データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)松山市津和地島

 津和地(つわじ)島は、松山市沖、忽那(くつな)七島の西端に位置し、面積2.8km²の島である。南部に最高点の旗山(はたやま)(155m)があり、忽那水軍が活躍したころ旗印を立てた所という。他の島に比べて水に恵まれ、潮待ち・風待ちによく、幕府の年貢米輸送船や一般商船が寄港して繁栄した。昭和21年(1946年)戸数291、人口1,758人(③)、昭和58年(1983年)は262世帯、人口916人、平成18年(2006年)世帯数206、人口447人であった。
 松山市津和地の老人会役員の**さん(昭和11年生まれ)、**さん(昭和14年生まれ)夫妻、**さん(昭和11年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)、**さん(昭和11年生まれ)、**さん(昭和12年生まれ)、**さん(昭和12年生まれ)に聞いた。

 ア 太平洋戦争終戦前後の子どもの生活

 「私らは男は皆同級生で、終戦の昭和20年(1945年)が小学校の3年生でしたから食べ物はほとんど麦飯とイモでした。丸麦の飯は今思い出しても食べたくないです。しかし、戦争中は都会から疎開して帰ってきていた子もいたぐらいでしたから、それに比べたら食べ物に不自由するということはありませんでした。
 母親に連れられてお墓参りにいって、そのときに供えた団子をお参りしたらすぐ自分の口に運んでいました。とんでもないことでしたが、終戦後、おやつなどない時期ですからしかられるのもほどほどでした。
 履物は『アシナカ』と呼んだ足の半分ぐらいしかないわら草履(ぞうり)で、新しかったら学校ではよく盗られるので名前を書いたり印をつけたりしていました。
 津和地島の港付近の海岸線は、現在のようにコンクリート岸壁ではなく砂浜でした。夏は暑くて寝苦しいし、家は小さかったですから今でいう納涼台のようなものを浜に作って子どもはそこで寝ていました。毎日ではありませんでしたが夜遅くまで仲間で話をしたりしていました。浜にはいくつもの台が夏になると作られていました。木の柱で作ってむしろで囲って板を張り巡らせたりして、太平洋の島々にある高床式の家のようになっていました。
 水はある程度ありましたが共同井戸が大部分で、風呂(ふろ)の水汲(く)みは子どもの仕事としている家が多くあったと思います。燃料の薪(まき)とりはあまり記憶にありませんが、学校でスクズ(松葉)をとりに行って売りに行ったことがあります。半農半漁の島で、大人たちは朝早くから夜遅くまで働きますから、子どもたちのこのような行為が少しは役に立っていたのかもしれません。松ぼっくりも売りに行ったことがあります。燃料として必要だったのです。
 島の西側平地に多くの畑があり、そこでイモや麦を作っていました。現在のように道路がありませんでしたから船でその畑まで行っていました。そのとき子どもは畑仕事をせずに船で魚釣りをよくしました。ギゾやイワシは面白いように釣れました。それが家で食卓に並ぶわけです。それが子どもの家の手伝いでもありました。
 正月はお年玉をもらいに知っている家に、朝早くおめでとうございますといって年始のあいさつに行っていました。早朝から小学校3、4年生ぐらいまでの男の子が晴れ着姿で近所の家や、親戚(しんせき)の挨拶(あいさつ)回りをするのです。それぞれの家庭では、元旦早々男の子の来訪は縁起がよいということで祝儀袋にお年玉を入れて渡してくれていました。小遣いをもらえる楽しみがありましたから待ち遠しかったです。
 節句には旗を作って山に簡単な陣地小屋を作り、そこで親に作ってもらった弁当を食べていました。旗には自分たちの名前を書いて掲げていました。他の仲間が別の地域に陣地を作っていたりしましたので、その連中と敵味方に分かれてチャンバラごっこや松笠合戦などをしたこともあります。弁当の中身は、卵があったり巻き寿司があったりで節句の陣地作りは弁当目当てでした。陣地の小屋は木の上に作るなど簡単なものでした。
 イモ掘りのときは、掘ったイモを一つ一つに分けるのが子どもの仕事で、傷つけると保存が利かないから掘らせてもらえませんでした。掘ったイモは家の床下のイモつぼで保存していました。ほとんどの家にあったと思います。太平洋戦争中は家財道具はイモつぼに避難させていました。
 イワシ網もありましたが、夏にイワシ網に行かない家は、子どもを船に乗せてイワシを釣りに行きました。一本の釣り糸に30本から35本の針がついていて、それぞれの針に小さい白い糸のようなものが疑似餌(ぎじえ)になり、20匹ぐらい一度に釣れます。子どもではよう上げませんから大人が上げて外す、その繰り返しです。ほとんどの家にその道具はありました。イワシ道具と言っていました。釣り上げたイワシは釜揚げして乾燥し(写真1-2-4参照)、『釣りいりこ』として販売されていたこともあります。現在でも、この津和地島では昔と同じ様な釣りの風景が毎年のように見られます。」

