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えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(2)かまどからダイニングキッチンへ

 栄久庵憲司は『台所道具の歴史(⑨)』の中で「座って調理をしていた日本人が、立って仕事をするようになったのは台所史上の大事件である。(中略)高度な料理をめざし、しかも主婦の負担を軽くしようとしたのが『立働式』台所の成因であろう。」と述べている。
 元来、生活様式全般が床座式である日本では、台所も例外ではなく、かまどや流しも床に作られ、炊事作業は座って行われていた。広い空間で比較的単純な食事の用意をし、女性の地位が低い時代は座って炊事をすることが一般的であった。しかし都市化が進み、経済的に豊かになり、狭くなった台所空間で、バラエティーに富んだ料理を作るためいろいろな炊事作業を平行してやらなければならなくなってくると、いちいち座って炊事をしていたのでは能率が悪い。立働式台所への転換は、台所空間をより機能的に使い、豊かになっていく食生活を展開していくための自然な流れであったのである。『愛媛県における生活改善(⑩)』には、昭和20年代の台所の様子について、「床の上に足の踏み場もない程、まな板、鍋、食器類を漫然と置いて調理する事は、不衛生なだけでなく、作業姿勢も悪い状態だった。作業は中腰姿勢や前かがみ姿勢が多く、腰が痛い等の障害が出てきた。生活改良普及員は、すわり流しを立ち流しへと改善し、台所の衛生管理の指導にもつとめた。」とあり、戦後の生活改善活動により、座って炊事をする台所が立働式に変わっていったことが述べられている。
 立働式台所への転換は、水道、ガス、電気の普及によるところが大きい。水道、ガス、電気の三者が引かれることにより、台所仕事は一変する。水道が引かれることにより水くみの重労働がなくなり、水をためておく甕(かめ)も不要になる。ガスが引かれることで、かまどでの調理は必要なくなり、山に焚(た)き物をとりに行くことや、軒下に焚き物を積み上げ貯蔵する必要がなくなる。電気が引かれることにより、明るい台所での炊事を可能にし、後の家電品の普及による家事労働の大変革を可能にした。
 戦後、女性の地位向上に伴い、家庭で女性が受け持ってきた台所という場所がより機能的な空間として見直される。暗いイメージしかなかった台所は、ダイニング(食事室:茶の間)とキッチン(台所)がより有機的に結びつき、明るく開放的な空間へと変貌(ぼう)していったのである。この結果、家事の場と家族の楽しみの場が一つになり、ダイニングキッチンは家族団欒の場にもなっていった。
 台所が立働式に変わっていったころについて、四国中央市の**さんは、次のように話す。
 「昭和40年代になってステンレスの流しが入り、テーブルで食事をするようになりました。座って炊事をしていた時代に比べるとずいぶん楽になりました。私の家では、ステンレス流しを土間をつぶして座(床)を上げて設置しました。他の農家は、農作業から帰ってきてそのまま入りやすいように炊事場は土間のままで流しを設置していましたが、うちは外と区別して土間をなくしたのです。このとき、周囲の農家からは『百姓があんなことして』と笑われましたが、衛生的に考えるとこの方が合理的でした。土間の上に流しを設置すると、埃(ほこり)がいっぱい炊事場に入り、流しも汚れます。家の入り口で靴を脱いで上がるのは面倒でしたが、炊事場がきれいなままに保たれました。ただ忙しい田植えのときだけは、ビニールシートを敷いて外履きのままで上に上がり食事をしました。」
 新居浜市の**さんは、「私の実家では平成14、15年ころまでかまどが残っていました。このかまども五右衛門風呂も私の父が自分で作ったものなので、使ってはなかったのですが壊そうとはしませんでした。父が亡くなり、しばらくして家をバリアフリーに改築することになってかまどを壊しました。それまでは土間もありました。農家では、農作業の格好(地下足袋)のままで家に入り、食事をしてまた農作業に戻るのに土間があったほうが便利なため、かなり遅くまで土間は残ったのです。ご飯を食べるテーブルも土間に下ろして食事をしていました。」と話す。

