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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)家電『三種の神器』登場

 我が国で家庭用電化製品が市場に登場したのは昭和5年(1930年)ころであり、ラジオ、扇風機、アイロン、電熱器、冷蔵庫、洗濯機、掃除機などの輸入品または国産品が販売されていた(図表1-1-2参照)。しかし庶民にとって高価であったため、戦前に一般家庭に普及していたのはラジオ、扇風機、アイロンくらいであった(図表1-1-3参照)。
 昭和25年ころになり、ようやく各社から一般家庭向けの電化製品が市場に登場する。家電品の中で最初に普及したのは洗濯機であり、続いて白黒テレビ、電気炊飯器、冷蔵庫、掃除機の順で普及していった(図表1-1-4参照)。昭和35年の普及率は、洗濯機41%、冷蔵庫10%、掃除機8%であったが、東京オリンピックのあった同39年には、洗濯機は70%を超え、電気冷蔵庫も50%を超えた。電気掃除機は約40%で他の電化製品に比べると普及は遅れた。昭和45年になると、洗濯機92%、冷蔵庫93%、掃除機75%となり、昭和35年以降の10年間でほとんどの家庭に普及するようになった。

 ア テレビが家にやってきた

 テレビの普及は、新しい生活様式を全国津々浦々まで伝え、生活様式や食習慣の画一化、都市化を促すことになった。テレビは生活必需品ではないが、テレビを通して目で見て入る商品の情報(コマーシャル)やテレビドラマで見る新しい生活スタイルは、家庭における女性の生活スタイル、ライフスタイルに大きな影響を及ぼした。
 テレビの前に普及していたラジオは、大正14年(1925年)に放送が始まり、戦前から戦後しばらくは家庭の娯楽の主役であった。テレビ放送の開始後もテレビ受像機の価格が高かったため、しばらくは主役であり続けた。
 昭和28年(1953年)にシャープが国産第1号の白黒テレビ(14インチ)を発売するが、価格は175,000円と庶民にとっては高嶺の花であった(図表1-1-3参照:昭和30年松下電器は「テレビは一生のお買い物」というキャッチフレーズでテレビを販売)。この年NHK、日本テレビがテレビジョン放送を開始する。テレビが一般家庭に普及するきっかけとなったのは、昭和34年の皇太子御成婚のときで(普及率23.6%)、東京オリンピックの年(昭和39年)には、ほとんどの家庭にテレビが普及し(普及率92.9%)、家庭娯楽の主役はラジオからテレビに移っていった。 

 (ア)忘れられないラジオの思い出

 八幡浜市保内町の**さんは、終戦時の忘れられないラジオの思い出について次のように話す。
 「終戦時にラジオを持っている家は少なかったです。雨井(あまい)に住んでいたおじが、宮内(みやうち)の私の実家にラジオを疎開させていたので、終戦の玉音放送は近所中の人がうちの座敷に集まって聴きました。おばさんたちが敗戦を聞いて泣いていけませんでした。戦争に負けアメリカ兵が来るので、女は山へ逃げないかんとか、隠れんといかんとか話していました。私の家の近くに住んでいたおばあさんは、玉音放送の夜、敗戦のショックで首をつりました。歳をとって足腰が弱っているので、アメリカ軍が来ても逃げることができない、みんなに迷惑をかけるといって自ら命を絶ったのでした。これは忘れることができない事件です。当時の女性にとって、戦争に負けてアメリカ軍が進駐してくるというのは大変なショックでした。今考えたら何であんなにおびえたのだろうと思いますが、当時はアメリカのことについて何も知りませんでした。」
 戦後に聞いたラジオについて、東温市の**さんは、「『君の名は』がラジオで放送されていたころには、どの家もラジオを持っていたように思います。私は子どもでしたが、親と一緒に何が何でも聞いていました。」と話す。「君の名は」は、昭和27年(1952年)から29年にかけて放送されたNHK連続ラジオドラマで、毎週木曜日夜8時半になると風呂屋の女湯が空になったといわれる。ラジオは、テレビが出る前、家庭団欒(だんらん)の中心であった。

