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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)今治市桜井

 桜井(さくらい)は、今治市の南東部を総称する地名である。近世の桜井村は、はじめは松山藩、後に幕領に属し、漆器の生産や椀(わん)船(今治市桜井に発祥した漆器行商船)の行商で知られた。また全国の月賦販売業発祥の地でもある。藩政時代から大正期にかけて、農閑期に船を利用して九州方面へ桜井漆器等の割賦販売(椀船行商)が行われ、大正期以後は、九州・京阪神・京浜地方で家具・衣料などの月賦販売に従事するものが続出し、志島ケ原(ししまがはら)に「月賦販売発祥の地」の碑がある。昭和30年(1955年)今治市に合併した。農業や漁業のほか商工業も活発で、桜井海岸や志島ケ原は景勝地として知られている(①)。
 桜井地区の**さん(大正11年生まれ)、**さん(昭和4年生まれ)、**さん(昭和10年生まれ)、**さん(昭和7年生まれ)、**さん(昭和12年生まれ)、**さん(昭和17年生まれ)、**(昭和17年生まれ)に話を聞いた。

 ア 心待ちの行事

 「私たちの子どものころは、一年でいろいろな心待ちにしていた行事がありました。それが遊びでもありました。
 太平洋戦争の前後ですが正月の遊びといえば、トウド(トンド)さんがありました。これは子どもが各家庭から正月のお飾りを集めてくるのです。それを、海岸で燃やしていました。そして子どもたちは自分ところのお餅を二つ三つ握って持ってきて竹にさしてその火にかざして焼いて食べていました。これが子どもの待ち遠しい正月の戸外での遊びであり行事でした。これを食べたら風邪を引かないといっていました。また書初めの書きたおし(練習に書いた習字)なども全部持っていって燃やしていました。
 春には、4月3日のひな節句がありました。親に弁当を作ってもらって、近くの丸山と呼ぶ30mぐらいの高さの山に行っていました。これを『なぐさみに行く』と言っていました。子どもたちはこの日に御馳走(ごちそう)が食べられるので楽しみでした。唐子山(からこやま)のすそ野が東に延びていて、その一部だったと思いますが、現在の伊予銀行桜井支店の近くまでありました。そのすそ野が非常に広くて山土をとるところになっていました。そこを通称『カギヤ』と呼んでいました。これは土をかいでとるところからきています。土をあちらこちらでとっていますから、そこに窪地がたくさん出来ていました。そこで子どもたちは思い思いに陣地を作って戦争ごっこをしていました。この『なぐさみ』のときは特にこの遊びをしました。男の子も女の子も一緒に遊び、丸山には私たちの思い出が多く詰まっています。その場所は、現在削られて道路になり、なくなっていてさびしい限りです。
 5月5日には綱敷(つなしき)天満宮の春の大祭が楽しみでした。露天商などもたくさん店開きをしていて、昭和10年前後は10銭もらって、戦後は10円、20円を握ってお祭りに行きました。お祭りに志島ヶ原の広場で競馬、オートバイレース(昭和初期)があって、昭和10年代の一時期と戦後は野球大会が盛んになっていきました。それを見に行くのも楽しみでした。」
 **さんは「昭和22年(1947年)、教師として桜井中学校に赴任したときに、戦前桜井地区で野球が盛んであったのを思い出し、生徒たちと一緒に野球の道具を集めることからはじめて、桜井中学校で野球部を作った思い出があります。」と語る。
 「7月には宮島さんがありました。7歳までの男の子のお祝いです。桜井の海岸に住んでいる子どものいる家はほとんど実施しています。わら舟(口絵参照)を作って海に流していました。長さ1m前後のわら舟を作り、帆を張ってそこに子どもの名前を書いて海に流します。中には大人が沖まで泳いで押していったり、船で引っ張ったりします。旧暦の6月17日です。今でこそしませんが私たちの子どものころは、わら舟をつないでその上に子どもを乗せて親船で引いていました。今このようなことをすると危険だといって反対されるでしょう。わらを手に入れるのが難しいですから、早くから農家の方にお願いして取り寄せます。この行事が残っているのはこの辺りでは桜井地区だけではないでしょうか。子どもも楽しみにしていますし皆さん一生懸命です。
