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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)子どもの遊び場

 「辰の口公園は、戦前入口付近に交番と半鐘台があり、入って右手に庭園、左手に神社がありました。戦後、神社や池はなくなりましたが、子どもの遊び場としてにぎわいました。滑り台やブランコなどの遊具がありましたが、子どもたちは缶けり、三角ベース、チンチン(こま)独楽、パッチンなどで遊びました。公園前の道路でも遊びましたが、公園前の駄菓子屋『金市(きんいち)』が子どものたまり場でした。辰の口公園では、本町(ほんまち)の子がよく遊んでいましたが、港務所前の公園では新町(しんまち)、中浜町(なかはままち)、片原町(かたはらまち)の子が集まり、三角ベースで遊びました。柔らかいボールと竹のバットを使い、素手でやりました。吹揚(ふきあげ)公園(今治城)は、当時石垣と神社しかなくだれでも入れました。遊具はなかったのですが、虫とりをしたりスギ鉄砲などで遊びました。石垣の洞窟(どうくつ)に入ったり、登ったりもしましたが、女の子はあまりここには来ませんでした。堀の水は海水で、アムナ(イソニナ)やズガニ(モクズガニ)がたくさんとれました。アムナは小さな細長い巻貝で、塩ゆでした後、針でふたのところを刺して身を引っ張り出し、おやつ代わりに食べました。
 天保山海水浴場は、昭和48年(1973年)に埋め立てられましたが、それまでは子どもたちでにぎわいました。当時の男の子は、黒い色をした三角形の簡単なふんどしで泳ぎましたが、少しお金がある子は六尺ふんどしでした。ここではジュウマン(ハギの稚魚)やドンコ(ハゼ)もとりました。ソラマメを袋に入れ腰につけて泳いでいると、海水の塩味がつき、適度にふやけておいしくなりました。
 金星(きんせい)川は商店街のすぐ横を流れる川で、今治城の一番外の堀にあたります。海に近く、満潮のときは海水が入ってきて深くなるため、辰の口公園の近くにあった石橋から飛び込んで泳ぎました。引き潮になると、泉川(いずみがわ)あたりの染物工場の排水が流れてくるため、川の色が変わり(赤、青など毎日色が変わっていた)泳げません。昭和30年代になると工場の廃液でますます川が汚れたため、泳ぐことはなくなりました。川がきれいなころは、ハゼを釣ったりカニやウナギがとれました。
 当時は街のあちこちに空き地があり、子どもの遊び場になりました。日吉小学校のすぐ裏にあった東洋紡績第1工場跡(昭和33年閉鎖)は塀に囲まれていましたが、広い空き地となっており、子どもの遊び場でした。片原町の福田酸素横の空き地(現在の日本海事協会ビル)では、子どもが掘っ立て小屋を建て、犬を飼っていました。小屋の材料となる木は、製材所から取ってきました。製材所の材木置き場ではよく遊んだし、おがくずにわいたカブトムシやクワガタムシもとれました。伊予銀行の2階には卓球台があり、子どもにも時々使わせてくれました。水上警察前の今治港でも、泳いだり貸しボートに乗ったりして遊びました。
 森見(もりみ)公園(野球グラウンド)や東洋紡績跡の広場、辰の口公園には、サーカスや相撲、ボクシングが来ました。会場は丸太を組んでシートを張りめぐらせ、入れないようにしていましたが、子どもは隙間(すきま)からもぐりこんで見ました。」
 **さんの時代の子どもは、自転車を持っていなかったが、**さんのころは持っており、旧玉川(たまがわ)町と今治市の境目にある犬塚池(いぬづかいけ)や旧朝倉(あさくら)村まで遠征して遊んだという。