データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

えひめ、女性の生活誌(平成20年度)

(1)「朝は朝星、夜は夜星」の生活

 主婦の一日は朝食の準備で始まる。農家など主婦も労働者として働く家庭では、朝早く洗濯も済ませておく必要があった。このため主婦は現在よりかなり早く起きた。また夜は夜で繕い物があった。暗いうちから起きて家事をし、日中は日が暮れるまで野良仕事など労働者として働き、夜はまた家事をこなす。戦前から戦後しばらくの間は、まさに「朝は朝星、夜は夜星」の生活だったのである。

 ア 朝一番に起きる

 保内町の**さんは、「うちの祖母は、朝4時ころには起きて洗濯し、その間母が朝食の準備をしていました。私たち子どもが起きるころには、ほぼ洗濯し終わっていました。うちは商売をしていたので早朝に洗濯をすませていたのでしょう。他の家では朝みんなが出かけた後、午前中に洗濯していたのではないでしょうか。商売人と農家、サラリーマンとでは主婦の朝は少しちがいます。家族が大勢いる家では、洗濯だけで午前中いっぱいかかります。洗濯機が入ってからは、スイッチを入れておけば他の家事ができるので助かりました。」と話す。**さんは、「私の里は農家で、母や祖母の朝は早かったです。また蚕で忙しい時期には、『夜中だし』といって2時ごろ起き、雨になりそうなときは桑取りにも行きました。その時期でなくても、ふだんから4時や5時には起きていました。主婦は家のことから『子やらい』(育児)も全部しなければなりません。夜は夜で繕い物があり寝るのは遅く、病気する間もないくらい忙しかったのです。」と話す。「それでも今に比べると夜寝るのは早く、9時ごろまでには寝ていました。」と**さんは話す。
 東温市の**さんは「母は朝4時か5時には起きてご飯を炊いていました。妻は旦那(だんな)に素顔を見せてはいけないと言っていた時代なので、髪をとき、お化粧をしてから炊事にかかっていたのではないでしょうか。」と話す。**さんは「私の母は朝起きてご飯を作って、子どもを学校に行かすまでに洗濯もほとんど済ませていたように思います。そのあと田んぼに行くのです。地域のほとんどが農家でしたので、みんなそんな状況でした。」と話すが、**さんは「私は専業主婦でしたので、子どもを学校に行かせてから洗濯をしていました。」と話す。
 新居浜市の**さんは「戦前は牛を農耕用に飼っており、農家の主婦は牛の世話も大切な仕事でした。牛の餌(えさ)は丸麦でしたが、それを前の晩から水につけておき、朝起きたらかまどに火を入れ、家族のご飯の準備をする前にこれをかまどで炊き、ある程度出来上がってから家族の食事の準備をしていました。家族のご飯より牛の餌(えさ)のほうが先だったのです。したがって私の母は午前4時ころには起きていたように思います。」と話す。**さんと**さんは「私たちの実家は農家でないので、母親はそんなに早くは起きていませんでした。」と話す。

 イ 買い物は近所で

 保内町の**さんは、「魚は、川之石(かわのいし)や伊方(いかた)の行商の人が天秤(てんびん)に担って売りに来ていました。買い物に行くことはあまりなく、野菜は農家だったので自給自足、かまぼこなどもかごに入れておばさんが売りに来ていました。味噌(みそ)・醤油(しょうゆ)は自宅で作る人もいるし、問屋のようなところが年に2回くらい樽(たる)に入れて配達にも来ていました。豆腐屋さんは近所にあり、自分の家で作った大豆を持って行き注文すると、手間賃だけで安く豆腐が手に入りました。買い物に行くことはほとんどなく、忙しかったので買い物の時間というのは覚えていません。」と話す。**さんは「私は比較的町に住んでいたので、豆腐やてんぷらを買いに近所の店に行きました。周辺部から川之石に嫁入りした人は、『朝から豆腐やてんぷらの買い物がある。』と驚いていました。」と話す。
 東温市の皆さんは、「農家が多いので野菜は自給できました。八百屋さんや豆腐屋さんはリヤカーで売りに来ましたし、買い物籠(かご)を下げて買いに行く場合もありました。魚は午前中に三津(みつ)(松山市三津)や松前(まさき)(伊予郡松前町)から行商の人が売りに来ました。伊予鉄に乗り、ブリキの缶に魚を入れてきて売り、もうけたお金で米を買って帰りました。レジ袋などない時代なので、主婦はおのおの籠(かご)を持って買い物に行きました。今はマイバッグなどといっていますが、当時は全員マイバッグで、『ヤミカゴ』と呼ぶ紐(ひも)や竹で編んだ籠でした。この辺の主婦が、伊予鉄に乗って松山に買い物に行くことはあまりなかったのですが、洋服(よそ行き)や和服を新調するときは松山に出かけました。嫁入り道具は松山でそろえましたが、普段着や野良着は各村に一軒くらい衣料品店があったので、そこで買いました。川内(かわうち)にも呉服屋、洋服屋はありましたが、結婚が近づくと松山市内の呉服屋がやってきて注文をとって帰りました。川内は重信より交通の便が悪かったので、わざわざ松山の呉服屋さんが注文を取りに来ていたのでしょう。」と話す。**さんは、「ほとんどの生活は地域で完結していた時代であり、松山に行くのは主婦や子どもにとって年に1回か2回の楽しみでした。祖母の話によると、重信川の水量が多かった時代は川を渡るのが大変で、『渡し屋さん』に頼んで渡してもらったといいます。祖母の時代に横河原橋はなく、重信川が増水しているときは、そうしないと渡れなかったのです(大正8年〔1919年〕に簡単な木橋が架設され、昭和5年〔1930年〕にコンクリート橋、同30年に現在の横河原橋が完成する。)。」と話す。
 松野町の**さんは、「松野町には『担ぎ屋さん』が来ていました。魚や乾物などを売っていましたが、着物とお米を交換したりもしていました。宇和島(うわじま)から予土(よど)線に乗り吉野生(よしのぶ)駅まで来て、そこから歩いて各家をまわっていました。私が子どものころは、宇和島に行くのは大旅行のような大変なことで、めったに行くことはありませんでした。」と話す。
 県内の各地域で都市部と周辺部の違いはあるが、買い物については各地域に簡単な店はあり、様々な行商の人も来ていたため、地域内で済ませることが多かったようだ。女性は買い物に時間をかける暇はなく、遠くまで行ったりするようなことはめったになかったようである。

 ウ 夜なべして繕い物

 窪田聰作詞・作曲「かあさんの歌」は、昭和33年(1958年)に発表された。「かあさんは夜なべをして手袋編んでくれた・・・」という歌詞は、当時の代表的な夜の風景であった。愛媛県内各地でも、戦後当分の間このような風景が見られた。
 東温市の皆さんは、「子どもの服などは夜なべしてよく縫いました。靴下の破れたのを繕ったり、子どもの編み物をしたりで、夜もやることがたくさんあったのです。そういったことができるのがいいお嫁さんでした。昔の子どもはみんな母につぎあてをしてもらったズボンをはいていました。私たちが子どものころは、母が寝ている姿は見たことがありません。雨の日は農作業ができず、母が家にいて繕い物をしたり、お菓子を作ってくれたりするのでうれしかったです。」と話す。
 新居浜市の**さんは、「母は夜、私たち子どもが勉強している傍らで繕い物をずっとしていました。そのとき父は土間におり、木槌でワラをたたいていました。ワラ細工をするためのワラです。昼間父は会社に行っており、百姓をするのは休みのときくらいで、母が主に野良仕事をしていました。」と話す。