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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)陸の孤島だったころ

 ア 仕事も買い物も村の中で

 「昭和20年代の新宮村では、仕事も買い物も村の中でできたため、川之江や三島に出かけることはめったにありませんでした。新宮の中心にある宮川(みやがわ)の商店街や各地区の商店で食料品、衣料品から電化製品まで買い物は済ますことができました。村には時計屋もラジオ店もありました。大工さんもいましたが、カヤ葺(ぶ)き屋根の葺き替えは地域で共同でしていました。当時川之江や三島に行く交通手段はバス(昭和22年省営バス〔国鉄バス〕が川之江-新宮間で運行開始)がありましたが、くねくねとした狭い道を登り、堀切峠(標高490m)を越えて行かなければならず、川之江までは今の何倍もの時間がかかりました。村内に魚屋はありましたが、川之江の人が単車で売りに来ていました。
 戦後間もないころは、川之江あたりから竹の子やゼンマイを買いに来る業者の人や、イモを買いに来る人がいました。戦後の食糧難の時代、新宮村では自分の家で作物を作っていたので食料がありました。昭和30年代の新宮の主産業は葉タバコ作りでした。」
   
 イ 南北の道、東西の道

 新宮地区には、現在高知県大豊町や川之江に通じる南北の道(旧土佐街道、主要地方道川之江大豊線、高知自動車道)と、銅山川沿いに徳島県山城町に通じる東西の道(国道319号)がある。江戸時代の土佐街道は、土佐藩の参勤交代路であっただけでなく、物資の行き来や人の交流も盛んだった。通婚も盛んで、新宮村では姓により阿波か土佐かの系統がわかる。馬立(うまたて)あたりは土佐との通婚圏で、土佐に近い言葉が使われるという(④)。
 車道ができるまでの新宮では、物資の運搬は人が運ぶか、馬に乗せて運ぶ他はなかった。「柴車(しばぐるま)」と呼ぶ小さな荷車は狭い坂道で使用したが、一般的ではなかった。明治のころはタバコやコウゾ、シュロのほか、木炭や木材などの産物を川之江方面に搬出していたが、これらの運搬は「仲持(なかもち)」という人々が背負うか、馬で運んでいた。川之江への道(横峯(よこみね)越え)は道幅も狭く、急勾配(こうばい)の箇所も多くあり難所であった。
 大正末まで新宮村には5か所の船渡し場があった。上山村は吉之瀬(よしのせ)、広瀬(ひろせ)、大窪(おおくぼ)の3か所、新立村は新宮、古野(この)の2か所で、大正14年(1925年)に銅山川橋が完成して新宮の渡しはなくなった。橋ができる前、南北に行き来するには銅山川の渡し場を通る必要があった。しかし渡し場は大水のときに舟が流失したり、川止めになることが多かった。安全に渡れる橋の架設を村の人は待ち望んだが、銅山川橋の完成によりその他の地域でも架橋運動が起き、昭和8年(1933年)に上山村に長手(ながて)橋(平成2年に新たに吉之瀬橋として完成)、上山橋(大窪-杉谷(すぎたに))が完成、同11年には古野橋も完成した。その後もしばらく渡し場は存在したが、最後まで残っていた広瀬の渡しも昭和54年(1979年)になくなった。
 大正13年末に阿波川口(あわかわぐち)から馬立本陣(うまたてほんじん)のある新宮の堂成(どうなる)までの東西の車道が開通し、昭和12年には川之江金田(かなだ)から新宮へ南北に通じる県道が開通したが、自動車が普及してないためしばらくは仲持が運搬を務めた。バス路線は、昭和22年川之江-新宮間に省営バスが運行されたのに始まる。バス交通の最盛期は昭和30年代から40年代中ごろまでで、日によっては途中の停留所から乗車したら座れなかったという。行商人の利用も多く、朝の新宮行きは荷物が半分という状態のときもあった(①)。昭和40年代から50年代のモータリゼーションの進展によりバス路線はつぎつぎと廃止されたが、車を持たない人や通学の児童生徒の便宜を図るため、新宮村では平成元年から村営福祉バス(現在7路線、料金一律300円)の運行を開始した。村内の交通と他地域との交流について**さんは次のように話す。
 「徳島県や高知県との人々の交流は昔のほうが多かったように思います。新宮に住む人にとって、徳島方面は銅山川沿いなので行きやすく、高知方面は大きな山脈を越えなければならないので行くのが大変というイメージがありました(徳島県との交通は、四国交通バスが昭和35年に運行開始していた。高知大豊町との境の笹ヶ峰トンネルが開通したのは昭和42年。)。そのためこのあたり(新宮)から下流は徳島県、特に隣接している山城(やましろ)町(現三好(みよし)市)との交流が盛んで、嫁をもらうのも山城町からが比較的多かったです。新宮から山城に嫁入りするより、山城から新宮に嫁入りするほうが多かったように思います。実は私の母親も山城町出身です。
 広瀬の渡しは遅くまでありました。大窪の渡しは山仕事をする人が利用していたらしいのですが、広瀬の渡しは生活用のものです。渡し舟は小さな船で、対岸までつるしているワイヤにロープを引っかけてあり、ロープを引っ張って船を動かしていました。昭和54年までありましたが、当時すでに自動車が普及し、銅山川には自動車が通れる橋もかかっていたため、利用する人は限られました。渡しは地域が管理していましたが、最後のほうは管理人もいなかったのではないでしょうか。
 新宮では昭和20年代、小さな道は柴車で荷物を運んでいました。柴車は大八車の小さなもので、狭い道でも荷物を運べました。リヤカーはその後出てきました。当時の道路は人が歩ける程度の狭いものでした。『仲持さん』は戦後あまり聞いたことはありません。
 川も物資を運ぶルートとして使っていました。上流から筏(いかだ)を組み運ばれた木材は、銅山川橋のところで引き揚げられ、車に積んで川之江・三島方面に運ばれました。堀切峠を通る県道を通って運んだのでしょう。新宮の中心集落から産物を徳島県方面に川で運ぶということはなかったように思います。
 土佐街道は現在も歩くことができます。夏は草が生い茂り、難しい所もありますが、春先や秋の終わりのころは歩く人がおります。山歩きをする団体がバスでやってくることもあります。昨年は、高知県大豊町と四国中央市の人が参加して旧土佐街道を歩きました(参勤交代道ウォーキング)。」