 戦前のことですが、学校の夏休みには、昭和の前半に子どもの自治会が各町内にできて、その自治会活動が花形でした。雑誌『少年倶楽部(くらぶ)』に「村の少年団」という連載がありました。この影響を受けて、各町内に「村の少年団」のようなものが出来たらということで、高等科の生徒が世話役で各町内ごとに子どもだけの自治会を作ったのです。きっかけは雑誌の影響を受けているものの、子どもたちの純粋な気持ちで出来たと思います。夕方になれば子どもが出て、町内を掃除します。ほこりが立つといけないから水をまくのに漆器屋さんが漆桶(うるしおけ)を貸してくれたり、金物屋さんが漆桶をぶら下げる針金を出してくれたりしてほうき組、バケツ組などに分かれて清掃があり、出席までとってやっていたことがありました。町内の人が非常に協力的で、昭和5年(1930年)ころから16年(1941年)ころまであり子どもが自主的にやっていました。」
 **さんは「戦後の子ども会は、各地区の大人の世話役が中心になって出来たもので戦前の子ども自治会は、子どもだけでの組織で少し違っていました。しかし戦後のこういった活動が愛護班への結成へとつながっていったのでは。」と語る。
 さらに行事について話が次のように続く。「マンドがありました。これは盆の迎え火だったと思いますが、麦わらを束にして火を付けて子どもが家の前の川の流域を走り回っていました。他の地区の連中と出会ったらけんかしていたこともありました。送り火もありましたから二回はありました。火をつけたわらを持って走り回るのですから、今だったらさせてくれないでしょう。地域によって違っていましたが、子どもが中心になって唐子山(からこやま)で大々的に実施する地域もあれば、海岸の漁師町では浜でマンドを実施する地区もありました。」
 今治市玉川(たまがわ)町、今治市朝倉(あさくら)や周桑(しゅうそう)(現西条(さいじょう)市西部)地方を中心に、盆行事の迎え火・送り火が子ども組の行事となって大規模化し、火を振り回す火祭が見られた(⑤)ようである。
 「8月22、23日に地蔵盆がありました。これは各地区にお地蔵さんがあり、そのお地蔵さんは、子どもたちが世話しなさいと言われていました。桜井では江戸期から西国三十三観音の信仰が強く、桜井に三十三観音をまねた地蔵も作られました。そのようなお地蔵さんをお盆に地蔵盆として子どもが幕を張ったり掃除をしたりしてお祀(まつ)りをします。子どもたちは、各家に寄付を集めにいってお菓子を買って、大人が線香を持ってお参りに行くとそのお菓子を少しずつお参りにきた人に渡していました。
 9月9日、10日にえびす祭りがありました。漁業者だけのえびす様の祭りがあり子どもが担ぐ、えびすを乗せた神輿がありました。漁業集落の窪(くぼ)と浜(はま)のえびすが2台あり、窪のえびすは泥えびすだといって浜の連中は自分たちがえびすの本家といって窪の連中をからかっていました。えびす様を台の上に乗せて子どもが担いで行きます。えびす様を置いている台が動くようにしてあって2人か4人がかいていましたが、担いで動くたびにカタカタ音がしていました。新造船を作った家が宿になり、えびす祭りのときには宿がえびすを飾って置いていました。子どもがそれを宿まで取りに行って担いで回って、世話役の人が各家庭からおさい銭をもらっていました。浜の子どもが中心でしたが、町の子どもも参加できました。4人ぐらいで担ぐことができるものでしたが、その後に大勢の子どもが一緒に回っていました。最後の日は参加した子どもにお菓子を宿の人からもらっていました。これがあるので子どもたちは2日間勇んで行っていました。
 11月には亥の子がありましたが、浜地区では亥の子のことを、『ごうりんさん』と言っていました。石があるのを知っているぐらいで、亥の子については思い出がありません。」
 同じ桜井地区に住む三谷道義さんは、わらの亥の子であったという。三谷さんは亥の子について次のように語る。
 「小学校の低学年の一時期ですが、わらで亥の子をしていました。わら亥の子を持っていって各家の前でつくわけです。そうするとモミのついた米を各家庭でくれました。それを精米に持っていってお金に換えてお菓子を買ったりしたのを覚えています。モミをくれるのが少ない家にはまた夜遅く行って嫌がらせで雨戸をたたいたりして、よく怒られたものです。」

