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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)道路・交通網の整備

 「道路・交通網は住民生活や地域の産業経済活動を支えるとともに、地域間の交流を促進する重要な基盤となります。昭和31年(1956年)の旧重信町誕生以来、新町建設計画の基本方針に『古来よりの懸案である重信川架橋の早期実現に努力し、交通網の整備を図る。』とありますように、農林業の振興も、教育文化の向上も、一に道路整備にあるとされてきました。
 昭和34年(1959年)には上重信橋の架橋が実現し、昭和36年牛渕中央線など6路線が一級町道に認定されるとともに、南北横断道路の新設への取組が始まりました。当時は道路の新設や改修について、一般の関心度は今日ほど高くはなかったし、また予算も潤沢ではなかったので、道路計画の実施は難渋をかさねたようです。
 拝志(はいし)、南吉井(みなみよしい)、北吉井の三地区は道路不整備のため孤立傾向にありましたが、昭和40年(1965年)に横断道路が完成し面目は一新されたのです。それに南野田小野梅本(みなみのだおのうめもと)線、上村牛渕(うえむらうしぶち)線、田窪西岡(たのくぼにしおか)線、そして下林見奈良志津川(しもばやしみならしつかわ)線の横断道路の新設でした。
 最重点に取り組まれたのが国庫補助事業による大型事業の交通網整備で、特に重信川水系の架橋の実現が急がれました。その主なものが昭和55年(1980年)から56年に施工された、二車線両歩道の見奈良大橋、昭和57年(1982年)から着手され昭和62年(1987年)に完成した二車線片側歩道の上重信橋なのです。その他の道路の改良や国道11号付け替えに伴う愛大医学部進入道路の改良なども行われ、主要幹線道路の整備、新設、改修によって都市型交通網へと大きく変貌したのです。
 四国縦貫自動車道の建設についても、さまざまな問題を検討し、協議を重ねてきました。インターチェンジはなく、平坦な田園地帯を単に通過するだけということで、当初はかなりの反対がありました。高速交通ネットワークの確立は不可欠のものではありますが、地元住民にとっては、日照権問題や騒音、振動、排ガスあるいは電波障害などいわゆる公害に対する不安もありました。補助金の問題などもあって、町に対して専従班を設置し環境対策と周辺整備事業への積極的な取組が求められていたのです。時間をかけて見奈良、田窪、牛渕、南野田の4地区の意向を集約して、もろもろの事柄を整理し、理解を得て順次解決して、平成5年(1993年)に着工となったわけです。町内の総延長5.4km、費用は220億円、土地代は120億円という大変な工事でした。これにより人、物、金が従来になく動く、重信活性化の息吹が強く感じられるようになったわけです。
 平成13年(2001年)4月には、四国縦貫自動車道が町の中央部を横断しているほか、徳島、高松、松山の3県都を結ぶ四国の大動脈である国道11号、県道5路線(主要地方道1路線、一般県道4路線)、町道222路線によって重信交通網が構成されているのです。」