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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(1)港の思い出

 「昭和30年(1955年)当時、現在の港の辺りはすべて砂利の浜でした。そして海に向かった各戸の前にはコンクリートや石垣や防潮塀(へい)がありました。大きい台風のときは、各戸の一階まで潮が入ってきて大変でした。昭和32年の三崎港桟橋の築造や九四フェリー関連の工事などによって、砂利浜が埋め立てられ、広い道が通り現在の姿になったのです。
 当時の三崎港は、農協の第二選果場の近くの、今漁船が係留されている所にありました。特に夏の出荷拠点として、にぎわっていました。木造船ではありましたが、大きい船が夏柑の運搬船として入港してきました。子どもたちにとっては、船の渡し板をこそっと渡ってデッキに上り、そこから海に飛び込んで泳ぐのが楽しみでした。夏休みの間、ダイダイ船を遊び場にして、仲間と時間を忘れて遊んだのが思い出です。ときには遊びが過ぎて、溺(おぼ)れかけたりしたこともありました。
 また陸路は酷道と評されるほど道が悪かったので、八幡浜からの船便、別府への船便がよく利用されていたのです。別府航路の重久丸、別府丸、暁丸などの名前を思い出します。それらの船も桟橋ができるまでは沖に停泊して、人も荷物も櫓(ろ)の大きな手こぎのはしけで、浜までまた浜から沖の船まで運ばれていたのです。当時は三崎の人々はこの航路で、別府、大分の方へよりよく出かけておりました。病院へいくにしろ、買い物をするにしろ、日常生活の中で別府、大分が一番近い町であったのです。県都松山ははるかに遠い町でしかありませんでした。」
 昭和30年(1955年)ころに、県立三崎高校に赴任された先生方や生徒の回想に、次のようなものがある。
 「昭和27年(1952年)の6月の30日、朝早く松山の家を出た29歳の私は、再出発の希望に燃えて、八幡浜の埠頭に立ちました。しかしその希望の底に潜む一抹の不安をかきたてるように、港の空には暗雲がたれこめ、吹きすさぶ突風が台風の接近を知らせていました。欠航を心配していた私たち数名のものを乗せて、木造の機帆船八幡丸は出航したものの、港を出るやいなや、おりからの突風にあおられ、その荒れようの激しさが、前途への不安をかき立てました。しかしどうにか船は引き返すことなく、やっとの思いで三崎の湾内に逃げ込み、出迎えの船で上陸することができました。暗い気持ちで降り立った私の前に、リヤカーを引いた生徒の一団と、数人の先生が出迎えていてくれたのでした。『大変でしたでしょう。』という言葉に私は温かい思いやりを感じ、私を必要としてくれている人たちがここにいるのだという思いが、不安をかき消し、新たな勇気のわき出てくるのを覚えました。」
 「昭和34年(1959年)4月3日、私は第六八幡丸の甲板に立って、新任地三崎の家並みを眺めていた。船が港に近づくにつれ、磯の香に夏柑の花の芳香が加わって、みかんの町三崎に来たのだという感慨が強くなるのを覚えた。当時、船は桟橋に接岸せず、人も荷物もはしけでのんびりと砂浜まで運ばれ、その間地元の人々が方言で話し合っているのを聞いていた。現在では埋め立てられ、近代的な建築物が並んでいる一帯も一面砂浜で、道路がその砂浜まで追っていた。」
 「昭和36年4月・・・八幡浜港から乗った船は島巡りを思わせるような畳敷きの船でためらいを感じながら乗り込みまして正座の人になったものの、人々は何か見知らぬ人という目で私を見ていたようでした。しばらくすると波しぶきをあげ揺れの激しさにとうとう座っておれず横になってしまいました。やがてエンジンが止まったのでついたのかと思って見ると海の中に船はただよって居り、てんま船が横づけになって人や荷物を積んで岸へと離れていくのです。このようにして船客はだんだん少なくなってゆき、三崎だといわれてほっとした時には私と少しの人になって居りました。しかし船窓から見る景色は浜辺で牛がゆうゆうとのどかに遊んでいたり、又青い山々や夏柑のみのる山なみは私の心をなぐさめ勇気づけてもくれました。・・・
 私より一年後に赴任してこられた先生は港におりたったところ、バスが止まっていたので『高校まで。』と言ったら車掌さんがけげんな顔をしており変だと思っていたところ動き出したとたんに着いてしまったと言って大笑いをしていた話もあるのです。このバスは三崎から八幡浜までを二時間半もかかって往復していたものでした。私も一度乗った事があるのですがえんえんと続くがたがた道に酔ってしまい命からがらという感じでたどり着いた事を覚えています。今は道路も立派になり、フェリーもつき、ずいぶん変わっている事と思います。」
 「私は正野出身で、高校時代は船で通学していました。この渡海船きくまるは串・正野の人にとっては、三崎以東へ行く大切な交通手段でした。朝の便は、毎日病院へ行く、じいちゃん・ばあちゃんや、三崎・八幡浜方面へ買い物等に行く人、そして三崎高校生で、いつも賑やかでした。しかも、ほとんどの人が顔見知りで、大人の人にとっては、船の中での会話も楽しみなものであったのではないでしょうか。
 そして天気のいい日には、女子生徒は、客室の上(外)に座って、『平凡』や『明星』の歌本をひらいて、楽しそうに港に着くまで歌ったりしていました。しかし、波の荒い日は、みんなが船室に入っていましたが、大きな波がくるたびに、横に大きく揺れるので、女子生徒がそのたびに『キャー』と言い、おもしろいというかスリルがあるというか、でも、やはり賑(にぎ)やかでした。このように、高校時代を船で通学できたことは、今の高校生が味わうことができない、貴重な体験であったように思えます。」
(昭和50年[1975年]第二十四回卒業生 きく丸は昭和50年廃止された。)