データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)変わる人々のくらし

 ア 昔の宮野下

 「私が子どものころの宮野下の町並みは、藩政時代からはほとんど変わっていませんでした。道路は舗装されておらず、道幅は在町のため3間(約5.4m)と決まっていました。昭和20、30年代にも宇和島に勤める人はいたように思いますが、農業以外の商売をする人は宮野下の町並みに集まっていました。昭和20年代・30年代は、わざわざ宇和島に買い物に出かけなくても宮野下の商店街で足りていました。身の回りのもの、衣料品も宇和島に買い物に行くことはめったにありませんでした。電気屋も3軒くらいありました。芝居小屋は『えびす座』があり、ここでは学芸会もやりました。混浴の銭湯もありましたが、共同風呂やもらい湯の習慣もありました。当時は一家族だけでお湯を使うのがもったいないという時代でしたので、分家が本家にもらい湯に行ったり、家庭風呂のある裕福な家に近所の人がもらい湯に行くことはよくありました。隣とは親戚以上の付き合いで、あげたり、もらったりでした。物がないころはお互い助け合っていましたが、豊かになって何でも自分ででき始めると、人と人との結びつきが薄くなってしまいました。」

 イ 進む少子高齢化

 「出稼ぎは多かったのではないでしょうか。三間には農業以外に仕事があまりありません。昔は専業農家が多かったのですが、高度成長期に都会ではいろいろな仕事が増え、手っ取り早くお金が稼げるようになり、出稼ぎや若者の転出が多くなりました(図表2-3-7参照)。
 海外移民は、何人行ったかは知りませんが、私の同級生や近所の人がブラジルのサンパウロに移民しました。町長さんが視察に行ったことがあります(昭和33年今西毅町長が南米各国を視察。しかしその後、高度成長とともに国内都市部への出稼ぎが主流になり、移民は下火になる。)。
 三間でも少子高齢化が進み、若い者が少なくなりました(図表2-3-8参照)。若者の転出先は、宇和島で働く所が少なくなってきたため、松山や京阪神、東京などに行っているのではないでしょうか。UターンやIターンは、三間にもいますが、そんなに多くはありません。コスモス団地(三間町是能)には、宇和島から転入してきた人がけっこう入居しています。遠方から帰ってくる人は、定年退職した人くらいで、若い者は仕事がないので帰ってきません。
 若者が少なくなってきたら、地域の伝統行事の担い手に困ります。祭のとき、六つ鹿踊りをやる人間が少なくなりました。三嶋神社は三間三郷(成妙、三間、二名)の鎮守で、各郷から神輿が出ています。しかし担いで回るのが大変のようです。昔は祭りの日は決まっていましたが、現在は日曜日です。でないと勤めの人が参加できず、担き手がいません。今は日曜でも担き手が少なくなっています。祭りのときの出し物として、町方が出す牛鬼と村方が出す四つ太鼓という山車(だし)のようなものもあります。今は四つ太鼓の担ぎ手もいないため、三間高校生が担いでくれるようになりました。」

 ウ 宇和島のベッドタウンに

 宇和島市ほかが策定した「新市将来構想」(2002年)の中の住民意識調査によると、三間町の住民が最もよく利用する病院、衣料品や家具・家電製品を買う店は、過半数が町外(宇和島と考えられる)という結果が出ている。平成12年の国勢調査によると、三間町では15歳以上の就業者の44.7%が町外へ通勤しており、うち67.3%が宇和島となっている。また、15歳以上の通学者の66%が町外へ出ており、うち55.9%が宇和島となっている。町外へ通勤・通学する住民の割合(46.4%)は、宇和島市周辺の町村では一番高くなっている。
 「三間町の人口は昭和50年代から大きくは減らなくなりました。最近ちょっと増える傾向にあります。宇和島では、家を建てるときに三間を志向する人は多いです。特に宇和島に隣接する成妙地区は転入者が多く、三間の中でも発展が予想されます。三間は宇和島に比べると広い土地があり、しかも安く、子育てにも良い所です。宇和島への道路も良くなり、今度高速道路のインターもできます。現在は宇和島のベッドタウンになりつつありますが、三間の古い歴史やすばらしい風土を生かし、よき農村文化の一つの拠点にもなって欲しいですね。」

図表2-3-7 三間町の産業別人口構成

図表2-3-7 三間町の産業別人口構成

国勢調査結果から作成。

図表2-3-8 三間町の人口ピラミッド(昭和25年)

図表2-3-8 三間町の人口ピラミッド(昭和25年)

国勢調査結果から作成。

図表2-3-8 三間町の人口ピラミッド(平成12年)

図表2-3-8 三間町の人口ピラミッド(平成12年)

国勢調査結果から作成。