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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

第2節 松山市に見る人の流れ

 松山市は平成17年に北条(ほうじょう)市、温泉(おんせん)郡中島(なかじま)町を編入し、四国初の人口50万人都市となった。愛媛県の人口の約3分の1が集中し、県庁所在地として県下全域に影響は及んでいるが、日々の人の流れという面では、その都市圏は中予地域にある程度絞られてくる。平成12年(2000年)の国勢調査によると、松山市周辺市町に住む通勤・通学者のうち、松山市に通う人数の割合は、砥部(とべ)町、松前(まさき)町、重信(しげのぶ)町で40%以上、北条市、伊予(いよ)市で30%以上となっている(図表2-2-1参照)。昭和45年(1970年)の同調査では、砥部町、松前町、重信町が30%余、北条市、伊予市で20%余であったことから、これらの町の松山市のベッドタウン的傾向が強まっていることがわかる。また、平成17年度における松山市の15歳以上の通学者は30,338人で、このうち市内の学校に通学している者は28,361人(全体の93.5%)である。同年の松山市内にある大学・短大、高等学校、各種・専修学校、盲・聾・養護学校の在学者は、合計38,073人であるから、1万人近い学生が近隣市町から通学してくることになる。
 松山市内各地区の人口増減をみると(図表2-2-2参照)、昭和30年代に番町(ばんちょう)、八坂(やさか)地区で人口が減少、桑原(くわばら)、生石(しょうせき)地区などの人口が急増し、ドーナツ化現象が始まっている。この時期、生石地区には帝人の社宅(500戸余)が建設された。
 昭和40年代には東雲(しののめ)地区でも人口が減少、これに対して周辺の石井(いしい)、余土(よど)、久米(くめ)、小野(おの)、潮見(しおみ)、和気(わけ)などで人口が急増しドーナツ化現象が進行した。周辺地域の人口が増える一つの要因となったのが大規模な公営団地の建設である。和気地区ではこの時期、市営太山寺(たいさんじ)団地(534戸)、三光(さんこう)団地(458戸)が建設された。昭和50年代になると、周辺地区の人口増加はややかげりが見え始めるが、中心部では素鵞(そが)、道後(どうご)、味酒(みさけ)、新玉(あらたま)地区も人口減少地区となり、空洞地域が拡大している。
 郊外では伊台(いだい)地区の人口増加が顕著で、向陽ハイツ、伊台ハイツなど200戸前後の大規模な分譲住宅地の建設が進められた。ここは松山の中心部に比較的近く、地価も安かったため、昭和60年代も引き続いて宅地化が進んだ。
 平成になりバブルがはじけたころからドーナツ化現象は沈静化し、番町や東雲地区では都心への回帰現象からか人口がやや増加し始めている。昭和30年(1955年)の人口を100として、平成17年(2005年)の人口を比較すると、松山市内で減少率が一番だったのは興居島(ごごしま)(26.4%)で、番町地区(29.4%)が続く。これに対し増加率トップは石井地区で、人口は7倍以上(722.2%)になった。
 松山都市圏各市町の人口推移をみると(図表2-2-3参照)、川内(かわうち)町や北条市、伊予市で人口が停滞しているのに対し、砥部町、松前町、重信町で昭和40年代後半からの人口増加が目立つ。これは松山市内の人口のドーナツ化が周辺に広がり、都市化が進んだためである。砥部町には昭和40~43年に県営砥部団地(458戸)、県住宅供給公社の南ヶ丘団地(207戸)などが建設され、重信町には昭和44~46年にかけて県営牛渕(うしぶち)団地(328戸)が建設された。このころ砥部町に建設された住宅団地の住民は、ほとんどが松山市からの転入者であった(⑤)。モータリゼーションの進展にともない通勤が便利になったため、郊外の宅地化が進んだのである。
 本節では、人口が急増した郊外の石井地区と、空洞化が進んだ都心部の番町地区を取り上げた。

図表2-2-1 松山都市圏各市町の通勤・通学先

図表2-2-1 松山都市圏各市町の通勤・通学先

平成12年国勢調査結果から作成。図中( )内の数値は通勤・通学者総数を表している。

図表2-2-2 松山市の地区別人口増減

図表2-2-2 松山市の地区別人口増減

松山市統計書から作成。平成17年の合併以前の市域を対象とする。

図表2-2-3 松山都市圏各市町の人口推移

図表2-2-3 松山都市圏各市町の人口推移

国勢調査結果から作成。北条市は平成17年に松山市と合併、重信町と川内町は平成16年に合併して東温市となっている。