データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(5)地域の中の子どもたち

 三津の子どもの集団について、**さんは「三津は方々の出身者が集まってできた街で、みんな自我が強く、ヒーローごっこをしても、一人の人間がずっとヒーローをするのではなく、交代で全員がヒーローになって遊びました。子どものときから『おまえじゃない、わしじゃ』といって育ちましたから、三津を一人のガキ大将が仕切るのは難しかったです。周辺地域には、集落ごとにガキ大将がいたように思います。三津は家屋が密集し空き地がなかったので、小集団に分かれ、あちこちの路地で上級生から下級生まで一緒に遊んでいました。三津の街中では集団同士で出くわしてもけんかになることはありませんが、宮前川より東に行くと校区が違うのでけんかになりました。三津浜小学校と宮前小学校は、仲が良くありませんでした。秋祭りのとき、三津(三津校区)と古三津(ふるみつ)(宮前校区)とで神輿(みこし)のけんかをやるからそうなったのかもしれません。子どもにも『なわばり』というものがあり、少人数でよそに出かけるとやられるため、ある程度集団で出かける必要がありました。宮前校区の田園地帯でよくトンボをとりましたが、帰ろうとしたら宮前校区の連中に捕まりトンボを全部とられたこともありました。船ヶ谷(ふながたに)には追いはぎが出るといわれた時代で、よその子のなわばりに入ったらやられるのを覚悟しなければなりませんでした。付属(昭和27年〔1952年〕まで三津にあった女子師範付属小学校)の子とも、山本文具(大正初期創業)の角で待ち伏せしてけんかをしましたが、山本文具のおじさんがよく止めに入りました。けんかといっても、とことんまでやったりはせず、泣いたら終わりで大けがをすることはありませんでした。物でたたいたりするような卑怯(ひきょう)なことはしませんでした。」と話す。
 「三津浜小学校では、昭和22年(1947年)に給食が始まりました。給食は最初のころ、3日に1度くらいでした。給食の献立は、脱脂粉乳のミルクとパン(イモづるで作ったパンか乾パン)で、時にはパイナップルも出ました。その後クジラの竜田揚げなどが出るようになりました。
 学校では戦後、シラミがわくというので頭からDDTをかけられました(シラミが感染源となり発疹(はっしん)チフスが大流行したため、GHQの指示により駆除が行われた)。朝礼で並んでいると前に立っている子の髪から虫が出てくるのが見えました。女の子は家からタオルを持参し、DDTをかけられた頭を覆いました。当時男の子は丸坊主だったのでかけられませんでした。
 昭和22年学制改革により三津浜中学校ができましたが、最初の年は三津浜小学校の校舎を間借りしていました。次の年、宮前小学校敷地内に校舎が完成し移転しましたが、小中学校が一緒に使用していたので手狭でした(三津浜中学校が現在地に完全移転したのは昭和31年)。
 夏休みのラジオ体操は、各町ごとにやりましたが、空き地がない所は道路でやっていました。そろばんは願成寺(がんじょうじ)、習字は正覚寺(しょうかくじ)で教えていました。三津は商売人が多いので、そろばん塾にはみんな行っていました。剣道は小学校の講堂、柔道は西署(松山西警察署)で教えていました。学校から帰ったらみんな家の手伝いをしていました。親は忙しいので路地の掃除は、もっぱら子どもの仕事でした。下に小さな兄弟がいる場合は、子守をしましたが、『おいこ』で背負って子守をしていたら、なかなか遊べませんでした。
 三津には子ども神輿(みこし)が5、6台あり、祭りのときは校区内でも町が違えばけんかをしました。神輿を保管しているのは町内でも有力な人の家です。当時祭りを仕切るのは町の名士で、財力がないと務まりませんでした。子どもは学校から帰ったらすぐ神輿のある家に行き、この家で作ってくれたおにぎりなどを食べ、夜はそこで寝て、朝になると神輿とともに回りました。門回りして稼いだお金は中学生が中心となり、学年に応じてみんなで分けました。分け前を増やすため、提灯(ちょうちん)行列や神輿の門回りはお金をたくさんくれる商家を重点的に回りました。昔は子どもが多かったため、小学校低学年のうちは神輿に触らせてもらえず、提灯も持たせてもらえませんでした。」
 提灯行列は**さんが子どものころ(昭和20年代)は祭りの前の日にやるだけだったが、**さんのころ(昭和40年ころ)になると祭りの数日前(5~7日間くらい)からしていたという。昭和40年代くらいになると大人がいろいろ世話をやくようになり、子どもだけの自治的な組織は崩れていった。
 「亥の子も男の子の楽しみの一つでしたが、昭和40年ころから道路が舗装されたため、徐々になくなりました。亥の子の石も神輿を保管している家にありました。神輿より亥の子のほうが中学生を中心とした子どもの自治が徹底していたように思います。子どもにとっては祭りとともに貴重な収入源でした。亥の子は11月にあり、3番亥の子があるときは火事が多いといわれました。神輿と亥の子は男の子の年中行事で、女の子は触ることもなく、ついて回ることもなかったように思います。」