 (イ)テレビの前に近所の人集合
 
 テレビを初めて買った当時の様子について、保内町の**さんと**さんは次のように話す。
 「私(**さん)はテレビが家に入ったころのことをよく覚えています。私が中学生のとき、近所では初めてうちがテレビを購入しました。当時は相撲中継が人気で、夕方になると近所の人や勤め帰りの人がテレビ中継を見にうちに集まりました。私が学校から帰ると、すでに相撲は始まっており、家の前に人だかりができていました。普段テレビは座敷において大切にしていましたが、相撲のときはコードを伸ばして玄関まで持っていき、戸を開けて開放し、近所の人に見せていました。子どもから大人まで多くの人が玄関の前に集まるものだから、家の前の道をバスが通れませんでした。しかしバスの乗客も運転手も一緒になってうちのテレビを見ていたので、相撲が終わってからようやくバスも動きだすという状態でした。
 当時の白黒テレビはチカチカしてあまり映りはよくなかったように思います。近所でテレビを買った家があると、子どもが夜遅くまで上がり込み迷惑をかけるので、うち(**さん)も買うことになりました。みんなそんな感じでした。当時テレビは高価でした。皇太子さん御成婚のときか、東京オリンピックのときにみんな買っていたように思います。」
 四国中央市新宮(しんぐう)の**さんは「新宮では、昭和31年に**さんという人が西庄(にししょう)小学校に寄付したテレビが最初だと思います。近所の人はみんな小学校にテレビを見に行きました。」と話す。
 東温市の**さんは次のように話す。
 「テレビは高価だったので、近所ではお医者さんの家に入ったのが最初でした。その後、次々買うようになりましたが、当時は月賦で買っていたように思います。テレビが来てからは家族の団欒(だんらん)はテレビが中心になりました。今と違って家族みんなが一台しかないテレビの前に集まりました。」
 こうしてテレビの前に家族がみんな集まり、テレビを見ながら夕べのひと時を楽しむという典型的な家族団欒のスタイルができていったのである。

 イ 洗濯機は神様だった
   
 日本で最初に洗濯機を製造したのは東芝で、昭和5年(1930年)のことだった。戦後になって一般家庭向けに売り出したが、大卒の初任給が2,200円そこそこの時代に5万円以上したため売れなかった(⑤)。当時の東芝が街頭で実演販売したときの口上は「5人家族の奥様は、一年に象一頭分の重さの洗濯物を洗っています。」といったもので、当時の洗濯がいかに大変だったかを物語っている。昭和28年(1953年)に三洋電機が製造した洗濯機は、小売価格が28,500円と手ごろな値段(当時大卒初任給1万円余)になったため、洗濯機は急速に普及していった。三洋電機はこの昭和28年を「電化元年」と名づけた。
 作家の重兼芳子(1927年生まれ)は洗濯機が自宅に届いたときの感動を次のように述べている(②)。
 「一生のうちで最も忘れられない感動は、電気洗濯機を使ったときだった。(中略)洗濯機の中をいつまでものぞきこみ、機械ががたがた廻りながら私の代わりに洗濯してくれるのを、手を合わせて拝みたくなった。こんなぜいたくをしてお天道さんの罰が当たらないかと、わが身をつねって飛び上がった。」
 洗濯機の普及について、県内ではどのような状況であったのだろうか。
 保内町の**さんは、「たらいと洗濯板でしていたころは、近所の共同井戸に主婦が集まり洗濯をしていました。保内でも町中ではこんな様子で、井戸端会議に花が咲きました。私の家の近くの井戸は、杓(しゃく)でくみ上げられるほど浅い井戸でした(**さんは中心部の和田(わだ)町に居住。ここの井戸は突き抜きの井戸〔掘りぬき井戸〕。)。洗濯機が入ったころには水道も通っていたので、家の中で洗濯ができるようになり、井戸端会議はなくなりました。洗濯機は、スイッチを入れておけば他のことができるので助かりました。」と話す。
