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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(4)材の用途と流通

 「肱川地区はマツが非常に多かったのです。山が4,700haくらいありましたが、その内2,000haがマツでした。アカマツが多く、樹齢400年くらいの大きいものがありました。樹齢100年くらいのものはざらにあったのです。昭和50年ころまでは、マツを伐り出していましたが、マツクイ虫で全部枯れてしまいました。
 前にも述べましたが、家屋の上具材(うわぐざい)などに使われたマツ材は14尺以上で、スギ・ヒノキ材は13.2尺の長さでした。一般用材としては、スギ・ヒノキは6.6尺(約2m)マツは7尺(約2.1m)に切られ、家屋の根太や鉱山などで使う杭木、または板材に使用されました。坑木は戦後もしばらくの間、大量に使われたのです。スギ・ヒノキの根本の直径が10~15cmのものは足場と呼ばれ、長さ16尺(約4.85m)の全幹材でした。また直径40cm以上の太いものは山で不要部分を削り取って角材として積み出されていました。しかし昭和56年くらいから、肱川本流に近いところは全部枯れてしまったので、マツの販売実績は少なくなりました。しかし河辺(かわべ)地区にはまだマツが残っています。
 それから中国地方には、パルプ工場がたくさんあったので、パルプ材としてマツを大量に送っておりました。チップにしたのは最近のことで、当時は全部丸太で長浜から船で送り出していたのです。後には大洲駅へ送って貨車で運び出していました。
 また販売については、立木のままで一山(ひとやま)いくらで木材業者に販売されていました。昭和30年代には業者から業者へ転売されることもよくおこり、最終的には山主の売値の何倍にもなることもあったそうです。そこで肱川では山主の依頼があれば、森林組合が山の材積を測り、大体この位と評価し、業者の付けた値段と比較して、山主が販売するかどうかを決め、山主の希望があれば森林組合が委託販売もしておりました。森林組合が林業経営について林業家の手伝いをしていたのです。
 昭和35年ころにチェーンソーが1台入ってきましたが、重くて使い物になりませんでした。昭和41年(1966年)に近代化を進める事業があって、森林組合で15kgくらいの重さの物を1台購入して、作業班に練習させたのを覚えております。昭和43年の第1次林業構造改善事業でチェーンソーが導入され、これが肱川ではチェーンソーでの伐木・造材の始まりであったと思います。その後チェーンソーも軽量化されシイタケ栽培にも使うようになりました。昭和50年代前半にマツクイ虫の被害が増大し、大々的にマツが枯れて、その処理を山林所有者自身が行うようになったので、爆発的に普及したのです。チェーンソーやワイヤーの導入によって、旧来の鋸(のこぎり)と鉞(まさかり)また人と牛による作業から、大幅に近代化された林業作業となったわけです。」