 ア かまどで煮炊きしていたころ
 
 (ア)焚き物を集める

 かまどで炊事をしていた時代、都市部においては焚(た)き物を購入する場合もあったが、ほとんどの農山村では近所の山や神社から拾ってきた落ち葉や小枝を燃料として使っていた。燃料の確保は家庭にとって日々の重要な仕事であり、これを担っていたのは、ほとんどの場合女性や子どもたちであった。
 四国中央市の**さん、**さんは、「昭和20年代は、かまどの燃料は薪や製材所から買ってきたおがくずなどでした。薪は近所の山から拾って集めてきました。子どもの時にはよく『コクバかき』に行きました。『コクバ』は松の枯葉で、これを『ガンリキ』(落ち葉かきに使う竹製の熊手)でかき集めて、それを『カマギ』(カマス)というワラで編んだ大きな袋に入れて家に持って帰りました。山に入り、コクバや落ちた枝を集めるのは女や子どもの仕事でしたが、男の人も下枝などを切って持ち帰りました。それを家の裏に積み上げ、乾かして焚き物に使いました。」と話す。
 新居浜市の**さんは、「私たちが子どものころは薪などなく、風が吹いたら垣生山(はぶやま)に行き、落ちている松葉や『オロ』(細い木や竹。枝のたきぎ)を拾って帰り、これをかまどの燃料にしていました。拾いに行くのは女と子どもの仕事でした。」と話す。また**さんは、「お嫁に来た当初(昭和32年)、風が吹いた明くる朝早くに外でバタバタと人がたくさん動く気配がするので何事かと聞くと、近所の八幡(はちまん)神社の境内にたくさん落ちている松葉を拾いに行っているとのことでした。競争というか、奪い合いのようにかき集めていました。風が吹いた明くる日は、朝の4時くらいから家族全員で拾いに行くのですが、八幡さんの境内は、みんなが松葉を拾って帰るので掃除をした後のように本当にきれいでした。薪は買いましたが、松葉はただなので、ガス釜や電気釜で炊飯をするようになってからも、かまどがある間は松葉を拾いに行っている人がいました。」と話す。
 松山市の**さんは、「私の実家(東温市田窪(たのくぼ))は『ハラ』を持っており、ここに松やクヌギを植えていました。田窪は山がないので『ハラ』という焚き物をとる場所(平地林)がありました。ここには男の子たちがスクズ(松の落ち葉)も取りに行きました。クヌギは焚き物にするのに一番良い木で、炭にもなります。毎年冬になると近所の決まった人が一年分の薪を切ってきて、おくどさん(かまど)に入れられるように割って焚き物を入れる小屋に積み上げてくれました。」と話す。
 松野町の**さんは、「家の裏に自分の山があり、子どもはそこに薪を拾いに行きました。この辺では松葉ではなく杉葉を拾って帰り、点火用に使っていました。」と話す。

