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えひめ、人とモノの流れ(平成19年度)

(3)取引先からの声を受けて

 「こうやって事業は順調に伸び、昭和60年(1985年)には松山市鷹子(たかのこ)町に第二工場を建てました。現在の場所に会社を移転したのが平成4年(1992年)です(図表4-2-5参照)。印刷業というのは、原料の紙があって、それにインクをのせて印刷するというシンプルな事業です。それにクリーニング業界用の商品に特化しましたから設備投資にしても、あれこれと手を広げなくとも資金を一つのことに集中できるメリットがあり、効率よく資金を回せたこともここまでやってこれた要因の一つです。    
 平成10年(1998年)からは中国や韓国との取引が始まりました。きっかけは東京や大阪で開催される商品の展示会に出展したことです。そういうところには多くのバイヤーが集まって来ます。そのバイヤーの中に中国や韓国の方もいて、うちの商品に目をつけてもらい、話がまとまって輸出することになったのです。いったん出回ると、商品には『新日本紙工 made in Japan』と書いてありますから、社名を頼りに注文も入ってくるのです。売上は今のところ1,000万円前後ですから、それほど大きなものにはなっていません。最近では現地に工場を建設しないかという話を取引先が持ってきてくれています。でも海外で生産したものを国内に輸入したところで、すでに国内の市場は飽和状態ですから、難しいところがあります。さらに国内のクリーニング業界からは注文した翌日の商品必着が原則ですから海外生産したものを国内に持ってくるには時間的に間に合わないと考えています。
 こうやって販路が拡大し、取引先に信用されていけばいくほど今度はあれもこれも作って欲しいという声があがってきます。それに対応すべくクリーニングのタック、伝票、サーマル用紙、ボールペン、さらにはセロテープやホッチキス、インクリボンと次々と品数を揃(そろ)えておかなければならなくなりました。つまり、米屋には米、酒屋には酒があるわけですが、だれしも個人商店を一軒ずつ回って買うよりも、一軒のスーパーで済ませてしまうのと同じで、品数が豊富でなければお客は逃げてしまうのです。そういうわけで、今では約700種類の商品を常に揃えた体制をとっています。
 しかし、モノによってはその開発がとても大変なものがあるのです。例えば、クリーニング用のボールペンです。これは大手のボールペンメーカーと共同で開発してきました。クリーニングというのは、家庭での洗濯とは違って、70℃近い高温で洗ったり、漂白したり、一晩クリーニング液(溶剤)につけておいたりと様々な洗い方がありますし、溶剤の種類もたくさんありますから、それに耐えうる文字の書けるペンでなければならないのです。メーカに委託し、研究してもらっていますが一筋縄ではいきません。ペン軸だけでも開発にもかなりの投資が必要だし、インクとなるともっとかかります。こうやって多額の費用を投じて開発しても、クリーニング業界用の特殊なペンですから、投資しただけの成果があるかどうかはわかりません。売れなければ開発にかかった費用はすべてこちら持ちとなり、大きなリスクを背負っています。それでもペン一つがなければ、他の商品にも響くのです。うちがペンを持っていないと取引先は他の会社にペンを注文し、その際ペンだけ注文するのも申し訳ないとか、面倒だとかで他の商品も一緒に注文されてしまうのです。つまりうちの商品に代わって他社の商品が売れ、うちの商品は買ってもらえなくなるのです。
 また、タック用の紙はもともと愛知県の業者から仕入れていましたが、20tぐらいの紙がどーんと届き、一回の支払いが800~900万円というやり取りでした。これでは儲(もう)けたお金のほとんどを、まず代金の支払いに充てなければならず、他の必要なところに回せなかったのです。そういう事情のところに、四国中央市の大王製紙が紙代の支払いは使った分だけで構わないという話を持ってきました。取引をやめるときには、全部の用紙の引き取りが条件でしたが、これなら年間で何千万となる支払用の運転資金がいらなくなりますから、仕入先を大王製紙に切り替えました。
 ところが、ここからは大変でした。紙といっても70℃の高温で20分間、そして油で洗うという工程に耐えられる紙なんて、なかなかありません。当初は大王製紙の担当者もクリーニングに求めれられる紙の質について、まさかこんなにもクリアしなければならない問題があるとは認識されていないようでした。『紙が溶けず、印刷された文字も消えなければいいのだろう。』というくらいの考えだったのです。だから、一緒になって7、8年は試行錯誤で紙質について研究し、10年くらいかかって本当に安心して使えるものになってきたと感じています。それがここ2、3年のことです。やっぱり一つの商品が業界に認知されていくには、これくらいの時間がかかるものなのでしょうね。私たちにとっては、全く未知の世界に飛び込んで、赤子が大人にならなきゃならないぐらいの大変なことでした。
 今でもお客さんからの苦情はありますし、全くなくなってはいません。タック紙そのものがぐしゃぐしゃになってしまったというのはまずありませんが、インクが落ちた、薄くなった、見えなくなったという苦情です。伝票とセットになっているタックでもクリーニング中に外れてしまって明日が結婚式だから取りに来たが、タックがないので見つからないという苦情もありました。また、何年も同じタックを使ってもらっていたところから、タックの赤インクが衣服についたという苦情などは今でもありますし、別にこっちがインクを変えたわけではないのですが、クリーニング店ではなく、こっちの責任だとクレームが来るわけです。ブランド品なら一着、何万円のものもあるし、たった一枚のジャンパーのために県外にまで直接謝りに行ったりしたこともありましたから、いいことばっかりではありません。
 こういうことを積み重ねながら今までやってきましたが、最近では家庭でドライクリーニングができる洗剤や水で丸洗いできる素材のように、わざわざクリーニング店に頼まなくていいような商品がどんどん開発されてきています。そういったことにも押されて、クリーニング業界は年々縮小する傾向が出てきましたから、それに対応すべく生産規模を徐々に調整してきています。しかし、私はお客さんが必要とする品物を、きちんと供給することのほうがずっと大切だと考えていますので、新しい機械を入れています。機械を入れるには費用もかかるわけで、本来はそれを回収しなければやっていけません。しかし、元がとれるかどうかは自分たちの都合であって、お客さんには関係のないことです。1台が壊れて生産が止まって、お客さんに迷惑をかけてはいけないと思うのです。
 私の人生を振り返ってみると10代のころから実に多くの人に大事にしてもらいながら歩んできたものだと思わずにはいられません。だれ一人を欠いても今の私はなかったし、ここまでぜったい私一人の力でやってきたのではなく、だれかに支えられてきたのだと感じています。今にしてみると私に借金を肩代わりさせた友人も、ここまで私をがんばらせてくれたことを思うと感謝しています。やっぱり事業をやっている人で、長く続けておられる方は、本当にいい人と巡り合いながらやってきていると思います。」