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えひめ、子どもたちの生活誌(平成18年度)

(3)大道の子ども太鼓台

 大道(おおみち)とは四国中央市(しこくちゅうおうし)金生町(きんせいちょう)の一集落名である。金生町は下分(しもぶん)と山田井(やまだい)地区に区分され、下分はさらに大道、川原田(かわらだ)、春日(かすが)、住吉(すみよし)、通町(とおりちょう)、川関(かわせき)、小山(こやま)の各集落に分かれる。大道の集落は約150戸くらいの規模である。金生町はかつては半農半工といわれるほど製紙業が盛んな所であったが、現在は家内工業の段階を脱して大規模化し、工場は海岸部に移転していった。最近の金生町は勤め人が増加し、専業農家は数えるほどになっている。
 大道の子ども太鼓台について、**さん(昭和5年生まれ)、**さん(昭和21年生まれ)ほか6名の方に話を聞いた。

 ア 子ども太鼓台の歴史

 「大道には戦前から大人の太鼓台がありました。それが戦後間もなくのころ川之江町の太鼓台とけんかになりひどい目に遭わされました。当時は、川之江町の八幡宮の祭りに金生町(当時金生村)から、いわば客分として参加していたという意識もあり、憤慨した大道の人々が中心になって川之江の八幡宮から新しく金生八幡宮を分社したのが、昭和23年(1948年)のことです。もちろん川之江町とは祭りの日も異なってきました。翌年には神事も始まったのですが、大人太鼓台は金糸銀糸ももうぼろぼろで運行は無理になっており、子ども太鼓台ならそんなにお金をかけなくてにぎやかにやれるだろうという提案から、大道で子どもの太鼓台が作られました。最初はありあわせの廃材を利用した手作りの物でした。この辺りでは最初に出来た子ども太鼓台です。その後、子ども太鼓台は徐々に広まっていき、現在(平成18年)では金生町だけで10台を数えます。小山に3台、あと各集落ごとに山田井も含めて1台ずつです。なお、金生町の大人太鼓台は現在2台です。
 お祭りは10月の13、14、15日です。13日は氏参(うじまい)りといって、太鼓台は夕方から金生八幡宮に行って帰って来るだけです。14日は宵祭りで太鼓台は自由に動く日です。普通昼ころから動き始めます。昭和30年代はけんかした名残もあり川之江町までいくことはありませんでしたが、現在はお祭りの日も再び統一され、金生町だけでなく川之江町の方まで出かけたりします。今年(平成18年)はたまたま宵祭りが土曜日ですから、午前9時ころから回ります。15日は神事(じんじ)の日です。この日は神輿のお供をして朝から全部の太鼓台が統一行動で動きます(口絵参照)。」

