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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(2)新型カラーホルダーに命運をかけて

 ア 社員4人、印刷機2台の再出発

 「私が東京に持っていって販売したのはクリーニング店がワイシャツの仕上げに使う襟(えり)元のカラーホルダーです。しかし、その道のりは簡単なものではありませんでした。当時の社員は私を含めて4人、印刷機はたったの2台です。だから、あれこれと手を出すことはできませんから、商品開発の基本線を大量に使われ、そして使い捨てになるものとしたのです。そこで来る日も来る日も考え、だれかれともなく聞いて歩きました。そんなある日のこと、会社に出入りしていたデザイナーが立ち寄った折に、手にしていた袋の中に紙製のカラーホルダーのついたワイシャツが1枚入っていたのです。その瞬間、『これだ!』とひらめきました。ワイシャツといえば全国で何千万という人が着ているものです。そしてカラーホルダーは一度使えば、それっきりで捨てられるだけです。
 ところがカラーホルダーに目をつけたまではよかったのですが、蝶の形を浮き出させることは難題でした。印刷だけなら自前でできますが、蝶の形を浮き出させるためには型抜きが必要だし、そのための折り目をつけることも必要で、そういった加工用の機械を入れる余裕なんか全くないわけです。そこで思いきって地元の野本製函の当時の社長さんに相談したのです。すると利益が出るかどうかもわからないのに、なんと引き受けてくださったのです。後のことですがカラーホルダーの販売が順調に伸びていた昭和58年(1983年)にドイツ製の型抜機を導入しました。これで印刷も製函(せいかん)(原紙から型抜きをしたり、折り目をつけたり、箱型に成型したりすること)も自前でできるようになりました。実はこのとき、『ここまでやってこれたのだから、あとは自分のところで製函もやってみなさい。』とこの社長さんが勧めてくれたのです。普通の経営者ならそんなことは決して言いません。私からの仕事を引き続いてやっていれば、そこの会社の利益も増えていくからです。私が苦しんでいたときに、利益が出るかどうかもわからないのに引き受けてくれた方が、今度は自分が損をするのに、私の利益のために勧めてくださったのです。こういうすばらしい方との出会いにも私は支えられてきました。
 こうやってカラーホルダーの開発、生産は進んだわけですが、東京に打って出るためにもう一つ大切な準備がありました。それは輸送手段の確保です。いくら営業が上手くいき取引が成立しても、取引先は東京、大阪ですから、商品の輸送が必要です。複数の大手運送業者に話しを持っていきました。そして、仕事は私が命をかけて取ってきますからと必死にお願いしましたが、ほとんど相手にされませんでした。当時はまだセキ印刷でさえ東京に進出していなかった時代です。旧式の印刷機2台に社員4人の会社が、東京、名古屋、大阪をターゲットに商品を売り込んでいくんだと言ってみたところで、もっとましなことを考えてはどうですかとどの業者も思っていたのでしょうし、成功したところで、たいした利益にもならないと思っていたのでしょう。ところが、現在も取引のある日本通運さんだけは、話に乗ってきてくれたのです。たまたま松山支店の支店長さんが東京をターゲットにやってみようという夢を以前から持たれていたらしく、うちも協力するからやってみましょうと言ってくれたのです。そのうえで運賃も他の業者の3分の1という破格の値段(一箱14kg入りで150円)で引き受けてくれたのです。輸送コストは商品価格に響きます。東京の印刷業者なら、都内でけりがつくので輸送コストは微々たるもので商品価格に上乗せする必要なんかありません。そういう市場に乗り込むのですから、高いものを売ったのでは勝負にならないのです。だからこの値段は、本当にありがたかったです。
 こういう準備が整う中で最大の懸案であったのが営業資金です。借金を抱えて以来、多くの取引先や人が私から離れていきましたから。しかし、そんな中で愛媛銀行久米支店の支店長さんが、『**さんなら、大丈夫。』と私そのものを信頼して、必要な営業資金(総額約350万円)を支店長決裁で融資してくださったのです。こういった多くの人たちの支えや、商品の生産・輸送手段も整って、安心して営業に出られることになりました。あとは私がどれだけやれるかということだけになったのです。」

 イ 飛び込み営業と販路拡大

 「営業は私一人です。そして商品の販売方法はカタログによる通信販売としました。上京に当たって、この通販という販売方法も周りからずいぶん反対されました。今でこそカタログ販売はいろんな業界で普及していますが、当時は余り受け入れられていない方法でした。まして、印刷業界で通販をやったのはおそらく私のところが初めてだったと思います。でも、専門の営業マンを置こうにも社員は4人ですから、そんなことは無理だったのです。取引先とのやり取りは、基本的に電話とファックスですることにしました。通信販売のためにファックス(*26)を置いたのです。当時の松山の印刷業者でファックスを置いたのはおそらくうちが一番だったと思います。でも東京では松山とは比べ物にならないほど普及していました。当時はファックスの出始めの時期で、同じメーカー間でしかやり取りができず、印字も今よりもずっと不鮮明でしたが、それでも郵便なら5、6日かかったやり取りが、ファックスなら注文を受けるだけでなく、デザインや文字の校正も瞬時にできるのです。現在も営業マンは置いていません。とにかく私一人が上京し、時間はかかるかもしれないけれど販路を開拓し、順調に売上が伸びていけば、上京せずにやっていきたいと考えたのです。
 さて、上京をしてみたもののとにかく知り合いなんてありませんから電話帳だけが頼りでした。掲載されている会社の住所を訪ね、それこそ飛び込み営業だったのです。飛び込み先はクリーニング業界に業務用品を降ろしている資材商で、いわば元締めの所です。住所を探して訪ねていきますが、何せ土地に不案内ですから道に迷うこともしばしばで、一日に3か所まわるのがやっとでした。
 先方にしてみれば愛媛の名も知れない会社を相手にせずとも、同様の商品を作っている地元の会社はいくらでもあるわけですが、そこに入り込んでいくことこそが私の営業でした。営業に出るときは、まさか6,500万円の借金を抱えているとは微塵(みじん)も感じさせないような身なりで行ったものです。幸い、羽振りの良かったころにあつらえていた上等のスーツ類がありましたから、それらを着こんで飛び込んでいきました。群馬(ぐんま)県で訪問した商事会社では、会社の玄関を入るなり事務所内の15名の女性従業員がいっせいに立ち上がり『いらっしゃいませ』と声を掛けてくれたことがありました。後日談ですが、その会社の社長さん曰(いわ)く、来客者を全員が立って出迎えたのは私が初めてだったそうです。身なりは整えていましたが、やはり並々ならぬ思いが自分の体から出ていて、それが周りに伝わっていって第一印象をいいものにしてきたものと思います。とはいっても、初めて行ってすぐに商談がまとまるなんてことはありません。2度、3度と出向き、4度目ぐらいでようやくわかってもらえるという具合です。もし1度ですぐ受け入れてくれるようだったら、実はダメなんです。そんなところは、別のところから売り込みがかけられたら、私たちの方をすぐに捨てる可能性があるというわけです。
 東京都内を皮切りに群馬、愛知、岐阜、新潟、大阪、京都、広島、福岡、熊本と、1年という時間と、約350万円もの費用をかけて取引先を開拓していきました。こうやって開拓してきた取引先で、取引がなくなったところは不思議なことに一つもありません。」


*26:業務用ファクス 1970年代後半に開発されたが、通信料が割高であったことから主に大企業が導入していた。中小企業
  や商店などにもファクスが普及するのは、電話機を始めとする端末設備の接続が自由化された1985年以降のことである。