 イ 子どもの遊びと家の手伝い

 「太平洋戦争後の遊びは、男の子は天神さんが広く(写真1-2-10参照)、砂浜まで続いていましたから1年中砂浜で三角ベースでした。バット、グローブ、ボールすべて手作りです。7月から9月は海が遊び場です。海ではアサリ、ハマグリ、小魚などよくとれていました。また子どもがバカ貝の身を出す仕事をして賃をもらっていたこともあります。
 親の手伝いは漁師の家では漁そのものは手伝うことはありませんが、御飯を炊(た)いたり、弟、妹の子守をします。兄弟が多かったですから弟や妹を連れて泳ぎにいって親にしかられたことがあります。子どもを船に寝かせて置いて、自分は泳いで遊んで、家に帰ると弟や妹の顔が真っ赤に日焼けしていたことがありました。ですから浜で泳いでいたことがすぐばれていました。
 子どものころは、燃料は木が中心でしたから、海岸の松の落ち葉とりや、山へ薪(まき)とりにはよく行きました。この辺では松葉の枯れたのをスクズといい、天満宮には松がたくさんありましたが、子どもたちが毎日のようにとりにきますからいつもきれいでした。風でも吹いたらよく落ちているので、遅く行くと皆にとられますから朝の2時、3時ころに起きて行っていました。
 漁業集落は海岸に沿って東から浜(はま)、中条(なかじょう)、窪(くぼ)とありました。その内陸の南側に漆器の製造の職人さんや商店があり、それから南は空(そら)と呼んでいました。子どもは漁師の子どもも、漆器関係の子どもも一緒に遊んでいました。遊ぶのは浜へ集まれとガキ大将が言えば皆が浜に集まっていました。隣の町へけんかを吹っかけに行くこともありました。
 ジャッコンコンペという遊びがありましたが、それはパッチンに戦争前は陸軍や海軍の階級別の絵を書いた種類のものがあり、それを裏返しに何枚か並べて、それに皆が思い思いに賭(か)けるのです。大人の博打(ばくち)のまねです。1銭賭けたり、飴(あめ)を賭けたりして一番階級の高い絵に賭けたものがすべてをとっていました。これは1年中でした。
 女の子の遊びでしたが小さい男の子も入れてしていた、『子買(こおか)お』という遊びがありました。『子買お、子買お、で何するの、子買おしようや』といっていました。これは子どもたちが両方に分かれて、あの子が欲しい、といって両方でじゃんけんする花いちもんめとおなじような遊びです。」
 
   『日本民俗大辞典』によると「子買(こか)おは、子もらい遊びの一種。子もらい遊びとしては、花いちもんめが一般
   に広く知られているが、子買(こか)おはより古い型で『嬉遊笑覧』(1830年)によれば、その起源は〔子をとろ子と
   ろという鬼ごとは、和州天の川弁財天の祭式にありなむ〕とある。子買おの遊び型を見ると、一人が鬼となり他方に
   親を先頭として複数の子がその後に並び親と鬼の掛け合い唄による問答で鬼が子をとるものと、花いちもんめのよう
   に二手に分かれ歌詞の問答によって互いに相手の子をもらうという二つの形があり、後者は前者より派生したとも考
   えられている。(⑥)」
 
