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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)子どもたちの見た戦中・戦後

 ア 戦火を逃れて

 **さんは戦時中について、次のように話す。
 「常盤(ときわ)小学校で朝礼をしていたら米軍機が機銃掃射をしてきたので、必死で逃げたのを覚えています。昭和20年(1945年)8月5日の大空襲のときは、夜いったん出た警報が解除になったので、防空壕(ごう)から出て家で寝ることになりましたが、寝入るころに、『飛行機!』という声がして、あわてて家から飛び出たとき、家の2階は火に包まれれていました。焼夷弾(しょういだん)を落とされたのでした。ひたすら逃げましたが、火の粉が飛んできて防空頭巾(ずきん)も髪の毛も焼けました。親からは常々、何かのときには日高(ひだか)(今治の西部郊外)の圓照寺(えんしょうじ)に疎開するように言われており、川沿いに日高に向けて歩きました。途中四つ角があり、姫坂(ひめさか)さん(姫坂神社)・北高(今治北高等学校)方面へ行く人も大勢いましたが、うちの家族は川沿いの道を日高方面に進みました。姫坂さんの方に逃げた人は大勢死んだといいます。まさに家族にとって、運命の分かれ道でした(この時の空襲で市街地の大半が焼失し、死者は454名にのぼった(②))。」
  
 イ 緑陰教室

 美須賀(みすか)小学校は戦災で全校舎が焼失したため、戦後しばらく唯一戦災を免れた日吉(ひよし)小学校の校舎を借用した。講堂には戦災で焼失した市役所が入り業務を始めたし、市内の他の小学校の児童も、日吉小学校の校舎を使い、午前と午後の2部制で交替授業をした(午前は美須賀、別宮(べっく)、午後は日吉、常盤小学校が使用した(③)。すし詰め状態の教室では、一つのイスに3、4人座り、100人近いクラスもあったという(④))。昭和21年の夏から美須賀小学校は天保山(てんぽうざん)のもと被服廠(ひふくしょう)(戦時中軍服を生産。幅7間、長さ100間の建物があった。)を仮校舎とするが、**さんはここで入学式をした。被服廠の中を板で仕切り、机やいすを入れて教室を作ったが、それでも足りないため、今治小学校の校舎を1学期だけ間借りした。屋外で授業をすることもあったが、先生は「今日は緑陰(りょくいん)教室で授業をする」と言った。松の木の下での青空教室を「緑陰教室」とは先生もうまいこと言ったもんだと**さんは感心する。昭和23年(1948年)、美須賀小学校に新校舎が建ち、天保山から移転することになった。
 **さんが小学生のころ(昭和30年ころ)になっても教室は足りず、1週間は午前中授業、次の週は午後授業といった具合で、午後から授業の日は朝寝ができるのでうれしかったという。城東小学校が新設されたのもこのころである(昭和31年)。戦後のベビーブームで子どもが街にあふれていた時代であった(美須賀小学校児童数:昭和30年度1,469名、平成18年度93名)。

 ウ 物のない時代

 **さんは「私が子どものころは食糧難の時代で、イモが主食のようでした。焼け跡でイモを作るとよく育ち、たくさんとれました。『農林一号』というイモをよく蒸して食べました。」と話す。
 **さんは「日吉小学校の給食は、脱脂粉乳のミルクとおいしくない麺(めん)類が出たのを覚えています。家が近かったので食べに帰っていた時期もありました。」と話す。
 **さんは「私が天保山の被服廠仮校舎に通っていた時代は、服も靴も年間クラスに五つくらいしか配給されず、サイズも選べませんでした。くじ引きで配給される子を決めましたが、せっかく当てて帰ってもサイズが合わず、全部兄にとられました。給食はふだん脱脂粉乳のミルクと肝油が2粒くらいでしたが、たまに出たパイナップルの汁が美味しかったのが忘れられません。当時は焼夷弾のふたが辰(たつ)の口(くち)公園に転がっており、これを使って缶けりや缶々げたでよく遊びました。六角形で7、8センチくらいの小さなものでしたが、缶けりに丁度よい大きさでした。」と語る。