 また**さんは「保内でも周辺部になると各家の屋敷内に井戸があり、手押しポンプで水をくみ上げ、たらいを使って洗濯をしていました。当時は大家族で衣類は多かったのですが、3~5日に一度くらいしか着替えないので、洗濯物が多すぎて弱るということはありませんでした。手で絞るのですが、シーツなど大きなものは1人では難しいため子どもが手伝いました。洗濯機には脱水用のローラーがついていたので絞るのがずいぶん楽になり、乾くのも早くなりました。洗濯機を使い始めたころは、汚れが本当に落ちるのか不安でした。うちは農家なので、汚れがひどいものは手でごしごしこすって洗う必要がありました。洗濯機ではきれいにならないのです。それで洗濯機が入ってからも洗濯板はずっと使っていました。」と話す。**さんは「うちの祖母は、朝4時ころには起きて洗濯し、その間母が朝食の準備をしていました。私たち子どもが起きてくるころにはほぼ洗濯し終わり、一人で絞ることができない大きな洗濯物だけ子どもが絞るのを手伝いました。うちは商売をしていたので早朝に洗濯をすませていたのでしょう。商売人と農家、サラリーマンでは主婦の一日は少しちがいます。」と話す。
 新居浜市の**さんと**さんは洗濯板とたらいを嫁入り道具で持参したが、**さんは洗濯機を持参したという。結婚したのは**さんと**さんが昭和30年と32年で、**さんは昭和35年である。当時嫁入り道具に洗濯機を持参するのは珍しかったという。**さんは「私が生まれ育った垣生(はぶ)は、洗濯機の普及も遅かったのですが、私が嫁入り道具で洗濯機を買ってもらったというと、ある人は『お父さんは清水の舞台から飛び降りるつもりで買ったのでは。』と言っていました。」と話す。**さんは「家にあった井戸から手押しポンプで水をくみ上げ、洗濯板で洗濯していましたが、結婚して2、3年くらいたってから洗濯機を使うようになりました。私は結婚しても働くつもりでしたが、主人が許してくれなかったので、9年間は『専業主婦』でした。専業主婦といっても当時はやることが山ほどありました。年寄り夫婦を含めて家族が7人もおり、姑が子どもの面倒を見てくれている間に私は洗濯をしましたが、たらいでやっていたころは午前中いっぱいかかりました。主婦にとって家事を一番楽にしてくれたのは洗濯機でした。」と話す。
 四国中央市の**さんは、「洗濯機は昭和30年代前半に購入しました。それまでは木のたらいと洗濯板で洗濯をしていました。大小のたらいは嫁入り道具の一つでした。昔、冬にはネル(起毛した柔らかい厚手の毛織物)の寝巻きを着ていたので、これを家族全員分洗濯板で洗うのは大変でした。重いし絞るのも母と二人がかりでした。特に冬は冷たかったのでつらかったです。」と話す。また**さんは、「うちは川で洗濯のすすぎをしていました。川の水は生活用水に使っていたので、オムツなどは家のない下流まで行って洗濯をしていました。洗濯をする時間帯は、川の上流下流だいたい同じ時間帯であったように思います。この時間帯には米をといだりはしませんでした。洗濯機が入ってきてからは、たらいで洗濯をすることはほとんどなくなりました。」と話す。
 洗濯板とたらいで洗濯していた時代、県内では水道が通ってない地域が多く、井戸水や川の水を利用して洗濯をしていた。洗濯は家事の中でも特に重労働であった。洗濯機が入ってきたおかげで長時間の重労働から解放され、洗濯機が回っている時間に他の家事ができるようになり、家事の効率化が進んだ。女性にとってはテレビよりありがたい存在だったのである。