 イ 子ども神輿

 「行事で思い出に残っているのは、子ども神輿(みこし)があった秋の祭りで、現在は10月の第一土曜日ですが、以前は9月28日から3日間ありました。1日目に大人のこぎ船競争があり、その勝敗をめぐって翌日だんじりの激しい鉢合わせがあり子ども心に怖かった思い出があります。こぎ船の競争は昭和28年(1953年)になくなりました。この時代には櫓(ろ)舟が少なくなっていたのだと思います。
 神輿が出て、御馳走(ごちそう)が食べられて子どもにとって待ち遠しいものでした。子どもも大人も祭りの二日目には神輿について提灯(ちょうちん)を持って夜遅くまでお供について行っていました。特に女の子は一年で唯一着物を着ることのできる日でした。一日目、二日目と違う着物を着せてもらって行列についていきました。まだ暑い時期ですから一重の着物でした。
 子どもたちの多くは八幡神社から出る子ども神輿を担ぎますが、低学年の子どもはだんじりに乗って太鼓をたたいていました。
 お祭りに際して、大きな提灯を子どもたちが責任を持って中通りの要所要所につります。提灯つりは高等科の1年、2年生(現在の中学校1年、2年生)でした。そのときにロウソク代といっていくばくかの謝礼が子どもたちに渡されていました。それが子どもたちの小遣いになるのです。
 だんじりが4台あり、新地(しんち)と東組(ひがしぐみ)が一緒で、中村(なかむら)組、上南(じょうみなみ)組、南組の地区から出ていて、子ども神輿は1台出ていました。大人の神輿は一日目に八幡様の神輿を白装束に身を固めた人に担がれて出て、二日目には三島様の神輿が出ます。子ども神輿は二日目だけ出ていました。現在は津和地小学校も全校で11人ですから、子ども神輿は台車に乗せて親が引っ張っています。」

 ウ 陣取りに夢中になって

 「子ども時代の遊びで思い出に残っているものは沢山ありますが、松笠(まつかさ)合戦、ネンガラ、陣取り、8の字遊びなどがあります。
 松笠合戦は、昔は海岸から山にかけて多くの松の木がありましたから、その松笠を取ってきて、両方に分かれて投げあいをするんです。雪合戦の松笠版です。笠が開いている松笠なら当たってもあまり痛くありませんが、まだ青い実を投げる者がいて痛い思いをしたことがあります。
 それからネンガラは冬の遊びで特に思い出があります。木の根元を30cmか40cmに切り、先を尖(とが)らせて作っていました。道路や八幡神社や広場でやりました。私たちはほとんど木でしたが、私らより下の昭和30年前後が子ども時代の年齢の者は釘(くぎ)だと思います。跳ね返りで顔にけがした者もいたほどですから荒っぽい遊びでした。
 冬の遊びでしたが、陣取りといって荒っぽい遊びがありました。他所(よそ)で陣取りという遊びがあるそうですが、それとは全然ちがいます。これは他所では輪回しなどという遊びの一種だと思います。
 これは二組に分かれて、区画を決めて、両軍に陣を守るサッカーのキーパーの役割をする人がいます。他のものが輪を回して相手の陣に攻め込みます。キーパーはその輪を回す棒や輪で払いのけます。途中で輪が倒れればその人は死に、そのゲームに参加できません。鉄の輪で相手の陣を攻めるのですから大変です。キーパーの頭の上に跳ね上げて陣を攻める者もいました。現在のサッカーと同じです。今あの遊びをしていたら親はびっくりすると思います。5人対5人ぐらいが多かったと思います。場所は学校や神社で、中通りの道路(写真1-2-6参照)は電柱と電柱の間でしていました。輪は桶(おけ)の竹の輪の時代もありましたが鉄筋の少し細いもので鍛冶(かじ)屋さんに作ってもらっていました。この遊びは男の子を夢中にさせる遊びでした。
 夏は泳ぎに行ってサザエなどを潜ってとることが楽しみでもありました。あのころは何ぼでもとれていました。春先の大潮のときは砂の中からオコゼ、ギゾなど飛び出ていました。磯でいくらでも子どもが貝や魚をとることが出来ました。今は護岸工事をしていますから浜がなくなりました。昔の櫓(ろ)舟ですが、船の底を潜る競争をしました。船を横切って潜るのは普通ですが、縦に潜るのは特定のものしか潜ることが出来ませんでした。」

写真1-2-4 釣りいわしの乾燥

写真1-2-4 釣りいわしの乾燥

松山市津和地。平成18年8月撮影

写真1-2-6 子どもの遊び場 中通り

写真1-2-6 子どもの遊び場 中通り

松山市津和地。平成18年8月撮影