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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

1 海の道から陸の道へ-宇和島市遊子地区-

 宇和島市遊子地区は、明治22年(1889年)に北宇和郡遊子村として成立した。遊子には津(つ)の浦(うら)、水ヶ浦(みずがうら)、魚泊(うおどまり)、番匠(ばんじょう)、甘崎(あまざき)、小矢(こや)の浦(うら)、矢(や)の浦(うら)、明越(あけごえ)の八つの浦(地区)がある。昭和33年(1958年)に遊子村、蒋渕(こもぶち)村、下波(したば)村、戸島(とじま)村、日振島(ひぶりじま)村の5村が合併して宇和海(うわうみ)村となり、同49年宇和島に合併吸収され現在に至っている。
 遊子地区は、宇和海(うわかい)に突き出た三浦(みうら)半島の東部に位置している。宇和海は中世以来日本を代表するイワシの漁場であり、点在する集落は漁村として成立した。漁獲されたイワシは煮干に加工して出荷された。宇和海沿岸では段畑耕作も盛んで、夏にサツマイモ、冬に麦を作っていた。昭和30年以降イワシの不漁からイワシ巻網は相次いで倒産し、昭和36年(1961年)に始まる真珠養殖、同38年に始まるハマチ養殖が主要産業になっていく。段畑も昭和35年ころからミカン畑が多くなったが、養殖業の隆盛とともに放棄されていった。現在わずかに残った水ヶ浦の段畑は、平成19年に文化庁の「重要文化的景観」に選定されている。
 また、この地域は道路整備が遅れ、海上交通しかない時代(昭和30年代まで)には、イワシ不漁やネズミの被害も重なり人々の生活は貧しく、転出者が相次いだため人口が急減し過疎が進行した。しかしその後、養殖業の発展により人々の生活は豊かになり、道路が整備されるにつれて人の流れ、人々の生活は大きく変わってきた。戦前から今日にいたる遊子の人の流れと人々の生活の変化について、甘崎に住む**さん(大正13年生まれ)に話を聞いた。