 ウ 冷蔵庫と食物保存の知恵
 
 我が国における電気冷蔵庫の製造は、昭和5年(1930年)の芝浦製作所(現東芝)から始まる。この冷蔵庫は内容積125ℓで重量が157kgもあった。その後改良され、昭和8年に国産電気冷蔵庫として発売されるが、価格が720円という当時庭付きの家が一軒買えるくらいの高額であった(⑥)ため、一般家庭には普及しなかった。電気冷蔵庫が一般家庭用に市販されるのは昭和27年(1952年)ころからで、昭和30年代に入り急速に普及する。
 冷蔵庫の普及により、食材のまとめ買いができるようになり、毎日買い物をする必要がなくなった。また事前処理できている食材や、調理にあまり時間をかけないでよい加工食品が保存できるようになった。もっとも冷蔵庫が普及し始めた当初は、食材のまとめ買いの習慣がなかったため、「冷蔵庫に入っているのはビールとバターとおかずの残りだけ(⑦)」という家も多かったという。
 四国中央市の**さんは、「冷蔵庫を買う前は、貯蔵の必要があるほど食べ物を作ったり買ったりしていませんでした。農家ではほとんど自給自足で、ジャガイモができる季節にはジャガイモばかり料理して食べていました。その時期時期でとれるものを食べており、自給できないものを店に買いに行く程度でした。当時は行商の人も盛んに来ており、寒川(さんがわ)の江之元(えのもと)から『おくずし』(かまぼこ、ちくわのような魚の加工品)を売りに来ていたので、たまに買うこともありました。余ったご飯は、『アジカ』という竹で編んだ籠(かご)に入れて、風通しのよい日陰につるしていました。朝と夕方では日の向きが違うので、つるすところを変えました。お餅もこうしてカビがいくのを防いでいました。」と話す。
 八幡浜市保内町の皆さんは、「電気冷蔵庫はぜいたく品だったので、買ったのは比較的遅く、昭和40年代初めのことでした。その日に食べるものしか買わなかったので、食べ残しを冷蔵庫で保存しておく必要がなかったのです。買いだめや買い置きはほとんどしない時代でした。電気冷蔵庫を買う前には、氷を入れて冷やす冷蔵庫がありました。木製で今のものに比べると小さく、ものは入りませんでした。この冷蔵庫に傷みやすい豆腐、魚、てんぷらなどを入れていました。」と話す。
 新居浜市の**さんは、「うちの父は氷を入れて冷やす冷蔵庫を自分で作りました。傷みやすいものはこの冷蔵庫に入れるか、竹で編んだ籠(かご)(アジカ)に入れて風通しのよいところにつって保存していました。戦後しばらくは食べるものもそんなになかったので、食べ残して保存しなければならないというようなことはありませんでした。電気冷蔵庫を買ったのは昭和30年代後半です。」と話す。
 東温市の**さんは、「日持ちしない豆腐でも、冷蔵庫があると3日ぐらいは保存できました。冷蔵庫のおかげで頻繁に買い物に行く必要がなくなり、2、3日分一度に買うことができるようになりました。」と話す。
 松野町の**さんは、「残りのご飯は『ショウケ』または『ツリジョウケ』と呼ぶ竹で編んだかごに入れて布巾(ふきん)をかけ、炊事場につるして保存しました。風通しが良い所にかけておくとご飯が傷みませんでした。当時は冷蔵庫もなかったのでこうして保存するしかなかったのです。」と話す。
 冷蔵庫は確かに便利な電化製品であるが、買い置きや余るほど食べる物を作らなかった時代には、差し迫って購入する必要がなかったようである。購入時期はだいたい昭和30年代末から40年代に入ってからで、主要家電品の中では比較的遅かった。主婦は残ったご飯を竹かごに入れて風通しの良いところにつるして保存するといったように、食べ物を少しでも長く保存する工夫をしていた。

 エ スイッチ一つでおいしいご飯が

 「スイッチひとつでおいしいご飯が炊ける」というキャッチフレーズで登場した電気釜は、かまどで苦労してご飯を炊いていた主婦の家事労働を大幅に省力化した。自動式電気釜は、昭和30年に東芝から初めて売り出される。当初は家電販売店や消費者も半信半疑であったが、実演販売により爆発的に売れ始め、昭和36年に愛媛県での普及率は52%に達した。
 保内町の**さんは、「電気釜では麦ご飯を炊いたことがないので、白米を食べるようになってから買ったと思います。昭和40年代になってからです。電気釜よりかまどで炊くご飯のほうがおいしいのですが、手間が省け楽になりました。かまどでご飯を炊くのは1時間くらいつきっきりでないといけません。掃除機も電化製品の中では比較的遅く、昭和40年代になってから買いました。近所で1軒買ったら、私も私もという感じで買いました。それまでは茶殻や新聞紙を濡らしたものをちぎってまき、ほうきではくといった掃除を日常的にしていました。」と話す。
 東温市の皆さんは、「電気釜とガス釜がありましたが、ガス釜のほうがおいしいし、速く炊けました。かまどで炊いたご飯の味を覚えているので、電気釜が入ったとき『おいしないねえ。』とみんな言っていました。ご飯を炊く時間が一番速いのはガス釜で、次いでかまど、電気釜が一番遅かったです。ガス釜は電気釜より後に出てきました。」と話す。
 新居浜市の**さんは、「私の家では、姑とご飯は別にしていたのですが、姑のほうが私より電気釜にするのは早かったです。私はかまどで炊くご飯のほうがおいしかったので、しばらくはかまどで炊いていました。姑が使っていた電気釜は、自動的に炊飯できるので便利でしたが、スイッチを入れてからもう一つ押す操作が必要でした。姑はこの操作を忘れることが多かったので、ちょいちょい押してあげていました。」と話す。
 四国中央市の**さん、**さんは、「電気(ガス)釜の普及により、スイッチ一つでご飯が炊けるようになり、朝早くからのかまどの番から解放されて楽になりました。電気釜よりガス釜のほうがおいしかったのでガス釜でご飯は炊きました。かまどの後は、電気釜も普及していましたが、ガス釜のほうをみんな使っていたように思います。」と話す。
 昭和30年に登場した電気炊飯器に対抗する形で、昭和32年に東京ガスが初のガス炊飯器を発売する。翌年大阪ガスもガス炊飯器を発売するが、同社HPによると「電気に比べ燃料費が4割安く、2割早く炊け、そのうえにおいしい」と好評で、初年度に9万個を超える圧倒的な売れ行きを示す。昭和37年には普及率が37%に達し、電気釜を上回っていたという。