 (イ)麦飯から白ご飯に

 かまどで用意する主食は、時代により丸麦から押し麦、そして米に変わっていくが、米食への移行時期は地域によって異なり、都市部が比較的早かった。主食の変化に伴い炊事の手間は変化したが、電気釜、ガス釜で米を炊くようになるとその手間は劇的に軽減した。
 保内町の**さんは、「私が子どものころ、主食は押し麦のご飯でした。電気釜が入ったころには、主食は白米になっていたように思います。」と話す。
 東温市の**さん、**さんも、「ご飯は麦ご飯(米に麦を混ぜて炊いたもの)でした。戦前は丸麦も食べていたようです。丸麦はだいたい牛のえさでした。」と話す。
 新居浜市の**さんは、「丸麦は牛のえさで、戦後に私たちが食べたのは押し麦でした。ご飯を炊くのは日に一回です。お櫃(ひつ)にとり、夏は『アジカ』という竹で編んだかごに入れて風通しの良いところにつるしました。」と話す。**さんは、「私は子どものころから米を食べていました。母の実家が大農家で、祖父が母親に『孫に麦を食べさしたらいかん。』と米を運んでくれたのです。」と話す。また大阪で生まれ育ち、戦後新居浜に来た**さんは、「大阪では戦前から普通に米を食べていました。ご飯はガスで炊きましたし、ほかの調理もガスコンロを使っていました。」と話す。
 松野町の**さんは、「戦前、子どものころに主食だったのは丸麦で、おイモのカンコロ飯もありました。お米の中にカンコロを入れて炊くと黒っぽいご飯になりました。私はこれが嫌いで、食べなかったら親に怒られました。丸麦から押し麦になったのは戦後です。結婚した昭和24年ころ、嫁ぎ先では押し麦を食べていました。」と話す。
 四国中央市の**さんと**さんは、「戦前の農家は年貢(小作料)を取られたので、自分の家で食べられる米はしれていました。どれだけ働いても白ご飯を食べられるのは正月やお祭りのときなど限られた日だけでした。普段は雑炊が中心で、お米はほんの少しだけ、お芋、大根、ねぎなどを多く入れて食べました。戦前は丸麦が主食でした。丸麦は一回炊いた後、米を少し混ぜ(麦1升に米1合くらいの割合)、もう一回炊いてやっと食べられるようになります。白米を中心に食べられるようになったのは昭和30年代後半で、しかも全部白米ではなく押し麦を混ぜてのことでした。丸麦は炊くのに手間がかかりますが、膨らんで量が多くなるので、これを戦前から戦後しばらくの間食べました。昭和25年くらいから押し麦を食べるようになりました。押し麦(平麦)は、炊きやすいうえに丸麦よりおいしかったです。サツマイモ(カンコロ)はずっと食べていました。」と話す。**さんは、「新宮(しんぐう)では1日4回の食事をしていました。朝4時に起きて仕事を始め、6時ころに朝食、まずイモをある程度腹いっぱい食べてからご飯を食べました。ちょっとでも倹約するためにイモで腹を太らせたのです。次は10時ごろ、午後2時、そして夕食。夕食は夏の間は8時ころでした。」と話す。

