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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)戦後の修学旅行と交通手段の変化①

 ア 鉄道中心の修学旅行

 (ア) 車中泊の多い旅程

 戦後の南宇和高校の旅程を見ると、戦前の船に代わって国鉄(鉄道)利用が中心となっている。ただし、南宇和高校のある南宇和郡平城(ひらじょう)から国鉄宇和島駅までは、昭和35年ころまで宇和島運輸等による城辺町(現愛南町)深浦港出発のチャーター船を利用していた。これは、宇和島以南の道路事情が良くなかったことと、貸切バスの台数不足等が影響していたと思われる。
 昭和30年代から40年代の修学旅行は、戦前の船中泊に代わって車中泊が多い。昭和36年(1961年)では、南宇和高校から熱海に行くには2日がかりであり、宇和島-高松間ですでに9時間かかっている(図表1-1-5参照)。これが昭和44年(1969年)の旅程では、高松までが6時間弱と四国内の時間短縮が進み、新幹線の利用もあって東京までの移動時間は半減し、2日目に東京観光を行っている(図表1-1-6参照)。
 昭和44年の旅行日程は7日であるが、この時期の松山市内の高校の日程は6日である。1日よぶんに日をとっているのは、鉄道幹線から離れているためであろう。しかし昭和40年代後半になると旅行日数、旅行先はほとんど同じになる。東予地方の都市部や松山市などと比べて、交通事情に格段の差があった南予地方であったが、修学旅行旅程の変遷からみても、昭和40年代の高度経済成長を境とした交通網の発達は、その不便さをかなり解消したといえる。

 (イ) 車中泊の疲れと東京へのあこがれ

 昭和36年の校友会誌の修学旅行記から、当時の修学旅行の様子をうかがってみた。
 「朝6時、熱海(あたみ)の宿屋で目を覚ました。風光明媚(めいび)な温泉都市熱海での波の音を枕の一睡は実に快適だった。一同元気よくバスに乗り込んで出発。武士として歌人として有名な源実朝が歌った初島(はつしま)や伊豆大島(いずおおしま)を遠くに望みながら、バスはエンジンも軽く峠を登っていきます。峠を少し下る。目の前が急に明るくなったとたん、一斉に歓声が上がった。富士山だ。真白のいただきと長いゆるやかな山すそとが青空にくっきり浮かび上がっている姿に、しばしの間茫然として、ものを言うことを忘れた。自分の、いや、すべての人間の営みが、実に小さくつまらないものに思えた。十国峠(じっこくとうげ)で下車。広々としたドライブウエイが限りなく続いて青い山脈を這っていく。これだけでもう十分だ。旅行に出ることを、あんなに迷ったなんて馬鹿なことだった。江ノ島(えのしま)で昼食の後、バスは磯の香りで満ちた海岸の道を鎌倉(かまくら)へと出発した。車中、そろそろいねむり組の続出。鎌倉では、どんな説明を聞いたか覚えていない。大仏が美男子だったかどうかも。(中略)さあいよいよ東京だ。今までの疲れた様子は消えて、車中は急に活気を取り戻し、ガイドさんの説明の手の動きに合わせて、頭が右へ左へと忙しい。ネオンに彩られた豪華な街を、ありとあらゆるファッションがめまぐるしく流れる。信号機が変わるのももどかしげに歩いていく。かくして大都会東京は私たちを魅惑した。」

図表1-1-5 南宇和高校、昭和36年の旅程表

図表1-1-5 南宇和高校、昭和36年の旅程表

南宇和高校修学旅行記録から作成。

図表1-1-6 南宇和高校、昭和44年の旅程表

図表1-1-6 南宇和高校、昭和44年の旅程表

南宇和高校修学旅行記録から作成。