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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(1)子どもたちの見た戦中・戦後

 「三津の町は戦災に遭いませんでしたが、宮前(みやまえ)川や三本柳の所には爆弾が落ちました。米軍機(グラマン)による機銃掃射は大人も子どもも容赦なく、まるで狩りをするように追いかけてきました。道路でグラマンに襲われ道に伏せていたら、近くの家の人が防空壕(ごう)に入れてくれたこともあります。戦時中各家では簡単な防空壕を掘っていました。小学校の防空壕は、予科練(海軍航空隊予科練習生)が運動場を掘って作り、上はイモ畑にしていました。予科練は大可賀(おおかが)の松山航空隊におり、三津の民家にも分かれて下宿していました。戦後米軍は梅津寺(ばいしんじ)の海岸に上陸してきました(昭和20年10月)。砂浜にバックネットのような網を敷き、軍用車が次々と上陸する様子には本当に驚きました。子どもは米兵に対してあまり恐怖心はなく、チョコレートやガムをよくもらいました。」
 **さんは「旧制中学の入試が終わったころ、道でアメリカ兵と知り合い、友達と2人で進駐軍のキャンプに遊びに行き、チョコレートやクッキーなどをいただきました。そのお礼に家にあった日本人形などを持っていったところ、大変喜ばれ、しばらくキャンプに通ったことがありました。そんなことから中学1年生当時は英語をよく勉強し、成績もよかったです。」と話す。