 (ウ)かまどの思い出と台所改善運動

 松野町の**さんは、「所帯場(しょたいば)(炊事場)は土間で、そこにくど(かまど)がありました。焚(た)き口は二つで、真ん中にお湯が沸く筒がありました。くどは赤土でできていたように思います。ご飯を炊いたのは夜で、朝は残りの冷やご飯だったと思います。」と話す。
 四国中央市の**さんは、「かまどはどこの家にもかまや(炊事場)にありましたが、うちは別棟にありました。土のかまどで、焚(た)き口は二つ、真ん中に両方の火の熱でお湯を沸かすところがありました。かまどの火力を上げるために火吹き竹も使いました。土間でかまどの番をするときにしゃがむと疲れるので、わらで編んだ腰掛を使いました。」と話す。
 新居浜市の**さんは、「私が子どものころのかまどは、基礎の部分がレンガで、その上に赤土で作っていました。赤土が光っていたから、何か艶(つや)出しをかけていたのではないかと思います。火のまわりがよくなるように煙突もつけていました。二連のもので、前口でご飯を炊いて、奥でお惣菜などの調理ができるように段になっていた記憶があります。奥のかまどでは牛のえさの丸麦も炊きました。垣生では昭和25、26年ころに新生活運動(*1)が起こり、かまどや食生活、居住生活の改良、上水道の設置が進められたそうです。これは婦人会が先頭に立って起こしました。垣生に水道が入ったのも昭和26年で、最初は垣生村独自の水道(簡易水道)でした。当時婦人会で活動した90歳くらいのお年寄りに話を聞くと、垣生駐在所の奥に垣生公民館ができたとき(昭和24年)、ここに基礎はレンガで、その上にセメンを混ぜた赤土で楕円形のかまどを作りました。井戸水をくみ上げるポンプや調理台もそのときに一緒に作りました。調理台というのは今でいう流しのことで、レンガ造りで防水にセメンと赤土を混ぜたものを塗ったそうです。ここで婦人会が音頭をとり、生活改善の料理講習などをしました。料理講習といっても特別なものではなく、各家でしていた料理法の情報交換のような形で、『こうしたらおいしくできる。』というようなものであったらしいのです。」と話す。
 保内町の**さんは、「私が嫁入りした昭和38年には、まだかまどがありました。当時は『餅をとることと、ご飯を炊くことができれば嫁入りできる。』とおばあちゃんに言われて嫁入りしました。」と話す。**さんは「生活改善でかまどの改善をした結果、土からタイルやレンガのかまどに変わりました。当時はかまどでの炊事が主婦の一番の仕事でしたので、婦人会で取り組んだ生活改善の一番最初がかまどの改善でした。次にセメンの流しにタイルを貼り、きれいにしました。」と話す。また、ガスコンロが入ってきた当時のことを**さんは、「最初のころは、マッチで火をつけるのも恐る恐るで、『みんな離れとけ。』と言われ、遠巻きにして見ていました。ガスコンロは鉄のごついもので、ボンベに入ったガスを使いました。」と話す。**さんは、「ガスボンベが始めてきたとき、ボンベを触っていて誤って栓を開けてしまい、ボンと大きな音がしてびっくりしたことがあります。屋外だったので事なきをえましたが、危なかったです。昭和34、35年ころのことですが、ガスというものを知りませんでした。」と話す。**さんは「電気釜やガスコンロが入って次第にかまどは使わなくなりました。しかし、かまどのあった土間はかなり後まで残りました。農家の場合は、山着(仕事着)のまま地下足袋で出たり入ったりするので、土間は必要でした。土間にテーブルを置き、いすで食事ができるようになったとき、『ああよかった。』としみじみ思いました。」と話す。
 戦後の生活改善でまず取り組まれたのが、かまどの改善だった。従来の囲炉裏(いろり)や原始かまどは座ったり立ったりの煮炊きが大変な上に、煙突がないためトラコーマ等の眼病になる主婦も多かった。これを改良することにより、家事は楽になり燃料も節約できた。流しもすわり流しを立ち流しに、木製からセメン(人造石研ぎ出し)へ、さらにタイル張りへと改良された。こうして台所は、明るく清潔で動きやすい場所に生まれ変わり、女性の家事労働の効率化が進んだのである。

