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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)土佐街道そして国道33号

 「今は人も通りませんが、かつての土佐街道は松山札(ふだ)の辻(つじ)から高知城下に通じる往還で、七鳥(ななとり)の熊野神社向かいから、蓑川(みのかわ)、二篦(ふたつの)、猿楽(さるがく)を経て雑誌(ぞうし)山に入り、土佐領へ通じていたのです。この街道跡には現在でも松山札の辻を起点とする里塚石が立っています。昭和30年(1955年)くらいまでは建築の材を積んで駄賃持ちが通行していました。戦前には土佐から干物、伊予からダイズ、アズキなどの産物が運ばれ、猿楽の大師堂の所では、相撲が行われることもあり、人の行き交うことも多かったのです。
 自動車運行については、戦前は愛媛自動車と伊予鉄道が合併して仕七川(しながわ)-水押(みずおし)間の運行が行われておりました。戦後昭和25年(1950年)に岩屋寺を経由する久万-水押線も開通し、東川の旅客運送路線が本格化してきました。
 昭和33年(1958年)当時の道路は国道以下すべてが道幅が狭く、カーブの多い砂利道でした。松山へ行くにも、御三戸から松山までバスで3時間かかりました。途中の三坂峠付近は勾配がきつくカーブも多く、しかも峠付近では、冬になると積雪凍結がひどく、四季には濃霧が発生し難所とされておりました。夏は窓をあけると砂塵になやまされ、途中での離合も大変でした。国道の改修が進み二車線になり、昭和37年(1962年)1月に松山-高知間に特急バスが運転されました。14人乗りのワンマンバスで一日五往復でした。途中の停留所は落出の休憩だけでした。
 昭和40年(1965年)7月には、国道改修にあわせて小型特急バスを改めて大型48人乗りの急行便が走るようになり、最初の停車駅は久万と落出でしたが、しばらくして御三戸にも停車するようになり、以前は松山-高知間5時間かかったのですが、3時間20分になりました。昭和49年には松山-御三戸間に国鉄が48便、伊予鉄が4便も走るようになっていました。
 道路網としては松山へは国道33号が結び、県道は西条-久万線、池川-久万線、美川-川内線、美川嶺-公園線、美川-小田線、美川-松山線の6本があります。幹線である国道の整備に続いて、主要県道の整備が進むにつれ、道路交通が発展してきました。御三戸-松山間もわずか1時間50分で結ばれるようになり、文化や経済の交流が容易になっていたのです。
 しかし自家用車の普及に伴うバス利用者の減少や過疎化の進行により、順次便数の減少や廃止などが起こるようになってきました。」