 ウ 村を出て行く人たち

 「新宮鉱山(昭和12年~53年に銅を産出)の社宅はかなりな人数が住んでおり、売店もありました。映画もよく上映していました(昭和26年ころから週1回上映)。社宅に住む人は村外出身者で、鉱山が閉鎖されたらみんな出ていきました。新宮村の人口減少の原因に、新宮鉱山の閉鎖(昭和53年50人全従業員解雇)と新宮ダムの建設(昭和50年水没世帯移転完了、昭和52年完成)があります。新宮ダムで水没する家(65戸)の人は、ほとんどが村外(川之江、伊予三島)に出ていき、村内に残ったのはごくわずか(3戸)でした。」
 新宮村発足以来、人口は年々減少している(図表2-1-5参照)。転出者が一番多かったのは昭和37年で、村の人口の8.6%にあたる499人が転出した。これは昭和39年に東京オリンピックをひかえ、新幹線や高速道路工事などのための労働者需要が急増したためで、このころから出稼ぎも増え始める。またこの年、新宮鉱山(昭和35年従業員107人)の合理化が行われたことも転出者が増えた原因である。
 新宮村の人口が急減し始めるのは昭和30年代後半からで、高度経済成長とともに、経済的な安定や便利な生活を求めて多くの人が都市部へ転出していった。中学校の卒業生は、ほとんどが村外に進学・就職し、村に帰ってこなくなった。青年層の離村は出生数の減少を招いた。昭和41年以降、新宮村の人口の自然増減(出生数-死亡数)はマイナスに転じたままである。また、社会増減(転入数-転出数)も昭和30年以来、ほとんどがマイナスになっている。特に昭和30年代、40年代はほぼ毎年100人以上のマイナスであった。
 新宮地区の年齢別性別人口構成図(人口ピラミッド。図表2-1-6参照)を見ると、昭和30年は年少者人口が多く、ピラミッド型になっている。これが昭和45年になると、ひょうたん型になっている。10歳前後の子どもは多いが、15~30歳の青年層が極端に少ない。これは中学を卒業すると、ほとんどが村外へ進学・就職するからである。青年層が少ない影響で0~4歳の子どもも少なく、将来の少子高齢化が予測される。平成12年は少子高齢化が顕著に表れている。65歳以上の老年人口は実に42.6%を占め、15歳未満の年少人口は9.6%にまで減少した(昭和30年は老年人口7.5%、年少人口38.1%)。

図表2-1-5 新宮地区の人口推移

図表2-1-5 新宮地区の人口推移

国勢調査結果から作成。

図表2-1-6 新宮地区の人口ピラミッド 昭和30年

図表2-1-6 新宮地区の人口ピラミッド 昭和30年

国勢調査結果から作成。

図表2-1-6 新宮地区の人口ピラミッド 昭和45年

図表2-1-6 新宮地区の人口ピラミッド 昭和45年

国勢調査結果から作成。

図表2-1-6 新宮地区の人口ピラミッド 平成12年

図表2-1-6 新宮地区の人口ピラミッド 平成12年

国勢調査結果から作成。