 イ 井戸から水道へ

 『台所道具の歴史(⑨)』には、水くみと女性について、次のような記述がある。「水運びは女の役目で、井戸水や泉と自宅の水がめの間を日に数回は往復しなければならなかった。近世に入って井戸の数が増えるまえには、水の便の良い家に生まれるか否か、水に恵まれた場所に嫁げるか否かは、女性にとって運命のわかれ目ともいえる大問題であった。(中略)近代水道が普及するまでこうした状態が続いていた。」
 水道の普及率は、全国的に見ると昭和25年(1950年)には26.2%だったが、45年80.7%に達した。愛媛県では昭和30年代になって本格的に普及し始め、40年代に飛躍的に伸びる。昭和35年に普及率44.5%だったのが、45年に75.6%、55年87.1%となった(図表1-1-8参照)。また、ガスも昭和40年ころから急速に普及しはじめた。
 水道が普及するころの県内の様子はどうだったのだろうか。東温市の皆さんは次のように話す。
 「洗濯機が入る前、洗濯は川でしていました。井戸もありましたが、くむのが大変でした。川の水はお風呂にも使っていました。水道がまだなかったのです。昔の人は『川の水は三尺(約91cm)流れたらもうきれい。』といって、シタミ(竹かご)を浸けたり、洗濯をしたり、子どもが泳いだり、いろいろ使いました。集落はだいたい川の筋にあったので、川は比較的近かったです。たいていの家の前には川幅40~60cmくらいの川(水路)がありました。昭和20年代に井戸水は手押しポンプでくみ上げていましたが、戦前はつるべを使っていました。井戸はモヤイ井戸(共同井戸)で、そこに天秤(てんびん)棒で桶(おけ)を担いで井戸水をもらいに行きました。
 また各家(特に農家)のウラには、『ツボエ』という川から水をひいた水路(堀:写真1-1-7参照)があり、ここで食器や野菜、シタミなどを洗いました。うち(**さん)にはオモテとウラに二か所ツボエがありました。ウラのツボエでは食器や食料品など台所関係のものを洗い、オモテのツボエで風呂の水をくんだりしていました。調理や飲料用には井戸があり、台所にある大きな甕(かめ)に井戸から水をくんで入れておくのは子どもや主婦の仕事です。風呂の水をツボエからくんで入れるのも子どもの仕事でした(**さんの家のツボエは、オモテは三畳、ウラは四畳半ほどの広さがあったという。ツボエは年に1回、お盆前に掃除をし、そのときにここにいるウナギやナマズをとって食べる。このツボエも簡易水道が通り必要がなくなったため、昭和45年につぶした。現在、ツボエのある家はほとんどないという。)。
 水道が通ったのはずっと後のことです。松山刑務所がこっちに移転したとき(昭和47年)に、その補償金をもとに重信町でも水道工事を行いました。最初は水道工事をするために各家庭がお金を負担することになっていましたが、『うちはお金を払えないから水道工事はかまわない。』と言う年寄りの家もありました。しかし、松山刑務所の移転補償金で町営の水道が引かれることになり、各家庭の負担はなくなりました。重信の中でも横河原(よこがわら)は特に水に恵まれなかったため、簡易水道工事が一番早く行われました。現在(平成20年)でも横河原の簡易水道は残っており、それで水道料金が安いのです(基本料金1か月400円)。平成21年には市営の上水道が通る予定です。」と話す。