 オ 生活時間の変化

 家電品の普及により、主婦の家事労働時間はどのように変化したのであろうか。裁縫時間が大幅に減少している。これは既製服の増加や「戦後、強くなったのは女性と靴下」(昭和28年に流行した言葉)の通り、丈夫なナイロンなど化学繊維の普及により靴下などの繕い物が減少したことが原因と考えられる。炊事時間もやや減少しているが、洗濯時間や掃除時間はむしろ増加している。洗濯機や掃除機の普及により洗濯時間や掃除時間が大幅に減少してもよさそうなものだが、一家庭あたりの衣類保有量や洗濯回数が増加したことや、洗濯物を広げて干す作業は省力化できないことなどが原因としてあげられる。昭和42年版科学技術白書には、家電品の普及による家事労働の変化について、「各種の科学技術の進展による製品の普及は時間に現れるよりは、むしろ省力化としてあらわれ、それによって得られた余裕は、より清潔でより美しく、より快適な生活の実現のための労働にまわされているとみられるが、他方、婦人の社会進出に力があったともいえよう。」と記述されている。家電品の普及によりもたらされた時間的ゆとりは、より手間をかけて料理を作ったり、掃除・洗濯をするための時間となっていったようである。
 家電品の普及は、家庭婦人(専業主婦)の生活時間も大きく変えた。
 昭和16年に11時間近くあった家事労働時間は、昭和40年には約7時間になった。それにつれて趣味や娯楽の時間は1時間あまりから昭和40年には約5時間に増加し、このうち約8割はテレビを見る時間であった。テレビの時間は昭和35年に1時間20分であった(この年ラジオは約2時間)が、昭和50年には5時間近くになり、余暇の大部分を占めるようになった。テレビの視聴時間が急増するのは家庭婦人だけでなく、成人女子全体の傾向であった(成人女子のテレビ視聴時間は昭和35年が1.00時間であったのに対し、昭和50年には4.02時間に増加している(⑧)。)。
 昭和30年代から40年代の日本は、高度経済成長および都市化の時代で、都市文化が農村に普及し、都市では地方の労働力を吸収し工業が著しく発達した。また、高速道路や新幹線など国をあげて建設ラッシュの時代でもあった。この時期の家電「三種の神器」をはじめとする電化生活の普及や、ガス、水道をはじめとする生活の都市化、洋風化は、自給自足経済を基調とした農村の生活を一変させるとともに、それらを手に入れる現金を得るために男性は給与所得者(サラリーマン)となり離農した。そのため今まで農業においては補助的な労働者であった女性が基幹労働力となり、「三ちゃん農業」(働き盛りの男性のいない農業のことで、三ちゃんとは、かあちゃん、じいちゃん、ばあちゃんの三人を指している。)や「かあちゃん農業」に変わっていった。昭和45年には農業就業人口の61.2%が女性となっている(⑧)。家電品の普及は、家事労働の革命をおこし、家庭内での女性の労力を大幅に削減したが、農家の女性にとっては、野良仕事の主体が男から女に移行し負担が増えた時代でもあり、生活全体的に見ると決して楽になったわけではなかった。また、高度成長とともに地域の産業も発達し、働く場が多くなった関係で農家以外の女性も外の仕事に出るようになり、家事労働の省力化は女性の社会進出を促進することになった(非農林女子就業者は、昭和25年の540万人から同50年に1,614万人となり、約3倍に増加している。(⑧))。

図表1-1-2 家電品等の歴史

図表1-1-2 家電品等の歴史

『昭和・平成家庭史年表(①)』、『昭和生活文化年代記2、3(②)』ほかから作成。

図表1-1-3 主な家電価格の変遷

図表1-1-3 主な家電価格の変遷

大学卒男子初任給は、事務系の全産業平均値。各社ホームページ、『物価の文化史事典(③)』などから作成。

図表1-1-4 主な家電品の普及率(人口5万人以上の都市)

図表1-1-4 主な家電品の普及率(人口5万人以上の都市)

『消費と貯蓄の動向(④)』から作成。