データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)海の道を通って

 ア ちゃんやん便から高速船へ

 大正元年(1912年)の『遊子村誌(⑪)』に「村民漁農ヲ以て生計ヲ立テ、交通概子(おおむね)船舶二求ム 各村二通スル道路ハ峻嶮(しゅんけん)ニシテ或一部ノ外ハ交通杜絶シテ人跡ヲ見ス」とあり、当時の遊子村が半農半漁で、主な交通手段は船であり、道路は整備されていなかったことがわかる。また同誌には「道路、宇和島ニ通ズルニハ陸路道巾狭迫ニシテ最モ険峻(けんしゅん)ヲ極ム」とある。当時宇和島に通じる道は天神坂(てんじんざか)などのルートがあったが、整備されておらず、陸路で宇和島に向かうものはほとんどいなかった。
 昭和11年9月10日の南予時事新聞に、遊子の八浦が「約二里半の海岸道路で連絡されているが、交通は常に船舶によるもので道路は幅員僅(わず)かに三尺、岩石累々(るいるい)として通行の不便は一方(ひとかた)ではない。宇和島へは、毎日二十頓(とん)余りの発動機船が一往復する外、宇和島-下波間の発動機船が甘崎、明越両部落にのみ寄港する。これは下波住民の一部が、遥(はる)か半島を迂廻(うかい)して時間を費やすよりは明越甘崎の山を越えた方が得策であるとて遊子村と協定して寄港しているのである。」とある。当時八浦を結ぶ道路はあったが、道幅は約90cmの粗末なもので、部落間や宇和島までの交通は海上交通にたよっており、下波の人も遊子の港を利用して宇和島に出ていたことがわかる。
 昭和16年(1941年)からは盛運社(昭和8年設立)が北・東宇和郡の沿岸航路を掌握したが、昭和33年(1958年)の宇和海村発足当時、盛運汽船の沿岸航路は、宇和島-遊子2往復と宇和島-日振島航路があった。昭和30年代~40年代にかけて、宇和島に通じる道路が整備されてくると次第に陸上交通が発達する。昭和46年の遊子航路は1日3便で片道110円、宇和島からの所要時間は35分であったのに対し、宇和島自動車バスは、宇和島-遊子(甘崎)間を1日7往復、片道190円、所要時間は65分であった(⑫)。バスのほうが便数は多かったが、所要時間は船の倍近くかかった。昭和49年には高速船が就航、宇和島-津の浦間を1日5往復(途中矢の浦、甘崎、魚泊、水ヶ浦に寄港)し、所要時間は18分に短縮された。まだまだ海の道の方が便利であった。昭和57年に船便は4便になり、その後3便に減った。盛運汽船(株)の資料によると、昭和52年当時年間7万人以上いた利用客は、平成3年には2万人を切る状態となった。養殖業の隆盛により豊かになった遊子の人たちは自家用車を持ち、昭和57年無月トンネル、平成3年豊浦トンネルの開通により宇和島への道路交通が格段に便利になったため、平成5年(1993年)遊子航路はついに廃止されることになった。廃止後は島嶼(とうしょ)部を結ぶ船が津の浦と水ヶ浦に寄港しているが、利用客や荷物がない場合は寄港しない。矢の浦へは、宇和海中学校の「はまゆう寮」に入っている生徒が島に帰省する金曜の夕方と寮に帰る月曜朝の便のみ寄港している。平成19年現在、宇和島-遊子(津の浦)間は、高速船1日2便(1,070円、19分)とバス(バスセンター-津の浦)平日1日5便(840円、55分)となっている。
 「私が生まれる前の時代、遊子の人たちは『ちゃんやん便』という船に乗って宇和島などに出かけていました。『ちゃんやん』とは船の船頭さんのことではないかと思います。『ちゃんやん便』は5丁櫓(ろ)でやっていました。これが江戸時代から大正時代ころ(大正8年)までありました。明越と番匠の2か所から出ましたが、明越は半島の付け根に位置し、結出(ゆいで)や島津(しまづ)などの人たちが山を越えてやって来やすい場所で、番匠は柿之浦(かきのうら)や神崎(こうざき)などの人たちが山を越えて集まりやすい所にあります。トンネルができる前、下波の人たちはみんな山を越え歩いて遊子の港に来て、ここから船に乗って宇和島に行きました。山を越えて歩くのはけっこう時間がかかり大変ですが、当時はそれしか交通手段がありませんでした。遊子と下波などが合併して発足した宇和海村の三善愛夫村長は、下波の神崎の人でしたが、遊子の甘崎にあった役場まで、毎日山を越えて歩いて通勤していました。『ちゃんやん便』の後は、宇和島運輸(明治17年設立)になりました(明治44年宇和島運輸『鶴島丸』が宇和島-遊子間に就航した。)。『ちゃんやん便』という呼称は宇和島運輸になってからもしばらく使っていました。
 渡海船は人と生活用品を運びました。食料はあまり来ませんでしたが、こちらからは麦などを運び売っていたそうです。当時の船は風があったら帆をかけていきますが、ないときは櫓(3~5丁)を使いました。櫓を漕(こ)ぐのは遊子の人です。私も6、7歳のころには櫓を漕げました。漕ぐ人が少ない場合や疲れたときには乗っている客が櫓を漕ぐこともありました。この場合は運賃をまけてもらえました。宇和島への行き帰りとも櫓を漕ぐ手伝いをすると、運賃(大正期3銭)を免除された上、米5合をもらう場合もあったそうです。
 渡海船は浦々からも出ていました。甘崎で一つ(中山氏の遊子丸)、明越では二つ(宮本氏の遊盛丸、遅れて田中氏の共同丸)の渡海船(機械船)が出され、速さと運賃の競走をしていました。当時宇和島との往復運賃は最初(大正3年)10銭、共同丸ができたころは25銭でした。
 甘崎の遊子丸は、昭和16年に宇和島の盛運社に売り渡され、盛運社が遊子と宇和島を結ぶ海の道を受け持つことになりました。宇和島行きの船便は、中山氏がやっていたころは1日1便、盛運社になって午前、午後の2便になりました。十年以上前に遊子航路はなくなりましたが、日振島などの島へは引き続き運行しています。ただ遊子でも船便がないと困る所もあるので、乗客がいるときには旗を立てて、それを目印に寄港してくれます。」

