ)公園の花見に行くのが楽しみでした。線路を歩き、鉄橋を渡って行きました。
 秋のお祭りにはそれぞれの地区の祭り日が違っていたので、親戚(しんせき)を訪ねて御馳走になりました。今は合併でお祭りも統一されて、親戚を訪ねることも減り、少し寂しくなりました。そういえばあのころのお膳(ぜん)は箱膳で、御飯茶碗(ぢゃわん)は最後に茶を飲んで、各自が自分の箱に入れ、主婦の洗いやけの世話はありませんでした。また『おこんま』といって、2時から3時ころに軽い食事をしていました。蒸したサツマイモなどが出ていました。うどんは各家それぞれ手打ちでした。こねたうどん玉を踏むのは子どもの仕事でした。それをお父さんが延べ棒で延ばして薄くして、重ねて細く切り、お母さんが釜(かま)でゆで上げました。カタクリ粉やハッタイ粉には雪砂糖を入れて食べました。
 冬はイモ飴(あめ)が楽しみでした。竈(かまど)にどんどん薪を燃やし、ゆでたイモをつぶしてお湯を加え麦芽を入れて煮詰めて行くとトロッとしたイモ飴が出来ました。夏は近永(ちかなが)からアイスキャンデーを売りに来ていました。自転車に木の冷蔵箱を積んで、カランカランと鐘を鳴らしてやって来ました。3円か5円だったと思います。お金を握って『おっちゃん待って…。』と自転車を追っかけて走ったものです。
 服などは、兄弟姉妹が多かったので、順に上からのお下がりが当たり前でした。ときにお母さんが夜なべでスカートを縫ってくれたりもしました。履き物は上で結ぶトンボ草履をよく履きました。あれは鼻緒がすぐ切れました。それからゴム草履(ぞうり)になり、下駄になりました。男の子は下駄をけんかの道具に使ったりして、しかられていました。はさみでの髪切りやバリカンでの坊主刈りはお父さんがしてくれました。」

写真1-1-14 八朔相撲

写真1-1-14 八朔相撲

北宇和郡松野町延野々。平成18年8月撮影