 イ 子どもが動かす太鼓台

 「子ども太鼓台が大人太鼓台と違う一番大きな点は、子どもが組み立て、子どもが運行し、子どもが解体するものだったということです。子ども太鼓台は完全に子どもたちだけのものだったわけです。子どもというのは小学生から中学校3年生までの子どもです。もう一つの違いは、形は変わりませんが大きさが小さかったことです。
 昭和30年ころの子ども太鼓台は、まだ子どもだけで運行されていました。大人がついてくることもありましたが、たまに手助けしてもらうくらいでした。当時は子どもも同一学年の男子だけで7、8人はいましたので、小学生から中学校3年生までの男子というと相当の人数になり、みんなが協力して太鼓台を運行していました。今は女の子も混じっていますが、昔は男だけで、女の子は触ってもいかんなどといっていました。
 太鼓台の組み立ても子どもたちでやっていました。1週間か10日ほど前から取りかかっていたと思います。太鼓好きの大人が来てくれて指導はしてくれていましたが、子どもたちでできるところは子どもたちでやっていました。今のトンボの中には発泡スチロールが入っています。昔は発泡スチロールはありませんから、かんな屑(くず)を充塡(てん)していました。おが屑では駄目なんです。大工さんの所へ行ってかんな屑をもらって来るときに、木屑も一緒に拾ってくることがあります。これが入ると、形がいびつになったりトンボが破れたりするので、入らないように注意してやっていました。図表2-1-4にみられる頭の部分と胴の部分と台車の部分をそれぞれに組み立てて、最後にその三つを組み合わせます。頭の部分を上に載せたり、三つの部分をロープで止めたり、担(か)き棒を太鼓台にくくりつけるところなどは大人に手伝ってもらっていました。
 運行も子どもたちでやります。一番上のシチジョウの所には2、3人が乗ります。これは棒を持っていて電線や木の枝をよける役割で、みんなが一番やりたい役目でした。太鼓の周りには4人ほどが座ります。実際に叩(たた)くのは一人ですが、交代要員がもう一人くらいは座っています。子ども太鼓には高欄のつけ根のところに座板(ざいた)というのがあって、左右で10人ほどの子どもを乗せます。ここに乗るのはよほど幼い子で、子ども心にここに乗るのは恥ずかしいことと思っていました。
 小学生以上はだいたい太鼓台を担(か)いていました。担くといっても太鼓台には車輪がありますから、実際は押したり引いたりするのです。これを担くといっていました。人数が多いほど長いロープをつけて子どもたちで担いていました。小さい子ほど遠くを持ち、高学年になるほど太鼓台に近い所を引きます。小学校4年生以上くらいになると担(か)き棒に掛かっていました。担き棒の先端で太鼓台の舵(かじ)を取るのも力のある者がつきます。シチジョウの上、太鼓、舵取り、これがあこがれの3役だったわけです。太鼓を叩くにしても黙っていたのでは叩き手にはなれません。朝早く太鼓を叩きにいってアピールし、だれかが『お前、うまいのう』の声が掛かるようにならないといけません。もっともあまり小さい者が先に行って太鼓を叩いていても、後から上級生が来ると譲らないといけないなどの慣習はありました。大きくなるに従ってだんだんにあこがれの持ち場に近づいて行くんです。
 太鼓台は、太鼓の音やかけ声にあわせて動きます。休んでいるときは太鼓の音だけですが次のように打ちます。
   ドンデンドン ドンデンドン ドンデンドンドデドンデン ドンドデドンデン
   ドンドデドンデン ドンデンドン
 ゆっくり進むときはかけ声が入ります。だれかが『ハーリ ワーリ セー コーリ ワーリ セー』とかけ声を掛け、残りの者が『サー ヨーイ ヨーイヨー』といいながら進みます。このかけ声は伊勢音頭の『アレハ伊勢、コレハ伊勢』という言い方が変化したものです。大体は上に乗っている者が『ハーリ ワーリ…』と声を掛け、担いている者が『サー ヨーイ ヨーイヨー』といっていました。このとき太鼓は、ドーン ドーン ドーンです。太鼓の音とかけ声に合わせながらゆっくり進みます。
 早く動くときはかけ声が『チョーエッキ メーエッキ』、受け手が『ヨイサー ヨイサー』と進んでいきます。太鼓はドンデン ドンデン ドンデン ドン ドン。ほかにも何かにひっかかったり、くぼみに入って動かなくなったときは、『ワッカイシュ(若い衆)どしたんぞ。』とか『ワッカイシュやってくれ。』のかけ声で、太鼓の音も異なります。小学生や中学生が『若い衆』もないもんですが、大人太鼓台を真似(まね)ているのです。お花の御礼はまた特別な叩(たた)き方です。最近これらのかけ声が徐々に崩れてきているようで残念です。
 お花は和紙を三角に折って、60~70cmの笹の細い茎にこよりでぶら下げて出してもらっていました。三角の和紙には、『お花』とか『ヒイキ』とかの文字と、お花を出した人の名前が書いてあります。ヒイキと書くのは『花』という字を片かなに分解して表現したものです。お花は運行途中にもらうので、もらったお花を太鼓台にいくつも刺して運行していました。現在はほとんどお金でもらうようになりましたが、会社などではこの風習が残っています。お花をもらったときには、それを受け取った者か近くの者が『ほりゃ、させー』とかけ声を掛けます。そうすると太鼓がドドドドドドドンと打ち鳴らされて太鼓台の担き棒をぎっこんばったんシーソーのように揺らします(写真2-1-21参照)。本来『さす』のは太鼓台を腕で高く差し上げることなのですが、子どもたちですからそれはできません。代わりに担き棒を揺らして喜びを表現するのです。お花で三角の和紙をもらった所には、祭りの後に何日かに分けてお金をもらいに行っていました。おばさんの指示で、子どもたちが回っていく地域を分担してもらいに行くんです。お金をもらうと集会所に帰ってお金をおばさんに渡していました。帰るとお菓子がたくさん積んであって、食べ放題ですし、帰るときには袋に入れて持って帰ったりしていました。年代によってこのやり方は変わっていたらしくて、お花の一部でしょうがお金を分配してもらったり、15日に解体収納が終わった後、カレーライスとジュースぐらいで慰労会をしてもらった者もいました。
 しかし、運行途中のお弁当のときより、打ち上げでカレーライスやお菓子をもらうときより、何よりも太鼓台を運行するのが一番面白かったと思います。祭りの1か月ほど前から、だれかが醤油樽(しょうゆだる)を太鼓に見立てて叩(たた)く練習を始めます。その音を聞くだけで気持ちが浮き立つように思いました。組み立てるとき、塗りの部分を磨いてぴかぴかにするだけで自分たちの太鼓台だとうれしかった記憶があります。よその地区の子どもたちには触らせもしなかったくらいです。大道は大人太鼓台からの古い伝統がありますし、子どものころから祭りのおもしろさを刷り込まれていたのかもしれません。大道の太鼓台は最初から数えると4台目です。4台目は平成6年(1994年)に完成したもので、本体で約2,800万円、後にできた掛け蒲団を合わせると約3,000万円かかりました。太鼓台への出費は惜しまないのです。」