 横河原は、明治10年(1877年)当時わずか10数戸の小集落で、樋口(ひのくち)・志津川(しつかわ)両村に属していた。ここの井戸は深さ7間から9間(約12m~16m)も掘らないと水を得ることができず、井戸掘りは大変であったという(重信川扇状地の扇央にあたり、地下水位が深い。)。冬や旱魃(かんばつ)時には水が枯渇した。明治32年伊予鉄横河原線が開通し、駅を中心に集落が発達するが、水の確保が最大の課題となった。そこで有志が立ち上がり、昭和5年(1930年)に簡易水道(組合水道)を完成させる。重信町内ではそのずっと後の昭和40~50年代にかけて組合簡易水道や町営簡易水道が整備されていった。
 新居浜市の**さんは、「子どものころは、学校から帰ったら井戸からつるべで水をくみ上げ、大きな甕(かめ)に運ぶのが兄と私の日課でした。牛の餌(えさ)にする草刈りと水くみは子どもの仕事で、兄弟男女の区別はありませんでした。戦後間もないころのことです。井戸は共同井戸で、地続きの本家にある井戸水をもらいに行きました。当時はお風呂の水も井戸からくんでいました。私の住む垣生(はぶ)に水道が通ったのは昭和26年です。水くみは本当に大変だったので、水道は家電品が入ってきた以上にありがたかったものです。」と話す。西町(にしまち)に住む**さんは、「結婚した当時は水道がなく、昭和34、35年くらいに市が水道を引いてくれることになったのですが、うちの近所は各家でモーターポンプを備え付け、井戸水をくみ上げるようにしていたので、料金がかかる水道をなかなかひこうとしませんでした。うちは水道を引いたのですが、本当に楽になりました。」と話す。
 松野町の**さんは、「子どものころの手伝いは、ほとんど下の子のお守りでした。それと井戸からの水くみもさせられました。うちのすぐ横に井戸があり、近所4軒くらいがこの井戸を使っていました。井戸水は大きな長い杓(しゃく)ですくってバケツに入れ、炊事場の流しの横にあった大きな甕(かめ)に運びました。この水でご飯を炊き、洗いあけもしました。流しはセメンのものでした。水は豊富で不自由はしなかったのですが、水くみは結構しんどかったです。」と話す。
 四国中央市の中曽根(なかぞね)に住む**さんは、「水道が通る前、生活用水は川の水でした。夜中に川の水をくみに行き、大きな甕に入れておきました。夜12時過ぎに行くと、どこも水を使っていないので川の水はきれいでした。水をくむのは主婦の仕事で、『オーコ』という担い棒の前後に木桶(おけ)をさげて水を運びました。家から川まで遠いところは大変な重労働でした。水を運び終わってやっと主婦は床につくことができましたが、朝早く起きてご飯を炊かなければなりません。当時の農家の主婦は早朝から夜中まで働きづめで、今のような人間らしい生活などできませんでした。まさに働く道具でした。」と話す。四国中央市でも場所により水事情は異なり、**さんの住む中之庄(なかのしょう)地区は早くから水道が通っていたという。
 保内町の**さんは、「上水道は川之石(かわのいし)地区では昭和28年から29年にかけてひかれましたが、ほかでも地区ごとに簡易水道のようなものがありました(保内町では昭和48年までに上水道の一本化がほぼ完了した)。地区内で水源地を確保し、そこから各家にひいていました。私が子どもの時には、地区に泉が2か所あり、そこに母たちが天秤(てんびん)棒を担いでくみに行っていました。」と話す。