 綱敷天満宮の境内で縁台将棋を楽しんでいた**さん、**さんに聞いた。
 「ダブリッキンという遊びがありました。ダブリッキンはビー玉遊び全体のことをいいます。その中でもビー玉を一定の位置にまとめておいておいて、遠くから同じビー玉で弾き飛ばす遊びが印象的でした。」同じく縁台将棋をしていた昭和20年生まれ、大正15年生まれの方もダブリッキンはよくしたと語る。
 「パッチン(口絵参照)やビッチョコもよくしました。ビッチョコは、釘(くぎ)をとがらして相手の釘を倒したり、線を引いて相手を囲んだりする釘遊びです。他の地域ではネンガリなどと言うようですが、木でやるビッチョコなど知りません。五寸(約15cm)釘がほとんどでした。将棋も縁台で大人がしているのを見て覚えました。」

  ウ 昭和7年ころの桜井の子ども

 『桜井小学校百年史』によると昭和7年ころの家事手伝いや遊びの様子を次のように記している。
 
   「子どもたちの生活にも貧しさが一杯であった。学校で使う教科書(国語読本巻一9銭、巻六22銭)(修身書巻一
   5銭、巻六10銭)(国史上巻14銭、下巻15銭)も古本を使う児童が多かった。小遣いの1銭を口に出すことは、余
   程のとき以外はなかった。お祭りの時は5銭から10銭もらえば最高の喜びであった。だから、手伝いの代償としても
   らうことが一番の得策であることを、身をもって知っていた。また、その1銭の価値もよく知っていた。
    家の貧しさを助けるためによく働いた。農家では、男の子は牛の世話、草刈り、風呂の仕度、田畑作業の手伝い、女
   の子は、子守、留守番、夕食の準備など。町の子も、掃除、使い走り、子守、薪(まき)集めなど、出来る限りの仕事が
   学校から帰ってくる子どもを待ち受けていた。
    〝むしいも-さつまいも〟を空腹につめこんで働いた。それよりも辛いのは、学校から帰っても、家が狭くて居場
   所がない。夜業に備えて寝ている父親、内職の品物を家一杯に置いて働いている母親、その仕事の邪魔にならないよう、
   小さい妹や弟を連れて外で遊ぶことであった。皆で集まって、お金のいらない遊び方を身につけた。
    ケンケン遊び(女ケンケン・男ケンケン)、輪廻し(自転車のリムを廻す)、縄跳び、一段二段、かくれんぼ、てんう
   ち(手打ち野球)、1銭野球、バッタうち(バットを使用する)、お手玉(はぎれを縫い合わせて女の子)、石なご(石
   灰岩の白い石を玉にして)、ビッチョコ(釘を立てる)、ときどきには、小遣いにもらった1銭、2銭を持って駄菓子屋
   さんに行く。キャラメルくじ、甘納豆くじ、いかのくじなど富くじ式の食べ物を買ったり、パッチン(面子)、ラムネ玉
   (ダブリッキン)を買っては、勝負遊びに熱中した。そして、お正月、節句、お盆、お祭、その他の年中行事『亥の子』
   などを心待ちにしていた。お年玉や小遣い銭がもらえるから、そして、普段とちがった御馳走が腹いっぱい食べられるか
   ら、『もういくつ寝るとお正月』と指折り数える気持ちは、このころの子どもみんなの共通した願いを表した歌であっ
   た。そんな日々の生活の中に芽生えてくるのが、自分の将来にかける夢であった。昭和5年から少年倶楽部に〝のらくろ
   2等兵〟の漫画が連載された。日本中の小学生の間に、爆発的な人気を得たのは、“のらくろ”が子ども自身の姿であった
   からでしょう。中略…長い軍用列車が今治の方から走ってきた。私たちは、道に並んで、手を振って見送った。汽車の窓
   も、デッキも、カーキ色の軍服で一杯であったのが目に残っている。私たちの遊びも、少しづつ変ってきた。竹鉄砲を作
   り紙玉を鳴らして戦争ごっこをするようになった。(④)」とある。

写真1-2-10 綱敷天満宮境内

写真1-2-10 綱敷天満宮境内

今治市桜井。平成18年7月撮影