 イ 船商人と担ぎ屋さん

 「津の浦では、イワシ網漁業が倒産した後に海上行商人が出てきました(『遊子の歴史(⑬)』には、津の浦の記述に『昭和36年(1961年):商船とかつぎ商を始める者多し』『昭和37年:海上商業盛んになる。(24隻)』の記録がある。)。『船商人(ふなあきんど)』と呼びましたが、津の浦の人が船で宇和島に行き、品物を仕入れ、それを島や僻地(へきち)に運び売っていました。遠くは長崎県対馬(つしま)まで行っていました。船商人は遊子では津の浦だけにいました。津の浦の立地条件が他の浦と少し違うので船商人が出たのでしょう。昔から津の浦は、よその船がよく出入りする港でした(船商人は養殖業が盛んになった昭和50年代に衰退する。)。
 南予山間部でみられた『担ぎ屋さん』は、遊子からもたくさん行っていました。呉服物やイリコを売っていました。藩政時代から戦前までの話で、遊子から宇和島に行き、品物を仕入れて山間部に売りに行きました。下波のほうからも行っていたと思います。遊子で取れたものも売っていました。遊子のある人は、呉服物を宇和島で仕入れて、鬼ヶ城(おにがじょう)山系を越えて山間部に売りに行っていました。不便な所でないと売れないので、松野(まつの)町目黒(めぐろ)や高知県まで行きました。宇和島市から山を越えて目黒に至る道は、急な坂道であるため、『泣き坂』とか『尻割れ坂』とか言われました。そうしたきつい坂を越えて行かないとモノは売れません。遊子は漁業をする人が多かったのですが、行商を専業にしている人もいました。卯之町(うのまち)、三間、広見、松野町あたりから日吉(ひよし)村、野村(のむら)の奥地さらには高知県の梼原まですべて歩いて行っていました。それぞれ担当の地域、縄張りのようなものがあり、しばらく行かないと客を他の行商人にとられるので、ちょくちょくまわっていたようです。戦後そうした人も年をとり、後継者がいないため、行商を生業にする人はいなくなりました。」