 ウ 現在の様子

 「現在(平成18年度)の子ども太鼓台の大きな変化の一つは、だんだんに豪華になってきたことです。はじめは手作りだった太鼓台も今は部品ごとに各地の専門家に発注し始めましたし、各集落で作りかえるごとに少しでもいいものをと考えるし、集落ごとでも競いますからどんどん豪華になるのです。大きさも大人太鼓台と変わらぬほどの物ができはじめました。また、宵祭りの日に夜太鼓といって、太鼓台の周囲に提灯(ちょうちん)を飾って夜間に運行することが始まり、ますます華やかになってきています。
 問題点もあります。現在は大道の子どもの数が減ってきて小学生以上が20名ほどになりました。乳飲み子まで入れても30名ほどです。この子どもたちの人数で運行することは不可能です。子どもがするのは、シチジョウ(七重)に乗ったり、太鼓を叩いたり、よほど幼い子が高欄のところの座板に乗せてもらったりすることです。ただ全員は乗れませんので、残った子どもたちで担き棒を担いてはいます。もちろんその人数では動きませんので、動かすのはほとんど大人の力を借りないといけません。組み立ても解体も担くのも大人がするようになっています。
 さらに大人も勤務日と祭りの日の重なりに困っています。子どもたちは祭りが平日にあっても、14日は半ドン、15日は休みになります。しかし、大人はそうはいきません。例年は子どものいる家の大人で太鼓台を動かしてきました。しかし、今年(平成18年)は、子どものいる家が16軒になり、全員が出てもしんどいのに、それも揃(そろ)うのは難しくなってきました。今年は子どもがいない人たちにも助けてもらうように要請しています。大人の社会も変わってきたのです。」

図表2-1-4 太鼓台の名称

図表2-1-4 太鼓台の名称

**さんからの聞き取りで作成。

写真2-1-21 お花への謝礼

写真2-1-21 お花への謝礼

四国中央市金生町。平成18年10月撮影