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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(2)子どもの遊び場

 萱町の子どもは、城山から西山(にしやま)(現在松山市総合公園のある山)にかけての広い範囲で遊んでいたが、まだ自転車が普及していない時代であったため、全部歩いて遊びに行った。
 「城山の西側斜面には滑って遊ぶのに格好の場所がありました。ズボンのままで地面を滑ったため泥だらけになり、親によくしかられました。当時はみんな継ぎ当てのズボンをはいていました。靴下も母が電球を中に入れて継ぎを当てていました。城山に普通の登山道から上がるのは面白くないので、道のない場所を草や木の枝をかき分け登りました。城山には防空壕(ごう)がたくさん残っていましたが、この中に入るのは気持ちが悪かったです。
 堀には『この堀の魚釣られません。』という魚の形をした立て札がありましたが、みんな魚を釣っていました。フナやコイ、ナマズがいたし、ゲンゴロウやアメンボなどの虫もたくさんいました。当時は堀の石垣も整備されておらず、崩れかけで草が生えていました。堀の水深は浅かったのですが、下に泥が堆積しており、足をとられるため、堀では泳ぎませんでした。
 萱町の子どもがよく遊んでいたのは、阿沼美神社の北の空き地で、『遊び場』と呼ばれました。ここにはシーソー、ジャングルジム、ブランコ、砂場がありました。ラジオ体操もこの広場でやりました。三角ベースでよく遊びましたが、打って道路に出たら2塁打、お宮(阿沼美神社)に入ったらホームラン、お宮の塀の中に入ったらチェンジといったルールがありました。遊び場の周囲は、枕木のような丈夫な杭で囲っていました。一時期これに鉄条網を張っていたことがあり、軟らかいボールが当たると裂けました。ボールは貴重品だったので弱りました。
 かくれんぼ、缶けりは道路(路地)でやりました。隠れる範囲はある程度決まっており、あまり遠くには行きませんでした。当時は車の通行もほとんどなく、萱町商店街の道路が舗装(昭和30年代)されてからは、子どもがローラースケートをする格好の場所になりました。
 阿沼美神社の広い境内では凧(たこ)揚げをやりました。成瀬製材所の材木置き場では、材木を子どもが勝手に移動し陣地を作りましたが、今思えば一番危険な遊び場でした。泳ぐのは松田池(まつだいけ)(現松山大学の御幸グラウンド)でしたが、危ないので学校でよく注意されました。ここで泳ぐと藻が足に絡みつき、子どもがよく溺(おぼ)れました。三島湯の裏の大法寺(だいほうじ)川(宮前(みやまえ)川)にはドジョウやホタルがいっぱいいました。七夕のとき、朝露で習字をしたら字が上手になるといわれ、このあたりに朝露をとりに行きました。」