 ウ 箱膳からちゃぶ台、テーブルへ
 
 食事の風景も戦後大きく変化する。戦前から戦後しばらくの間使われていたのは箱膳で、これは個人個人の食器を入れた箱の上蓋(ぶた)を裏返し、中から取り出した食器を並べて個々の食卓として食事をするものである。食べ終わった食器は漬物で残りかすをふき取って食べ、お茶を注いですすぎ飲み干した後、また箱の中に入れて片付けた。食器を洗わないのは、各家に井戸がない時代に水は貴重であったからである。また、箱膳を使っていた背景には、主婦も農業等の仕事に従事していたため忙しく、食器を片付ける時間がなかったこともあげられる。子どもは小学校に上がると自分用の箱膳を渡され、家族の一員としての自覚を促された。また、父親は家長として一番偉く、上座に座り、ほかの家族より一回り大きく立派な箱膳で食事をするのが一般的であった。
 戦後、水道の普及や衛生観念の向上に伴い、ちゃぶ台での食事が中心になっていく。ちゃぶ台は、大都市では明治の中ころから使われ始め、昭和初期には全国的に広まっていたが、地方では戦後まで箱膳が使われていた。
 ちゃぶ台は、一つの食卓をみんなで囲んで食事をするという西洋文化と、座って食べる日本文化の折衷品である。ちゃぶ台の登場で、主婦はそれまで家族の一人ずつに盛り分けていた食事を大皿でいっぺんに出せるようになり、配膳においては手間が省けたが、食事のたびに食器を洗う必要が出てきた。箱膳と違い食器を共用し、食事の洋風化に伴い油料理が増えたため、洗わずには済まなくなったのである。また、箱膳の上で限られた食器にしか料理を盛ることができなかった時代には、御飯と味噌汁とあとは少しのおかずと漬物くらいの食事であったが、ちゃぶ台になると食器の数や大きさがある程度自由になったため、バラエティーに富んだ献立が可能になった。食事作法も箱膳の時代は、家長である父親を中心に姿勢を正し静かに食べていたが、ちゃぶ台になるとお互いに顔を合わせ和やかに楽しく会話しながら食事をするようになっていった。
 こうして一つの食卓を囲み、食事をしながら家族団欒(だんらん)をするという、漫画「サザエさん」に出てくるような戦後の食事風景が定着してゆくのである。
 県内で箱膳からちゃぶ台へ移り変わる様子はどうであったのだろうか。
 東温市の皆さんは、「私たち(**・**さん)が子どものころ(昭和20年代)は箱膳で、食べた後、食器をきちんと洗って箱膳の中に入れ、水屋の中にしまいました。私たち(**さん、**さん)の家では、小さいときからちゃぶ台で食事をしました。
 水道が通る前、私(**さん)の家では家族の食器は全部バケツの中に入れてツボエの水で洗い、最後は井戸水できれいにゆすいで竹で編んだ網に伏せて水をきり、きれいに拭(ふ)いてからそれぞれの箱膳にしまいました。箱膳からちゃぶ台に変わるのは、昭和20年代半ばでしょうか。だいたい農家の人は、お昼ご飯のときにヨマ(畳の間)に上がらず土間で食事をするのですが、そこへ運ぶのに箱膳は便利でした。茶碗を配ったり箸(はし)を配ったりの手間も箱膳なら省けます。農家でないところではその必要がないのでちゃぶ台を使っていたのではないでしょうか。農家も後には土間にテーブルとイスを置いて食事をするようになります。」と話す。
 松野町の**さんは、「私が子どものころ、ご飯は箱膳で食べましたが、父の箱膳は家族のものと違い、脚のついた立派なものでした。食事のときも父が座る席は決まっており、父がいないときも誰もそこには座りませんでした。戦時中は、出征していた4人の兄たちのために、母は毎日陰膳を供えていました。小学校に上がるころに自分の箱膳を持つことができますが、うちは兄弟が多かったので一つの箱膳に3人くらいの食器をしまっていました。箱膳での食事は、最後に使った茶碗でお茶を飲むのが習慣でした。食器を洗わずにしまうのが私はいやで、炊事場で洗ってからしまいました。そのころの箱膳はあまり気持ちの良いものではなかったのです。箱膳からちゃぶ台に変わるのは小学校高学年のころ(昭和10年代)です。」と話す。
 四国中央市の皆さんは「昔は家族一人ひとりが箱膳で食事をし、食べ終わったら洗わずに箱の中にしまっていました。朝昼晩とこれを使うので、そんなに不衛生ではありませんでした。箱膳は家族それぞれに一つずつありましたが、父親のものは一回り大きかったです。食事が終わったら家族の箱膳を重ねて片付けました。これを終戦のころまで使っていたように思います。戦後になってちゃぶ台を使うようになりました。箱膳を使っていたころは、お父さんが一番の上座に座り、家族の座る位置が決まっていました。ちゃぶ台になってからは、みんなで一つの食卓に座って食べるので家族の会話がよりできるようになりました。いずれにしても主婦は食事の世話をしなければならないので一番端っこの台所で動きやすいところに座りました。」と話す。
 松山市の**さんは、「私は4人兄弟です。女は私一人で、あとは兄と2人の弟がいました。長男は跡取りということで大切にされました。子どものときは、8畳の茶の間にあった比較的大きなちゃぶ台で食事をしました。当時うちには住み込みの女中さんと、近所から通ってくる『ばあやさん』がおり、家事全般をしてくれました。食事の時の座席は、一番上座に父、ついで祖母、長男の3人、次に弟2人、私、そして炊事場に近い一番の下座に母が座りました。茶の間より一段低いところに板の間があり、女中さんはそこで食事をしていました。食事を運んだり片付けたりするのは女中さんですが、母も動きやすいように一番の下座に座っていたのです(図表1-1-12参照)。魚料理などのおかずも父が一番大きなもので、あとは座席の順に小さくなり、母が一番小さなものを食べていたように思います。食事作法などのしつけも今から考えれば厳しかったのですが、当時はそれが当たり前でした。」と話す。
 家庭により事情が異なるが、昭和20年代半ばころまでには、ほとんどの家庭で箱膳からちゃぶ台に変わっていったようである。


*1:新生活運動は、昭和20~30年代に各地の婦人会などが虚礼廃止などの生活の合理化を目指して行った運動。昭和50年代
  に下火になった。

図表1-1-8 愛媛県の水道普及率

図表1-1-8 愛媛県の水道普及率

『愛媛県史資料編社会経済下(⑪)』から作成。

写真1-1-7 復元されたツボエ

写真1-1-7 復元されたツボエ

東温市北方。平成20年12月撮影

図表1-1-12 食卓の座席例

図表1-1-12 食卓の座席例

調査協力者から聞き取り作成。