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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)海上交通の変化

 ア 郵便船

 「古い話ですが、明治41年(1908年)に魚島郵便局が設置されました。そのころ個人経営の櫓を使用する木造船が2隻あり、弓削からの郵便物も運んでいたので、郵便船とも呼ばれていたのです。郵便物だけでなく客や荷物も運んでいましたが、1日2便あったということです。今でも年寄りは定期旅客船を「郵便が来た。」とか「郵便船が来た。」などと言ったりします。そして船員さんが郵便物を配るのですが、この郵便船の配達は船の着くたびなので、1日2回の配達でした。
 現在は12時17分に着く船で、弓削から郵便物が届きます。配達人が弓削郵便局から配達委託されて配っているのです。この郵便船が村営になったのが昭和23年です。

 イ 村営汽船

 長らく離島性の解消を目指して、村営汽船の大型化、高速化、増便がはかられてきたのです。帆船から発動機船さらに鋼船へと移行し、個人経営から村営へと変わってきて、大正、昭和、平成と各時代ごとに、離島には珍しい優秀旅客船が就航してきたのです。発動機付きの第一魚島丸が大正13年(1924年)に建造され、弓削まで2往復でした。昭和13年(1938年)に第二魚島丸、昭和23年(1948年)に第三魚島丸、昭和33年(1958年)に第五魚島丸を建造して、これが30トンでした。昭和38年(1963年)にやっと鋼船うおしまを建造しました。74トンで弓削まで、1時間40分かかりました。また昭和46年(1971年)に、それまでの2航海が3航海になりました。鋼船第二うおしまが昭和49年で、これが1時間25分でした。第三うおしまが昭和55年(1980年)に就航しましたが、このとき魚島~弓削間が1時間10分に短縮されたのです。80トン、定員75人、480馬力の優秀旅客船で、事業費が約1億円でした。平成5年に高速船ニューうおしまが就航し、弓削までが45分になりました。平成8年(1996年)にニューうおしまによって、因島土生(はぶ)まで航路が延長されました。今は時代が変わったというか、非常に便利が良くなったのです。便利が良くなった第一は、因島に直行便ができたことです。それまでは弓削までしか定期船が通っていなかったのです。始めは2便くらいでしたが、今は因島まで4便あるのです。弓削まで着けて、すぐそのまま因島まで行くのです。今治よりも土生(はぶ)の利用というのが現在の段階で抜群に多くなって、買い物に不自由しなくなりました。病院なども当たり前のことになってきたのです。昔は病院に行くのは大変なことであったのです。今は因島だけでなく、尾道の病院へ行ったりして、病院利用者は以前とは比べ物にならない、今の20分の1か30分の1の比率であったのです。
 買い物も昔は魚島で買うしかなかったのです。天狗丸に頼み、渡海船が運んでくるのを待って買ったのです。今は2,000円で因島まで往復できますから、遊びのついでにちょっと買い物に行こうかということになっているのです。そういう面で、生活の程度が近代化というか、都会と似たようになってきたのです。あまり不自由することがなくなりました。」

 ウ 海上タクシー

 「昭和50年(1975年)から平成11年(1999年)の瀬戸大橋開通まで、海上タクシーが繁盛しました。5~20人乗りの客船で、船賃は定期船と同じか少し安いくらいでした。特に大橋の工事のある時期には、工事関係の利用が増え、そのせいで運賃が上がり、島の人の利用は少し減りました。
 昭和50年代に比べると利用は減っておりますが、40~50人の大勢の人が動くときは、今も盛んに使われております。葬儀の際は海上タクシーで親戚、近所の人が乗り合わせて出かけます。因島か今治か尾道の病院で亡くなることが多いので、亡くなった所の葬祭会館で葬儀を行うようになったのです。島での葬儀はほとんどなくなり、遺骨を抱いて帰り墓所に納めるようになっているのです。」