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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(4)おやつと駄菓子屋

 「当時の駄菓子には、ラムネやミカン水、ニッキ水などがありました。女の子はきれいな色の飴(あめ)をよく買いました。夏になるとチリンチリンと鳴らしながらアイスクリーム屋のおじさんが自転車でやって来ました。アイスは当時5円か10円で、チリンチリンという音がすると小遣いをもらって家を飛び出しました。爆弾ケーキは、風船のようなゴムの中にアイスが入っており、先を切ってちゅうちゅう吸って食べました。『ふじや』によくアイスキャンディーを買いに行きましたが、『大黒屋』や『ミカド食堂』、『マネキ』でもアイスを売っていました。店の入り口にアイスを作る箱がありましたが、当時は冷却用にアンモニアを使っており、匂いがきつかったです。アイスを買った友達に『ちょっとくれや』と言うと、『下をかじれや』とアイスの下の部分を一口かじらせてくれました。
 紙芝居は辰の口公園や交番前の道路にやってきました。拍子木を鳴らして子どもを集め、練り飴を売りますが、飴を5円(昭和20年代)で買わないと見せてもらえませんでした。紙芝居では、型抜きの飴や煎餅(せんべい)で挟んだ飴、味を付けたスルメイカ、冬にはおでんも売っていました。
 『パンパン豆』という米のお菓子は、お米と砂糖を持って行き作ってもらいました。カルメラのお菓子は家で作りました。七輪(しちりん)を使い、お玉にきんざら(金のざらめ:赤砂糖)を入れてお湯に溶かし、ふくらまし粉(重曹)を加え火にかけるとできました。
 祭りのときは商店街の路上に露店がずらっと並び、いろいろなものが買えました。的屋(てきや)も来ましたが、中でも薬売りのおじさんは、面白くて子どもの人気者でした。ヘビにかまれてもこの薬をぬったらすぐ直るとか、包丁で手を切っても薬をぬればこの通り、すぐに血が止まるとか言って売っていました。よく見ようと近づくと、地面に線を引き、この線より近づくなと怒られました。
 辰の口公園前の『金市(きんいち)』には、駄菓子、玩具(がんぐ)のほか、パンも売っていました。街中の子はみんな『金市』に5円か10円持って通いました。『金市』では、生菓子の『当て物』(くじ)をよくやりました。生菓子を割って中から赤いあんこが出てきたら1等賞で、大きな鯛(たい)や鶴(つる)の生菓子をくれました。生菓子の中に赤と青と黒のあんこが入っており、これで当たりはずれがわかりました。」
 駄菓子屋「金市」を営んでおられた**さん(大正14年生まれ)に話を聞いた。
 「駄菓子屋を始めたのは昭和22、23年ころで、昭和30年代になって徐々にボタン等の洋品小物を置くようになり、昭和30年代半ばに駄菓子屋はやめました。戦後夫と一緒にバラックから始めましたが、最初は2間×1.5間の広さで、後に隣を購入して倍の広さになりました。
 最初のころ店に置いたのは、当て物と野球選手のブロマイド、アイスキャンデーです。川上哲治や藤田元司のブロマイドがよく売れました。その後、ダブリッキンやチンチン独楽(こま)などの玩具も置きました。子どもがよくやった当て物は、小さな饅頭(まんじゅう)のような生菓子で、中に色のついたあんこが入っている物です。昭和30年(1955年)ころは、ガラスの容器や箱に入っているお菓子を量り売りしていました。1個50銭、2個で1円というものもあり、10円もあればたいがいのものは買えました。
 店は朝6時から夜12時までやっており、年中無休でした。当時の子どもは朝早く、ラジオ体操の前に買いに来る子もおり、目を覚ましたら、すでに店の前に子どもが集まっていたこともありました。
 おもちゃでは、ゴム動力の飛行機がよく売れました。竹ひごと細い木を骨組みにした飛行機で、紙の羽根をのりづけして自分で組み立てますが、これを辰の口公園でよく飛ばしていました。
 当時街中には、うち以外に駄菓子屋・玩具(がんぐ)店はほとんどなかったので、方々から買いに来ました。色々な子が来ましたが、当て物の生菓子を黙って割り、はずれだったら唾(つば)で引っ付けて元に返す子や万引きする子もおり、もうけているのか損をしているのか分からないようなときもありました。」